10.六部殺し
10.六部殺し
明朝、長老の息子が笑顔で床に臥せる渡辺藤を見舞った。
「あいやそのままで。――よくぞ御無事で」
喉の包帯が痛々しい。
息子――といっても壮年だが――の喜びは如何許か。
羅紗の包みを手渡した。重い。銀子だ。
渡辺藤が隣の部屋に目をやった。
「ええもちろん同じだけのものを――いやそれ以上のものをお渡しいたします」
渡辺はそれを聞いて安心したのか、目を瞑った。
しばらくここに滞在することになるだろう。
静かに障子を閉めた背後に、三郎が立っていた。
「おっおう、おられたのですか?」
「ああ。渡した薬で養生させるがイイ。――さて?」
「お話しいたします。奥へ」
奥に茶の炉があった。
まずは茶を一杯ということらしい。まだ寒い朝には馳走だ。
油滴天目。
薄茶点前。
「頂戴いたします」
三口で飲んでしまう。
「何からお話しすればよいのか……」
茶碗を観ていた三郎が「偽物だな」と言った。
「何を仰いますやら……」
長者とその息子が失笑した。
「茶碗は真贋の疑いない。――偽物だと言ったのは人のほうだ」
「と言いますと?」
「二番は結界がどうとか言っていた。それが気になったのさ。――結界は守るためにある。術は播磨の陰陽師――名はどうあれ芦屋道満その人だろうさ。――となると、渡辺藤が切ったのか? 律義な女がそんな不法をするはずがない。させるとしても足が残る。――では誰だ?」
「どなたなのです? 結界を切ったのは?」
「オレだ。――いや違うな。正確にはあの剣士だ。羆の心の臓を一突きした。イイ高手だ。剣士は熊とは聞いていたが蝦夷羆だと知らなかったんだ。とはいえ、羆を始末して、結界を切った。後は薬売りの少女――まあオレだが――を棺に入れる算段だった。何故盗ったか? そりゃあ賊が分不相応な銀子を武士から受け取っていれば気づく。どう羆を仕留めようか思案していて、目の前にそれがあれば利用する。で、結界を切った。やはり切ったのはオレか」
「どうしてそのようなことを?」
「さてな。人間(※)は善悪では割り切れんのだろう……」
※人間とは人の住む現世をいう。
三郎が長者の顔をじっと見た。
「……痺れ薬ですよ」
「……」
「法師さまから、あなたを差し出せば呪いは消えると聞いておりますでなあ」
長者が紐を取り出した。二本。
「渡辺さまには、既に出立したと伝えておきますので」
長者と息子が三郎の両手を押さえ、息子が三郎の脇差に手をかけた。
鯉口を切っていた刀は流れるように鞘から飛び出し、長者の片手首を落とした。
「何!」
三郎が、息子の手首を叩き折り、その反動で身を起こした。手に脇差。
「悪事をするには要領を得ることだ」
悪意の想像力がない者は、愚者である。
「――旅人が『六部殺し』を知らぬ訳なかろう」
六部は六十六部の略で、書写した六十六部の法華経を霊場六十六箇所に一部ずつ納めて回る行脚僧をいう。「六部殺し」は六部を殺し金品を奪った者が呪われるという怪談の一つである。
後年の折口信夫の研究では、この時代の旅人を異人とする説がある。客人が若ければ女を与え子宝を得るという。なお、老いた旅人を殺して金品を奪うのは俗説に過ぎない。
「どうして……?」
「薬は案外匂いが残る」
戦う意志はもうないらしい。そもそも殺そうとはしていない。
脇差の血を茶巾で丁寧に拭って鞘に納めた
三郎が懐から包帯を出した。長者の手を止血する。
血塗れた茶巾と柄杓で息子の手首を固定して紐で結んだ。
「痛み止めは銀一分だ」
もちろん冗談である。
*
長者の家の玄関で、若人が三郎に深く頭を下げた。長者の孫にあたる少年だ。
その半歩後ろにいるのは人身御供に選ばれた姉だった。
二人の面影は道満二番を想わせた。