三題噺『森、化物、宗教』
星が輝き始めた空を一台の車が横切る。空飛ぶ車を運転しているのは、まだ若い女性だった。自動車の運転補助システムが耳障りな警笛を発するのも聞こえないかのようにアクセルを踏み込んだ。発生した強風で眼下に広がる森がざわつく。助手席のチャイルドシートには、泣きわめく小さな幼児が座らされていた。
女児の腹部は異常なほど丸く膨れ上がり、空気を入れすぎた軟式バレーボールのように張り詰めている。チャイルドシートがわずかに浮いた。子供の体が浮力を得た風船のごとく浮き上がる。化け物のようにおぞましい我が子の叫び声と自動車の警笛で、車内に安心できる空気は少しも残っていなかった。
「神様っ……」
脂汗を浮かべながら、祈るように母親が呟く。森の奥深くにある小屋へ、吸い込まれるように車が降下していく。
自動車が着陸したのと、木製の扉が開いたのは同時だった。眠たげな目をこすりながら出てきた女性が車の方へ歩み寄る。チャイルドシートが固定されている座席ごと浮き上がり、助手席のドアが変形していく。車内の天井にぶつかりそうになる子供を、母親が必死の形相で抱きしめた。子供はもう泣く力もないのか、小さくしゃっくりを上げるだけだった。
「あのっ、ジェルバ先生ですよね? 助けて、助けてください! 娘が!」
「大丈夫よ、お母様。落ち着いて。グレムリンにいたずらされてるだけ」
先生と呼ばれた女性が空中に魔法陣を描いた。一部分が鉄塊になった車体から、母親と子供が救出される。母親の肩に一滴落とされたラベンダーのアロマが、昂っていた緊張をほんの少し解きほぐした。
「この子は、リヒトはどうなるのですか」
「心配しないで。ちゃんと助けるから」
長い、しかしよどみない詠唱の直後に、光の柱が何本も女児を取り囲む。いくつもの魔法陣が複雑に重ね合わされると、チャイルドシートと子供の体から黒い霧が噴出した。
「もう大丈夫よ。お母様も娘さんもよく頑張ったわね」
すっかり普通の体型に戻った子供は泣き疲れたのか寝息をたてていた。地面に置かれた座席ごと、母親が我が子を抱きしめる。
「今夜はもう遅いし、泊まっていって」
「そんな、夜遅くに押しかけただけでもご迷惑でしょう」
「壊れた車の手配をするにも時間がかかるわ。お母様の顔色もよくないし。もう少し詳しくお子さんの診察もしたいわ」
「ありがとうございます、先生」
差し出された手を母親がつかむ。女性が杖を振ると、チャイルドシートから子供が浮き上がった。母親に受け止められた女児が小さくくしゃみをした。
「森の夜は冷えるわ。さあ、こちらへ」
暖かな光に満ちた小屋へ招き入れられた母親が安心したように肩の力を抜く。壁にかけられた古い絵画には、ジェルバと呼ばれた女性によく似た風貌の女神が描かれていた。