神に仕えし武士の一族。
信濃は諏訪郡、諏訪湖より北東にそびえる金比羅山に築かれた上原城は、神代より諏訪大社の大祝を務め、この地域一帯を統べる諏訪一族の居城である。
日を浴びて煌めく諏訪湖を一望できる城の神殿(屋敷)では、諏訪の現当主・諏訪頼重が毎朝の日課である祝詞を唱えていた。
一切の澱みもない清々とした詠唱、始祖伝来の純白な装束を纏い、頼重の凛然とした佇まいは神々しさすら感じる。
「兄上っ! 武田が動きましたぞ!!」
頼重の醸し出す静謐を一人の子供が打ち破った。
諏訪頼重の弟・頼高である。
「祝詞の最中ぞ。現『大祝』の御主が邪魔をするでない」
「しかし兄上! 武田が千龍山に城を築こうとしておるのです!!」
「少し落ち着け、頼高」
「悠長に祝詞を唱えてる暇はありません!! 千龍は諏訪の目と鼻の先、早く武田の築城を阻まなければなりませんぞ!!」
頼高は声を荒らげる。
大祝とは、諏訪明神の依り代であり、現人神として諏訪大社の最高職に位置する神職である。兄である頼重から諏訪大社の大祝を譲られた頼高であるが、その身はまだ14歳の落ち着きのない少年であった。
「頼高、御主も大祝ならば少しは落ち着いてもの申せ。諏訪明神も其方が依り代では心安まらぬぞ」
「兄上は落ち着き過ぎでございます! 今にも武田が攻め込もうとしているのに、悠長に朝の祝詞など──」
「申すな頼高ッッ! 諏訪神職の長たる御主が発していい言葉ではなかろう!」
「──ッ!」
頼重の怒声が神殿を超え上原城に轟いた。
『信濃四大将』たる諏訪家の大将として、その猛勇で信濃一国に名を馳せた・諏訪頼重の一喝である。
戦場で大の男を恐怖に落としてきたその声に、大祝とはいえ14歳の少年である頼高が耐えられる筈がなかった。
「も……申し訳ありませぬ……あ、兄上……私は、頼高はただ……うぐっ……」
「泣くな。この程度で泣いていては諏訪明神も呆れ返ってしまうぞ」
溢れる涙を堪えきれずむせび泣く、その姿に頼重はただ溜息をついた。
「──涙が止まったなら、近くの村に触れを出せ。戦じゃ」
「……え、祝詞はよろしいのですか?」
「武田が城を築いておるのに『悠長に祝詞など』しておる暇はない、そうであろう?」
「は、はい! それでは今すぐ戦の準備をして参ります!!」
「おい! 待て頼高!! ………もう行ってしまったか、涙が止まってからと言ったのだがな」
笑顔で涙を流しながら駆け去ってしまった弟につい笑みを溢す。
喜怒哀楽を素直に表す弟に危うさを感じながらも、その純粋な性格は必ずや領民に愛され慕われることだろう。まっすぐに、大きく育って欲しいと頼重は心から願っていた。
「戦で御座いますか? 父上」
頼高の代わりに少女が姿を見せた。
頼高と対象に物静かな雰囲気と凛とした佇まい、彼女の名は怜、頼重の娘である。
「怜か、耳が早いな」
「叔父上様が騒いでおりましたから、嫌でも耳に入ります」
「フッ、左様か……」
間者どころか甥っ子、それも戦に出ない女子にすら何をするのか知られてしまっているのである。乱世を生きる武士として、頼高の性格は今すぐにでも治すべきかも知れないと、より危機感を抱く頼重であった。
「叔父上様は素直すぎますね、いつか謀に苦しめられることになるでしょう」
「叔父に対しても容赦がないな、怜は。もしやそれを言いに来たのか?」
「いいえ、戦前に父上の武運を祈りに参りました。ただそれだけで御座います」
「そ、そうか……わざわざすまぬな、怜」
「武運をお祈りいたします、父上。それでは、また」
終始顔色を一つも変えることなく挨拶だけ済ませると、怜は素っ気なく部屋をあとにした。
実の娘であるが、未だに何を考えているのか読めない。頼高とは真逆で感情を露わにしない涼の対応にも頼重は頭を悩ませていた。
「──さて、速く戦支度せねばな」
「「「武田と戦じゃ! 金比羅山に集え! 武田との戦じゃぁ!」」」
鎧甲冑に着替え、縁側から外の様子を眺め見る。
ちょうど、陣振れを報せる騎馬が城門から村々に続く道へと駆けていた。
知らせを聞いた領民が城に集うまで半刻(一時間)は掛かるだろう。その間に戦支度を済ませねばならない。
「諏訪明神の加護があらんことを」
縁側から望む諏訪湖に祈りを捧げ、きたる武田との戦に心を震わせた。




