別離。
「はぁ……はぁ……もう少しで城を抜けられる、あと一息じゃ、怜」
従者も連れずに上原城から脱出を計る諏訪頼高と怜。
城の裏側、搦め手は武田に抑えられていると予想して、頼高は正門から怜を安全な場所に逃がし、後に頼重と合流する腹積もりであった。
「叔父上様……私は足手まといになります。先にいってください」
「兄上から其方を守るよう言われておるのだ、見捨てて行けぬ」
武田に寝返った家臣達に城を明け渡したばかり、頼重の娘の怜すら失ってしまえば兄に会わせる顔がない。
それに『諏訪家の未来』の為にも、怜の命は必ずや守り切らねばならなかった。
「ッ! 待て、誰か来る」
あと数歩で城を出られるというところで二人の足は止まる。上原城に入城しようとする軍勢が見えたからだ。
味方か敵か、二人は近くの茂みに素早く潜み、声を殺して様子を窺った。
「叔父上様、あの軍勢は……」
「あぁ! 間違いない!!」
徐々にあらわになる『諏訪明神』の旗印。
まさしく、麓で武田軍主力と一戦まみえていた諏訪頼重の軍勢だった。
「兄上っ! よくぞご無事で!!」
「お主は──頼高? それと怜ではないか。こんなところで何をしておる? …………いや、聞くまでも無い、城は奴等の手に落ちたのだな」
「申し訳ありませぬ、兄上……っ。宗安や家臣達が敵に内通しており、奴等にまんまと城を落とされてしまい申した……! かくなる上は怜を兄上の元に送り届けた後に、潔く腹を切る覚悟で御座いました……!」
「…………叔父上様は、人質になった私を助ける為に城を敵に明け渡したのです。どうか御慈悲を……!」
頼高の発言を聞いた兵士達に動揺が走る。
安宗を始め、城に残された家臣達は諏訪家でも重きを成していた者達である。それが全て武田が寝返ったのだから場がざわつくのも仕方のないことだ。
「そうか、宗安が寝返ったか…………是非に及ばず」
頼重にとっても宗安の離反は予想だにしなかった事態である。しかし、もはやそれらは過ぎ去った過去のこと、いまさら悔いても仕方ない。
「頼高よ、お主が腹を切る必要はない。奴等に城を任せたはこの頼重の咎よ」
「されど、みすみす城を見捨て生き延びるなど諏訪大社大祝の恥、なにとぞ処罰をくださいませ」
「処罰などこの戦が終わった後でも良い。今は、敵にどう対処するかが問題よ」
野戦で敗れ、居城の上原城すら落とされたのでは、もはや諏訪の滅亡も間近だ。この期に及んで頼重は『武田にどう抗うか』よりも『諏訪をどう存続させるか』に思考を巡らせていた。
「上原城が落ちたのなら仕方ない、これより我らは桑原城に向かい『最期まで』武田と対する」
桑原城は支城で、上原城が落城した際の逃亡先の一つだ。支城(本城を援護する小城、砦など)といいながら緊急時に諏訪一族の者が居座ることもあるため、相応の防備と縄張りが整備されていた。
「よいな? 皆の衆」
「「「…………………応ッ」」」
「……………すまぬ」
野戦に敗れ、裏切りによって城が落ちたと聞いて士気が下がらぬ者などいない。それも、もはや滅びを待つのみとなった領主に従うなど稀である。それでもなお自分に従おうとする者達に頼重はただ一言だけ感謝を告げた。
「急ぎましょう、兄上。桑原にも武田が向かうやも知れません」
「うむ、武田が攻め来る前に守りを固めねばな──だがその前に」
頼重は愛娘の怜の前で馬を止めると、彼女の頬に手を添えた。
「怜、お前だけは城に連れて行けぬ。昔から察しの良いお主なら、意味が分かるな?」
「………………嫌で、ございます──と言えば、父上を困らせてしまいましょう。父上の邪魔にならぬように、怜は城から離れております」
「フッ、最期くらいお主の我が侭を聞いてみたかったものだ……………達者で暮らすのだぞ」
「…………………はい」
父の温もりを頬で感じながら、怜は静かに頷いた。この場にいる誰一人として、怜が流す涙に気付く者はいない。
「頼高、お主にも最期の命を下す」
「ハッ! 私も兄上と共に桑原城に……」
「……お主は怜を連れて、武田の手が届かぬ場所に逃げ延びよ」
「──っ! な、何故でございますか!? 私も兄上と共に!!」
「たとえ武士としての諏訪一族が滅び去ろうとも、諏訪大社大祝の系譜は諏訪一族以外に務まらん」
「大祝の……系譜……?」
「決してその血を絶やしてはならぬ──頼んだぞ、二人とも」
言い終えたと同時に馬を駆り立て、頼重は付き従う者達を率いて桑原城に走り出した。傾きかけた日の中へ吸い込まれるように遠くなる頼重の姿を、残された頼高と怜はただ見守るしかなかった。
「兄上……よもや、私を大祝にしたのは、このためでございましたか……?」
4年前に頼重から大祝を譲られたとき、頼高は兄から認められたのだと大いに喜んだ。しかし、それは頼高の勘違いであった。兄は自分が死んだときの為に、弟に大祝を譲ったに過ぎないのだと、今更ながら気付いてしまったのだ。
「怜……一つだけ、頼みを聞いてくれるか」
「はい……なんでしょうか、叔父上様」
ただ真っ直ぐ、頼高は兄の背だけを見つめていた。その拳は硬く握られていた。
「私は、今日限りで大祝を其方に譲るぞ」
「────え?」
新たに秘めた決意を刻むように、硬く握られた拳から血が滴り落ちていた。




