犬と男
砂漠と荒野が入り混じったような大地に、犬はただ一匹で生きていた。
犬は乾いた舌を垂らし、荒い呼吸を吐き街をうろついていた。
犬の眼差しは鋭く、ネズミや猫といった矮小な動物はその目を見ると、震え上がって逃げ出した。
街の犬どもも同じだった。
小さく唸り尻尾を巻いて逃げ出すか、己のつまらぬ矜持のためか、軽く吠えてみせるものの、逆に追われ噛みつかれ返り討ちにあった。
犬は孤独だった。
だが、それを苦に感じたことはなかった。
なにせ、生まれついてからの天涯孤独の身。
情など知らぬ、愛など知らぬ。
信じられるのは己の身と、鋭く獲物を噛み砕く牙だけだった。
渇いた風が吹き、遠方より運ばれた米粒ほどの細かな石を犬の顔に浴びせかけた。
ぐるると唸ったところで纏わりついた小石は容易には離れない。
この街ではいつものこととはいえ、うざったい飛来物に犬は苛立った。
だから、その男が現れた時、犬は恐ろしい面構えで、男を目一杯威嚇した。
「そう怖い顔をしないでくれ」
男は飄々とした風情で、犬の威圧を受け流した。
犬は尚も唸るが、そのうちに馬鹿らしくなったのか、唸るのを止め腰を下ろした。
男はひょこひょことびっこを引きながら、犬の側に近づき、我が身の重さを持て余す様に、えらく大仰にドスンと音を立てて座り込んだ。
何食わぬ顔でちらり、と男の姿を見る。
男の顔は傷だらけで、深くえぐれた傷が頬と額にあり、数えきれないほどの細かい傷もいくつか。
腕も、破れた服から覗く腹も、同様に傷だらけだった。
男の脚に目をやって、犬は酷い匂いの正体を知った。
男は片方の脚がなく、太ももの辺りから鈍色の鋼がにょきと生えていた。
当然関節などなく、ただぶっさされた銀の棒きれ。
その生え際、埋め際からは、肉の膿んだ腐った匂いが漂っていた。
「ああ、これか」
男は犬の目を追ったのか、静かに説明を始めた。
戦争があった。
世界が滅び、そこら中が砂漠になっても人間は争いを止めなかった。
むしろ文明が失われ歯止めが効かなくなり、本性をさらけ出したのかも知れなかった。
食料は底をつきたが、武器だけは大量にあった。
銃を構え撃ち鳴らし、相手を破壊し、また自らも破壊された。
男も今までに何人もの人間を壊してきた。
女も子どもも、それから犬も。
死を恐れているつもりはないが、生き延びているということは、やはり死が恐いのかも知れない。
さんざ壊してきて言えた義理ではないが、どうせなら死ぬときは安らかに、痛みを伴わずに死にたいものだ。
そう男は犬に語った。
勝手なものだ。
それほどまでに悪事を働いたのなら、相応の苦しみを抱いて死ねばいいのだ。
男と違い、犬は覚悟を決めていた。
生まれついての悪党ならば、最後まで悪党らしく抗って惨たらしく死んでやるのだ。
最後は街の犬のどもに食われて、糞としてひり出されるのでもいい。
乾いた糞が風に乗り、どこか見果てぬ遠い地へ飛んでいってくれれば――
犬はぐるると唸った。
かつてない自由を感じさせる思いが、犬を戸惑わせた。
今のイメージはなんだ?
見果てぬ地などと。
気がつけば、男は首を傾けて眠りこけていた。
だらしなく涎を垂らし、今にも崩れ落ちそうだ。
いや――
犬にとって馴染みの臭いが漂っていた。
すなわち死の臭い。
肉が腐敗を始める前の、柔らかさを増す前の、土と血の皮の入り混じった臭い。
犬は身を起こし、男の側へ鼻を寄せた。
確かに死んでいる。
呼吸は止まり、目は虚ろ、心臓から発せられる生命の躍動は感じられない。
喰ってみるか。
犬は、人を喰うのは初めてだった。
同族の犬なら喰ったことがある。
喧嘩に勝った時、既に相手は事切れていた。
仲間なのかつがいの片方なのか、いつまでも吠え続ける雌がいた。
殺しても良かったが、その時は妙に腹が減っていた。
数度吠えると、雌は未練がましくこちらを睨みながら逃げ去った。
その後で死んだ犬を寝床に運び、静かにゆっくりと噛み砕いた。
高揚もせず、悲しみなく、骨になるまでしゃぶり続けた。
あの時と同じように、この男も食い尽くすか。
犬はしばらく考えを巡らせた後、男の脚に目をやった。
鋼の脚、銀色の。
こいつは喰えそうにないな。
体に我が物ではない異物を埋め込んでまで、何を生きる必要があったのか。
男は知らなかったが、犬は知っていた。
男の目には死を願う光があった。
暗い、黒色の光。
昼中にあっても、その目を通して映し出された世界は暗く虚しかっただろう。
同じ目を、犬はしていた。
おもむろに犬は穴を掘り始めた。
手を伸ばし、土に爪をひっかけ、削り取る。
これを一心不乱に繰り返す。
太陽が落ち、大地が橙色のセロファンで覆われる。
大きな穴だった。
男を入れるのに十分なだけの穴。
犬はへっへっと舌を垂らす。
冷たい風が吹く。
一体何をやっていたんだろうな。
犬は疲弊していた。
だが、得体の知れぬ満足感があった。
犬は男の脚、鋼の脚を咥えると、残る力を振り絞って引きずった。
見た目よりも重い。
犬は知らなかったが、男の服の下には銃が携えられていた。
銃は、重い。この時代の銃は特に。
犬がようやく男を穴に落としたとき、周囲は暗くなっていた。
旧時代の異物であるライトが、第二の月明かりとして頭上から犬を照らす。
なんとなく、予感はしていた。
風が臭いを運んでいたから、存在は知覚していた。
闇の中から、街の犬どもが芝居がかった様子で姿を現した。
その数、ゆうに十は超えている。
いずれも、過去になんらか悶着を起こした相手だ。
犬の疲れを見て取って、今が復讐の機会と考えだのだろう。
狙いは悪くない。
だが、死ぬ覚悟はあるか?
犬は腹の底から爆発的な勢いで、一発吠えた。
威圧の衝撃が、びりびりと周囲に広がった。
だが、街の犬どもも覚悟は出来ていた。
その中には、かつて夫を殺された雌もいた。
衝撃の余韻が残る静寂の後、ちか、とライトが点滅した。
それが合図となり、犬の波が押し寄せた。
踊るような立ち回り。
相手を飛び越え、その先の相手を押し付け、首元に噛み付く。
単なる威嚇ではない。
殺意のこもった本気の噛み付き。
皮膚が破れ、耳が千切れ、薄汚い血が大地に染み込んだ。
それからどれくらいの時間が経ったか。
犬の周囲にはむごたらしい死体がいくつも重なっていた。
その中には、あの雌犬もいた。
犬の身体から血が流れていた。
多くの血が。
まるでバケツで水をぶちまけたように、犬の足下の地面が黒く濡れていた。
もう、いいだろう。
犬はよろよろと、男の眠る穴へと近づいた。
穴を覗き込む。
ライトに照らされて、男が横たわっているのが見える。
周囲には、既に蛆がわき始めている。
犬は重力に身を任せ、そのまま穴の中へ落ちていった。
ライトが点滅した。
犬は死んだ。
―――――
犬を連れた男が歩いていた。
長旅に疲れた男は、大きなりんごの木を見つけ、そこで休憩することにした。
いつもは休憩を嫌う飼い犬も、不思議なことに木陰で休むことに賛成らしい。
脚を折り曲げ、眠たげにあくびをひている。
どさ、と音を立ててりんごが落ちてきた。
男はりんごが拾い、歯を立ててしゃくりとかじった。
「うまい」
まずまずの味だった。
そこまで甘くはないが、酸っぱくもない。
長旅の疲れを癒やした男は、なかなか立ち上がろうとしない飼い犬に困りながらも、やがて街を目指して歩き始めた。
青空の下、風が吹く。
青々と茂った草原が、そよそよと音の波紋を広げていった。
りんごの木がざわざわと鳴り、赤々とした実も揺れていた。