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邪神さま、教祖に見限られる。

「教祖さま。お呼びですか?」


 教祖ミヅチの執務室にやってきた男。名を粕谷と言う。ミヅチの腹心の一人であり、咲を獲得したさいにも同行していた。


 ミヅチはその腹心に苦り切った顔を見せた。


「また退転の者が出た」

「またですか……」


 このところ、脱会する信者が後を絶たなかった。


 ある者は言った。

「人生はお金ではないのですね。わたし、長い間見失っていた大事なものをやっと見つけた気がします。やっと本当の自分になって、自分の人生を生きられる、そんな気がしています」


 もちろん引き留めた。脱会するには多額の違約金が発生する、と露骨に脅しもしたが、全く堪えた様子もなかった。金銭に執着してぎらぎらしていたはずの者がすっかり執着から離れ、むしろ何の未練もなく大金を納めて去っていった。


 またある者は言った。


「これまで、ずっと誰かを呪っていました。人と自分を較べる必要なんてなかったのに……。あさはかですね。思い知りました。

 やっとありのままの自分を受け容れられそうです。そんな気がしています」


 もちろん脅した。退転した者には地獄への道しかない。このまま誤った道に進んで永劫の苦しみを味わうのか。今までならてきめんに効いた脅し文句もまったく効き目がなかった。人より劣ることをあれほど怖れていた者が、自分は自分だと清々しい顔をしている。劣等感のかたまりの自分と向き合うことを許容できたのだ。


 もはや、脅しは無意味だった。


 欲望を満たしたい。恐怖から逃れたい。


 その欲求を、ミヅチはこれまで上手く利用し、教団を大きく育ててきた。

 だが欲望にとらわれず、恐怖と向き合うことを怖れない、そんな人間にはもはや教団は何の価値も提供できなかった。少なくとも最重要にはならなかった。


 一方で、咲を文字通り神のように崇める一団もあらわれた。咲の感情の波動は純粋であるがゆえに気まぐれで、いつ現れるかわからない。それだけに、その機会に巡り合えた者の驚きと喜びは大きかった。時に悲しみの感情にも翻弄されるが、悲嘆の涙を流し尽くすと心がすっかり洗われて、生まれ変わったような気分になれる。


 なんの見返りも求めず、高純度の幸せだけがもたらされる。そんな至福の一瞬を期待して、人々は熱心に咲を見つめた。咲はいつも御簾の奥、言葉を交わすことすらできない。それが余計に人々の想像力を刺激した。おぼろな姿ははかなげな少女を連想させ、さらに直に会った者からの伝聞が想像をかき立てた。十二単を身にまとった可憐な平安少女というイメージに、人々の妄想はふくらむばかりでとどまる所を知らなかったのである。


 彼らの忠誠心はすでにミヅチの上にはなかった。自分のカリスマがかすんでいることに、ミヅチはあせった。


 それが、自分の力が衰えたせいだと言うならまだ諦めもつく。


 だがそうではない。相手はなんの力もない小娘だ。にこにことご飯を食べるだけの小娘にしてやられているという現実がどうにも業腹だった。しかも、その小娘を見出したのは他ならぬ自分だ。


 すべてが自分の思いもしない方向へ転がっている。あやまちは正されねばならない。


「教団を、抜本的に立て直す」


 低い声でミヅチは宣言した。このまま終わるわけにはいかない。まだ終わらぬ。


「手始めに、邪神の処理だ」

「いやしかし教祖さま、それは……」

「あれを放置したのが間違いだったのだ。稀有なものではあるが、自分の目的にそぐわないものを手元に置いても意味がない。いや、害悪しかない」


 教祖の決意を感じて、粕谷は緊張した。彼の目的も教祖とともにある。否やはない。


「承知しました」

「私としたことが、とんだ気の迷いであった。自分の間違いを認めたくなかったのだろうな。我々の目的を思い出せ。まだ我々は、道半ばだ」

「はい。おっしゃるとおりです」


 二人の男は熱心に、後ろ暗い相談に没頭した。彼らにとってそれは実に正当な、自分たちの自己実現のための相談であり、実践だった。


 最初に邪神獲得に同行した者たちも使い、確実に事を完了する。残る者たちもミヅチに忠義の篤い者たちだ。共に障害を除去し、本来の目的に立ち返るのだ。


 一日、ミヅチと数名の腹心――いずれも教団の幹部でもある――は、事を成すための計画を立てた。

 大の大人がその気になれば、たかが小娘ひとり、何ほどのこともない。実行面での些末な事案を擦り合わせる程度で計画は決まった。


 だが、後ろ暗いことは露見しやすいものだ。たとえ本人が自覚していなくても。



 ◇



 夜半に北枕菜美を尋ねてきたのは、教祖の腹心のひとり、黒川だった。


「あれ、黒川さん? ……っと、失礼しました、黒川副教務総長。どうかなさいましたか?」

「あいさつはいい。邪神さまの一大事だ」


 いきなり切り出された用件に、菜美は数瞬押し黙り、次いで大きく目を見張った。口から出かかった叫びを手で押さえて無理やり飲み込む。


「……なんでそんなことになってるんですか?」

「詳しい事は話せない。察してくれ」


 菜美の押し殺した声に、やはり押し殺した声で黒川が答える。二人とも具体的な言葉は口にしなかった。その言葉を口にしたら本当にそうなってしまいそうな気がした。


「邪神さまの取り次ぎの小僧に知らせてやれ。一刻を争うんだ」

「なぜ知らせてくれたんです?」

「あんないい娘を……見るに忍びないんだよ」


 黒川は何度か、咲の「福音」を受けたことがある。たとえようもない幸福感だった。この幸せを多くの信者に無私で捧げる儚げな少女に、感動を覚えずにはいられなかった。


 黒川はミヅチを悪だとは思っていない。人は誰しも欲望を持っている。恐怖と戦っている。その欲望を満たしてやること。恐怖を取り除いてやること。それは誰もが望んでいることだ。ミヅチのやり方は批判もあるだろうが、人々を助けていることは疑いない。


 だがそのために、あの無垢な少女を犠牲にするところは見たくなかった。たとえそれが正義だとしても、感情が納得しない事態というものはあるだ。


 菜美の知らせを受けて、ソウタは咲の下へ走った。それはもう必死の形相で。


「咲さま! 起きていらっしゃいますか?」

「起きているよ」


 奥の間の控え、咲の寝所。例によって裏の羽目板から現れたソウタを、咲は寝間着姿で迎えた。


「急いで着替えて下さい。ここを出ましょう」


 あせるソウタに、咲はいつもの通り静かに答える。


「いや、よい」

「え?」

わらわはここに残るよ」

「なにを言ってるんですか! 早く逃げないと大変なことに……」

「妾が姿をくらませば、そなたらに累が及ぼう。それは妾の本意ではないよ」

「そんな……」


 咲は落ち着いて微笑んだ。

 ソウタは悟った。咲は気づいていたのだ。


「そんな……そんなこと、おれ……」


 渦巻く感情は、怒りか、悲しみか、絶望か。混乱してどうしていいかわからず手をついたソウタの肩に、咲が手を置いた。


「ソウタ、心配してくれて、妾は嬉しい。じゃが、案ずるに及ばぬ。もとより、まぼろしのような身の上であったのだ。ふふ、おもしろきかな」

「咲さま……」

「それより、そなたらに何かあれば、その方が妾は悲しい。だから……」


 だから我が身を犠牲にするというのか。咲の気遣いを感じて、ソウタは泣きそうになった。


 だけどそんなこと、許されていいはずがない。

 この人が不幸な目に遭うなんて、だめだ。絶対にだめだ。おれはそんなこと、絶対に許せない。


「……ダメです!!」


 ソウタは跳ね起きて、咲の肩をがっと掴んだ。びくっと咲が身を震わせる。


「そんなのダメです! おれたちのために、咲さまが犠牲になっていいはずがない。

 咲さまが死んじゃったらおれ、すごく悲しいです。すごくつらいです。

だから諦めないで下さい」


 咲はびっくりして身をすくませていた。

 今まで見たことがない荒々しさだった。


「このまま咲さまを見捨てたら、おれはきっと一生後悔します。ずっとずっと後悔します」

「そんな。見捨てるだなんて……」

「だったら! 生きてください。おれのために」


 ソウタはまっすぐ咲を見据えた。力強い目だった。

 そんなソウタを、咲は呼吸すら忘れて見つめていた。


(ああ、ソウタは……)


 いつも優しくて、自分を気遣ってくれる男の子。その優しさに包まれているのが、咲にはとても居心地がよかった。つい甘えて、わがままを言ったりもした。


 だけどソウタは、男の子だった。こんなにも力強い男の子だったのだ。咲は初めて見るソウタの姿に、初めての感情が湧き上がるのを感じた。頼りたい、守ってもらいたいと。


「……あいわかった。ここを出よう」


 咲の目に、初めて意志の光がともった。


「……ソウタと一緒に」




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