邪神さま、福音をたれ給う。
教祖は時に、信者に福音を下賜してやらねばならぬ。でなければ現人神がいる意味がない。
手に入れたものは最大限利用しなければならない。
よって、高い功徳を積んだもの――つまりは、多く上納金を納めた者――に、邪神さまから直に福音を賜る機会をもうけていた。
今日も信者がひとり、恩恵に浴する機会を得た。
邪神さまの御簾の前に進み出て平伏する。邪神さまは御簾の奥、姿を見ることはかなわない。そしてその言葉も、陛下の者――ソウタを通してしか聞くことはできない。
それでも信者は、かしこまって全身で敬意を表していた。
信者は灰田恵と名乗った。
「このたびは邪神さまにお目もじがかない、まことに光栄に存じます」
恵は平伏したまま、緊張した声を発した。それをソウタが小声で、咲――邪神さまに伝える。もちろん咲にも聞こえているのだが、そこは形式、お約束というものである。
「『そなたの功徳は聞き知っている。そなたの望みを申せ』と、邪神さまはおっしゃっております」
「ありがたき幸せに存じます」
さすがにソウタも、無事お役目を果たせるのか、内心不安だった。だが大人たちはそれどころではなかったようだ。
「わたくしの望みは、金、でございます」
取り次いだソウタは咲の言葉を聞いて困惑した。どうしようか、少しの間迷ったが、そのまま伝えることにした。
「金とはなんじゃ、と邪神さまが問うておられます」
「は?」
思わぬ問いに恵は困った。今さらごく当たり前のことを聞かれても、とっさになんと説明したものか言葉に詰まってしまう。
「金とはその、そう、この世のすべてを買えるのです。望みのものはなんでも手に入り、願いをかなえることができます」
「咲さま? お分かりになりましたか?」
ソウタが小声で尋ねる。
「うむ。本で得た知識はあるのじゃが……妾は自分で使うたことがないゆえ、ありがたみがわからぬ。どのくらいあればよいのじゃ?」
「そうか、なるほど」
脇でやり取りを聞いていた教祖が口を挟んだ。
咲が暮らしていたのは平安の前期の頃。まだ貨幣経済も発展途上であっただろう。さらに米ほか必要なものは租税や貢物として不自由なく手に入っただろうから、自分から何かを贖うという行為は必要ない。良家の子女がみずから「買い物をする」という光景は存在しないのだ。
そのような概説を教祖に聞かされ、その場にいた一同は――咲も含めて――おおいに納得したのだった。
邪神さまは正真正銘、やんごとなき姫君だったのである。
そうと知った恵は、ますます恐れ入ると同時に、自分の卑俗さが恥ずかしくなった。自分はなんとレベルの低い望みを抱えていたのだろうか、と。
内心恥じ入っている恵に、ソウタを通して咲が声をかける。
「そなたの望み、あいわかった。だが妾にはその価値がわからぬ。どの程度のものを望んでおるのか。そなたが思い描くかぎりの望みを述べてみよ」
言われて、恵は語り始めた。金が手に入るとどれほど嬉しいのか。どんなものが手に入るのか。どれほど満足できるのか。
「ううむ。そなたの思いが伝わらぬ。そなたの思いは、そんなものか? 嬉しいとは、それが手に入ったとは、どんな心持ちじゃ? そもそも、何を手に入れたいのじゃ? 金が手に入ればよいのか?」
「はい。それはもう、幸せにございます」
「そなたの幸せとは、どんな心持ちじゃ? 思いつくかぎりを妾に伝えてみよ」
恵は必死に説明しようとした。たくさんお金があればいい。お金がなくて汲々としなくてすむ。何も我慢しなくていい。ほしいものは何でも手に入る。
では自分のほしいものとは? 自分は何がほしかった?
日々の稼ぎを得るために仕事に追われ、我慢してひもじい思いをして、そんな生活が嫌で嫌でたまらなかった。教団に多額のお布施を寄進し、望みがかなうよう願った。そうまでして実現したかった「望み」とはなんだったのか?
「私は……日々お金に困って、毎日の生活に追われているのが嫌だったのです。こんな生活から抜け出たいと思わない日はありませんでした」
いいものがほしい。たくさんのものがほしい。それは漠然とした象徴で、自分はただ日々の平穏がほしかっただけなのだと、彼女はだんだんわかってきた。
「うむ。おいらか(穏やか)なる日々を望むのじゃな。なれば、その心持ちを思い描いてみよ。そのあらん限りを言の葉にして、妾に申し伝えてみよ」
「はい……はい!」
恵は語った。心穏やかな日々。あくせくすることもなく、煩わしい出来事もなく、日々幸せを感じながら平凡に毎日を過ごしてゆく。
そうなったらどんなにか幸せだろうと思いながら、そうさせてくれない人間関係、経済事情、諸般の雑事。それらを思って、それに心囚われて鬱屈していた自分を思い出して、我知らず恵は涙を流していた。
「私はこれまで随分と他人に振り回されてきました。傷ついて疲れて、自分は不幸だとずっと思ってきました。こんな自分でいたくないと、もっとすごい自分に変わりたいと夢見ていました。
お金があれば、それが叶うんじゃないかと、ずっと信じてきました。でも、そうじゃないんですね。私がほしかったものは、そうじゃないんですね」
「そなたの心根、しかと妾にも伝わったよ。いたき(つらい)思いをしてまいったのじゃな」
咲の言葉は、恵を癒すように優しく包み込んだ。ねぎらいの言葉は恵の心に沁みわたってゆき、彼女はこのうえない安らいだ感覚に、まるで生まれ変わったかのような気持ちになったのである。
「もう大丈夫。あやなきことに、まどわずともよい。そなたの心根は誤ってはおらぬ。憂きことがあっても、それはかりそめのもの。そなたの魂を傷つけることはできぬ。おのが力を信ぜよ。そなたは充分にいたき事を経てまいった。それは必ず、そなたの力になろう」
「はい……はい」
「惑うた時は、ミヅチを頼るがよい。そなたらの師は、必ずやそなたらを能く導くであろう」
「はい……ありがとうございます」
ぽろぽろと涙を流し続けながら、恵は平伏した。自分では立つことができず、同僚たちに両脇を支えられて退出する。
◇
清々しくも感動的な空気に満たされて一同が退出する中、ひとり残って苦々しい顔をしていたのは、ミヅチである。
「見事なセラピストぶりですな」
ミヅチの言葉は皮肉成分がたっぷりだった。
「だが、我らが邪神さまに期待しているのは、自分探しの答えではない。己が欲望を満たすこと。恨みつらみを晴らすこと。人はみな欲に囚われている。その望みを叶えたいと思うからこそ、我らに縋るのだ。
その期待に応えられぬならば、むしろ何もしなくていい。黙って座っていてくれればよい」
「妾は何もしていないよ。あの者の心を聴いていただけじゃ」
「そんなことをする必要はない。欲望を叶えてやるか、叶えられると期待を持たせてやるだけでよい。人はその期待によって、ますます我々に依存し、務めに励むのだ。それが出来ないならば、我らの邪魔をするな!」
語気荒く言い捨てる教祖さまを、ソウタははらはらしながら見ていた。
「ふむ。あいわかった。これよりは、言葉を選ぶとしよう」
怒り心頭の教祖に対して、咲は気にしたふうでもない。
「妾はそなたに生かされている身ゆえ、な。そなたの期待に沿うよう、務めようぞ」
その時の咲からは、先ほどのあふれる感情が嘘のように、何も感じられなかった。だがソウタには分かった。
(咲さま、悲しんでいらっしゃる……)
言葉も表情も、隠してはいる。そのわずかなすき間から、咲の悲しみがそよ風のようにたゆたってくるのを、ソウタは感じた気がした。そのそよ風にふれた時、ソウタは胸が締めつけられるような思いを味わった。
(咲さま。おかわいそうに……)
咲がちらりとソウタを見た。ソウタは咲の心の声を確かに聞いた。
(この世はさながら、あやなきものよ※)
※この世はすべて、理不尽なものだ、との意