邪神さま、ご飯を食す。
一行は少女を連れて教団本部へ戻った。教団の奥の奥、信者が近づかない場所にご神体として少女を納めた。この場合、生きているから――少なくとも見た目は――そこに住まわせる、と言った方が現実に即しているかもしれない。
奥の間に教祖ミヅチがやってきた。後ろには供の者がぞろぞろと続く。
やがて奥の間の御簾の前にたくさんの供物が並べられた。種々の料理や酒、山盛りの果物。野菜や果物は穫れたままの姿のものもあれば、口にできるよう贅を尽くした細工を施したものもある。
「邪神さま。どうぞお納めください」
ミヅチが御簾に向けておごそかに奏上して平伏する。御簾の奥には邪神であるところの少女がいた。どう見てもただの少女にしか見えないので、こちらでできる限り威厳と権威を高めてやらねばならない。
「これは妾がもろうてよいのか」
「はい」
「こんなにもか。ありがたいことだなあ。礼を申すよ」
よこしまな所など欠片も感じられない澄んだ声だ。本当に邪神として封じられていたとは思えない。いやいや、一見清らかだからこそ闇は深いのだそうに違いない、とミヅチは心の中でひたすらに唱え続けた。
その間、信者のひとりによって、御簾の内側に膳が運び込まれた。
「おお。これは……」
少女の口からため息がこぼれる。信者はいぶかしんだ。
「かようにここら(たくさんの)御台は、見たこともない。この白きものは、なんじゃ?」
「これですか? ご飯にございますが」
なにか粗相でも、とおそるおそる信者が答えると、
「なんと。これは白飯なのか? 真っ白で……いや、透き通っていて、まるで水晶のようではないか」
身を乗り出すように夢中でお膳を見つめている邪神さまは、どうやらびっくりしているだけのようだ。
たかがご飯に、邪神さまが無邪気に驚いているという事実に、その場にいた全員が驚いていた。しかしこの邪神さまは千年もの間浮世から隔絶されていたのだ。世の中はどのくらい変わっただろう。たかがご飯でも想像を絶する変化であることは間違いない。
そして邪神さまはおそるおそる手を伸ばし、茶碗を取って、
「あつっ!」
あわてて手を放した。またも目を丸くしている。
「なんと。熱いぞ。こはいかに?」
「炊きたてでございますから。おいしいですよ。どうぞお召し上がりください」
怒っているわけではなさそうだ、と信者は少し安心した。。むしろ幼い少女のようでほほえましく、信者の表情も自然とほころぶ。
それを見た邪神さまは、危険なものではないと感知した。今度は注意深く茶碗を手に乗せると、盛られている飯をしげしげと眺める。まるで手の中にあるものが、初めて見るビーズ細工かなにかのような扱いだ。興味津々のその様子に、その場はほのぼのとした雰囲気に満たされた。
「ささ、あたたかいうちにどうぞ」
「うむ」
邪神さまは箸を取るとご飯を少しすくい、純粋な目でまたもしげしげと眺めてから頬張った。
「これは……なんという甘さであろう。極上の美味じゃ。白飯がこのように美味なものであったとは」
心から嬉しそうに、邪神さまは宣った。またひとすくい、口に運ぶ。
「こんなに美味しいものが食べられるとは。うれしいなあ。うれしいなあ」
邪神さまは満足そうに微笑みながら、目を瞑った。本当に嬉しそうだ。
邪神さまであるところの少女の満ち足りた感情は、見えない波動となって拡がり、部屋を満たしていった。
幸福感、満足感。
部屋いっぱいに拡がった感情を、その場にいた人々は一人残らず全身で感じていた。少女が感じているのと同じ幸せが身体の裡に押し寄せてくる。幸せの波動が自分たちを押し包み、例えようもない極上の幸福感で心が押し流されてしまいそうなほどだ。
少女がご飯をひと口食べるごとに怒涛のような歓びの波動が何度も押し寄せる。それは立て続けに何度も絶頂を迎えるに似て、耐えがたいほどの快感だった。
邪神さまはゆっくりと箸を動かし、「おいしいなあ。うれしいなあ」と、にこにこと呟く。
そのたびに歓びの波動がおそろしいほどの圧力で拡がり、心は幸せに満たされる。あまりの快感に耐えられず、泣き出す者までいた。
その時その瞬間、奥の間は「極楽」だった。
◇
教祖ミヅチはやっとのことで奥の間から退出した。途方もない幸福感と、それとは背中合わせの焦りを感じながら。
これは自分の求めていたものではない。
彼はそのことに気づいていた。彼の探し出した邪神は彼に、彼の求めるものを与えてはくれなかった。これは違う。このままではまずい。
思案しながらもしかし、彼はその問題を放置した。邪神そのものには彼に直接害を及ぼすほどの力がないことは明らかだった。したがって彼は、どうするか迷ったまま問題を先送りしたのである。
◇
ちなみにその後、邪神さまの御台、すなわち食事の世話をする仕事が大人気となり、三食の当番を巡って熾烈な奪い合いに発展するほどの騒ぎになった。
最初は「邪神さまがご飯を召し上がる姿が大変にかわいらしい」との評を聞いて、では一度見てみよう程度の話だった。確かににこにことご飯を食す少女の姿はほほえましく、見ているだけでも幸せな気分になるのだが、同時に少女の幸せの感情がとてつもない勢いで見る者の心を圧倒するのだった。それは暴力的なまでの幸せ、快楽の激流だった。
ひと口食べるごとに「おいしいなあ。うれしいなあ」と、歓びの感情を無防備に全開で放出する邪神さまの精神感応能力はすさまじかった。食事の間中繰り返しその波動を浴びている者は、心に麻薬を直接ぶち込まれているようなものだった。幸福感のあまり泣き出してしまったり、失禁はては失神する者まで出るほどだった。
それがため、「御台のご相伴で幸せな気持ちになれる」という噂が拡がり、それが、
「御台のご相伴で幸せになれる」
「御台のご相伴で望みがかなう」
「御台のご相伴で幸せいっぱい」
「貧弱だったボクがモテモテに」
「むくみもとれてすっきり小顔」
「肌もツヤツヤ、十歳は若返り」
「年下イケメンとイケない恋に」
と、なんだかわからない方向にまで噂が拡大してしまった。膳を下げてくる者たちが一様に、見たこともないほどはればれとした笑顔で帰って来るので、みな興味が増すばかりだったのである。
そして実際に立ち合ってみると、この世のものとは思えない幸福感を味わって退出することができるのであった。
この心の麻薬の争奪戦は熾烈な争いの末、公平な当番制になった。しかし背徳的なまでの幸福感の噂はどんどん拡がり、体験してみたいとの志望者は引きも切らなかった。また再度の当番に当たった者は、宝くじに当たったかというほどの喜びようだったのである。
当の邪神さまはそんな事とはつゆ知らず、相変わらず幸せそうにご飯を召し上がるのであった。小さな茶碗でご飯を食べる以外は汁物を少し吸うくらいで、あとは果物を少々。惣菜はほとんど箸を付けなかった。現代の濃い味付けは苦手なようであった。が、そもそも人ならざるものが普通にご飯を食べるのか、という点は誰も答えられなった。
せっかく供された豪勢な食事をほとんど残してしまうことを邪神さまは気に病み、膳を下げる者にいつも「すまないなあ」と声をかけていた。
そのいきさつはやがて料理長の耳に届き、ある日料理長は邪神さまに拝謁を願った。
「おお、そなたがいつもあの立派な御台を供してくれているのか」
邪神であるところの少女はたいそう喜び、そしてそれをほとんど食べていないことを詫びた。素直な喜びの感情と感謝の気持ちが巨大な力の渦となって料理長を飲み込んだ。
感情の激流に圧倒されつつも料理長は感激し、目を潤ませて言った。
「どうかお気になさらないでください。たとえ召し上がれなくても、目にも楽しい御膳を拵えますから。お望みのものがあれば遠慮なくお申し付けください」
「ありがたいなあ。これからも美味しいご飯を炊いてたもれ」と優しく声をかける邪神さまからは、またも幸せの波動が無尽蔵に放出され、料理長を襲った。途方もない幸福感は料理長を感涙の海におぼれさせ、見守る周囲の者まで喜びの涙にむせび泣き、生きながら昇天するほどの快楽におぼれたのであった。
そんなこぼれ話が積もり積もって、やがて大きく道を変えようとは、その時誰も思いもしなかった。