邪神さま、ひっそり祀られる。
見晴らしがいいだけの、何もない公園。その片すみに小さな祠があった。よほど気をつけていなければ見過ごしてしまう程度の、とても小さな可愛らしい祠。
祠には、小さな茶碗が置いてあった。お詣りする人はこのお茶椀に、炊きたてのご飯を軽くよそってお供えしてゆく。するとご飯は、いつの間にかなくなっていた。
それを人は「姫神さまがご飯を召し上がってくれた」と言った。その時、不思議な感情に襲われる。えも言われぬ極上の幸福感で、胸がいっぱいになるのだ。
この世のものとは思えないほどの幸せな気持ち。あまりの感情の激動に、泣き出してしまう者までいた。人はそれを「姫神さまが喜んでくださっている」と言い、お礼を述べて帰っていくのだった。
その幸せ――姫神さまがくださる福音――を求めて、訪れる人は意外に多く、そこはひそかなパワースポットとなっていた。
(咲さま。今日も誰かが白飯を持ってきてくれましたよ)
(おお、そうか。やれ嬉しや。ありがたいことだなあ)
(咲さま。おいしいですか?)
(うん。今日も暖かい白飯が食べられる。おいしいなあ。おいしいなあ)
(ふふ、咲さまはいつも食いしん坊ですね)
(ソウタと一緒に食べるご飯は、とてもおいしいよ。ありがたいことだなあ)
祠を開けてみたならば、写真が納められていることに気づいただろう。
縁が赤黒く汚れている、一枚の写真。そこに映っているのは、平安時代のような衣服をまとったふたりの人物だった。水干姿の男の子と、それに寄り添う女房装束、十二単の女の子。
ふたりはずっと一緒だった。
これまでも。これからも。
(了)