邪神さま、目覚める。
人里近い、ちいさな山の中。
ふもとからほど近い、道を少し外れた場所に、ちいさな祠があった。
「教祖さま。邪神さまはこの中に?」
「いや。これは外側の結界だ」
部下でもある信者の問いに、教祖であるミヅチが答える。
「四方にひとつずつある。目的地はまだ先だ」
この結界を作った者の名は伝わっていない。だが広範で入念な仕事ぶりを見ても、かなりの能力者であったことがうかがえる。それがミヅチにはよくわかった。
よくあるインチキ宗教家と違い、ミヅチは霊能力を備えていた。それだけでも教団の頂点としては充分だったが、しかし彼はさらなる「ご神体」を求めていた。そのために有名無名の多くの古文書を読みあさり、逸話や伝承を集め、それらしき所を丹念に回っていた。
そしてようやく、邪神が封じられたという確度の高い場所を割り出した。それがここ。京都の市街から少し外れた、名もなきなだらかな山の中だった。
祠を通りすぎ、結界の中を進む。少し行くと、目指す社が現れた。
「ここか……」
立ち止まってミヅチは社を仰ぎ見る。ここに至るまでの苦労、紆余曲折を思い返すと、感慨深いものがあった。胸が熱くなったが、信者の手前そんな素振りはおくびにも出さない。
部下に命じて、新たな結界の準備をする。七五三縄、御幣、護摩符……幾重にも結界を張り巡らす。
うかつに封を破るような真似はしない。能力があるということは、それだけ魔の物にも魅入られやすい。解放した瞬間に憑りつかれるような真似は避けたいものだ。
彼は慎重を期した。古文書にも「よこしまなるものを封じたるなり」と記されているだけだ。どんなものが封印されているのか、よくわからない。
結界の中で封印を解き、魔の物を解放する。そしてすかさず次の依り代に憑りつかせ、持ち帰る算段だった。そのために能力を持つ者を連れてきている。数は多くないが、腹心と言える部下たちだ。自分自身の力も合わせて、よほど高位の悪霊でもない限り制御下におけるはずとミヅチは踏んでいた。
果たして、古代の封は解かれ、ミヅチは静かに扉を開いた。
社の中は半地下になっていた。明り取りの窓もなく、真っ暗だ。部下の差し出す懐中電灯をとり、ミヅチは上下左右をぐるりと見回した。特になにもない。
段を降りる。わずか数段で床に着き、前に進む。さらにわずか数歩で突き当りになり、正面に「そのもの」はいた。
ひとの形をしている。着物をまとっているようだ。
「……邪神さま?」
そのものは顔をそむけて、袂で顔をかばった。眩しいらしい。ミヅチは慌てて懐中電灯を逸らせた。横の壁を照らして、間接照明にする。
「……邪神さま?」
再度ミヅチが問う。
それは向き直り、無言でこくりと頷いた。
おお、というどよめきが背後から聞こえる。
「本当に、邪神さまであらせられるか?」
「……そう……じゃ」
か細い声だった。
ミヅチが確認したのも無理はない。そのものは少女の姿をしていた。上代の着物をまとった、小さく、はかなげな少女。これが本当に邪神なのだろうか。
「そう、じゃよ。 みなが、言う。 間違い、なかろ?」
少女はわずかに笑ったようだった。再び背後が期待にざわついたが、ミヅチは冷静だった。
彼は自分の感じた違和感を分析して、背筋にぞくっと寒気を感じる。
(心が読まれている?)
ここに永らく人が訪れたことがないのは確認している。封印も破られていなかった。
その中にずっといたであろう人物。普通の人間であるはずがない。人ならざる能力の持ち主、あるいは人ならざるもの。
逸る心を抑えて、ミヅチは訊いた。
「あなたはここに、ずっと閉じ込められていたのか?」
こくりと少女がうなずく。
「どのくらいここにおられるのか?」
「わからぬ」
それもそうだ、と内心ミヅチは苦笑した。時計や暦があるわけでもない。外界と隔絶された場所で、外の時間経過など知りようもないだろう。
「閉じこめられたのはいつ頃の事か、覚えておいでか?」
「……長保二年、であったか」
遠い昔を思い返すかのように、かみしめるように少女は言った。
「飢饉や天変地異が続いたのじゃ。あやしの者ときこゆる妾は、半ば人柱として封ぜられた。
それから幾歳を経たか。年ごろ(長年)、おのが思うたまぼろしやあやかしと、たわむれ、語りて、ずっと過ごしていた」
小さく、澄んだ声で少女は語った。
やはり、なにがしかの能力があるようだ。
その間、背後では小声で会話が交わされている。
「……あった、長保……西暦1000年?」
「一世紀どころか、ミレニアムかよ!」
押し殺した声は、それでも興奮を隠しきれていなかった。この少女が言っていることが本当なら、千年もの間封印されていたことになる。これほどの歴史を持つ妖の者は聞いたことがない。
「あなたはどのような異能をお持ちなのか?」
「人が語るより早く、人の心の裡を悟ってしまうようじゃ。われがおぼゆる(思う)ものを、余人の心に見せてもいた。それゆえ、畏し(おそろしい)のものと言われ、奥に閉じ込められていた。妾は橘の裔に連なる三の娘なれば、名のある殿にあてがいて家名を上げられしものを、と父はたいそうほいなく(残念に)思うていたようじゃ」
またも後ろがざわめいた。詳しくはわからないが、名家の姫君とみえる。
そして能力は、おそらく精神感応能力。
ミヅチは思案した。見た目は頼りなげだが、永の眠りから醒めた本物の異能者のようだ。しかも物の怪や氣といった見えないものではなく、ちゃんと人のかたちをしている。やみくもに憑りついて祟る、といった厄介な代物でもない。現人神としてうってつけだ。
(長年探した甲斐があったというものだ)
周囲の信者の熱狂とは別の意味で、教祖も自分のつかんだ成果に満足を覚えていた。