プロローグ
○ ○ ○ ○
「ねーねー、ゆーきは将来何になりたいの?」
近所に大型量販店が開店したことで日に日に寂れていく、アーケード型の商店街。
午後。それも夕暮れ時だと言うのにそこは人足も疎らで閑散としていて、活気のない商店群に差し込む茜色はまるで近づく終わりを予感させる様だった。
そんな街を揺れる真新しい二つのランドセルが並び行く。
黒と赤をそれぞれ背負うのは二人の児童。まだ男女の性差も意識せず、少年と少女はただ純粋に仲良く手を繋いで歩いていた。
微笑ましい光景の中で女の子が発した問いにガラス張りの天井を振り仰ぐ少年。
子供特有の突拍子もない質問に男の子は「んー」と間延びした声を漏らし、やがて笑みを含んだ視線を彼女へと向ける。
「オレは大きくなったらこまってる人を助けるヒーローになる!仮面ライザーみたいな、カッコいいせーぎの味方に!」
少年は日曜の朝に放送している変身ヒーローの姿を思い出しながらそれに自身を投影した想像を夢として話し出す。憧れを語るその瞳は無邪気な輝きに満ちたもの。
紡ぐ空想に気分が高揚したのか彼の歩調は跳ねる様に軽い。
どんなヒーローになりたいのか―。
どんなポーズで変身するのか―。
どんな必殺技を出せるのか―
内容は子供故に殆どテレビで見たものそのままだったが、少女は呆れる事無く寧ろ笑顔で彼の願望を聞いていた。
実は彼女がこの問いかけをしたのは今回が初めてではない。少年は覚えていない様子だったが少女は数日前にも同じ質問をしていたのである。
そして少年から返ってきた答えと眩い笑顔はその時と同様のもので。
その笑みを見た彼女は彼に気付かれぬ様に顔を逸らして小さくはにかんだ。
「でなー、って……あれ?もう家?」
「あ……」
喋るのに夢中になっていた少年は周囲の風景が覚えの濃いものになっている事気付いて言葉をとめる。見ればガラス張りのアーケードはとうの昔に通り過ぎ、見上げた空は茜色から藍色へと染まり行く最中のもの。
そうして横を向けば丁度少年の家があって、その二軒先には少女の家が見えた。
少年宅の玄関先から漂ってくる夕食の香り。
鼻に届くそれが大好物のカレーである事を察した彼の顔にさっきまでとは別種の笑顔が浮かぶ。
当然、好物に意識が向いてしまった少年が少女の表情が曇った事など気付きはしない。
「それじゃまた明日―。ばいばーいっ」
夢を語る男の子に訪れた終わりの時間。
丁度よく自分の言いたい事を消化し終えていた少年はカレーの匂いに引き寄せられ足早に家に向かって駆け出す。
けれど、そうするよりも先に、咄嗟に伸ばした少女の手が少年のTシャツを掴んでいた。
「どーしたの?」
「あ……その、えっと……」
少年は引き止められた事に純粋な疑問を問い、反射的に動いてしまった少女は当然のそれに答えを窮してしまう。
数秒の間言葉にならない声を出す女の子。
しかし彼女はやがて自分の気持ちに素直になり、
「じゃあ……ゆーきはわたしがピンチになったら助けにきてくれる?」
少年とまだ話していたい。まだ彼の明るい笑顔を見ていたい。
そんな乙女らしい想いから紡がれた突発的な問い掛けに、少年は力強い笑みを見せ、
「ぜったい助ける!ヒーローはだれも見すてたりしないからな!」
またテレビからの受け売りで。よく意味の分かってない言葉を使って。
それでもただ素直な気持ちで少女の問いに即答した。
「「ゆーびきーりげーんまーんウソついたらはりせんぼんのーます。ゆびきった!」」
幼なじみである二人の間で何時しか決まっていた約束のおまじない。
どちらともなく小指同士を絡めてそれを唱えた少年少女の顔には満面の笑みが浮かんでいた。
そうして歌の終わりと共に指は離れ、少年と少女は今度こそ別れる。
また会う明日。変わらない日常を疑うことなく。
○ ○ ○ ○
「久しぶりだな。最近来れなくて悪かった。こっちも色々ごたごたしててよ」
――それから十二年後の春。早咲きの桜が舞う町を一望出来る山の高台。
そこには経た歳月分成長し、背丈や顔つきが大人に近づいたかつての少年がいた。
糸のほつれや草臥れの見える制服に身を包んだ彼の足元には花束があり、手には一本の筒が。少年はおもむろにそれを開いて中から一枚の書類を取り出す。
癖の付いた書類の両端を握って広げた紙面には薄墨色の細かな字と共に卒業証書の文字が。
そう、今日は少年が通っていた高校の卒業式だった。
「ほれ見ろよ、一時期は成績がちょーっとヤバかったけどなんとか無事卒業出来たわ。お前にも少し心配かけちまったかな」
「でもこれで明日から晴れてフリーターになったわけかぁ……。あ、働く意思はあるからニートじゃないぞ?そこは間違えないでくれ」
自身の現状をおちゃらけた調子で語る彼の表情は決して明るくない。
普通に考えればそれもそうだろう。少年はその言葉通り卒業後の就職先が決まっておらず、不景気だと騒がれる時代において無職の二文字はよく考えなくとも致命傷だ。
だが、彼の表情が暗い理由においてそれは小さな一因でしかない。
もっと大きな理由が、式の中で感じたものが、自分以外のクラスメートが当たり前の様にしていたその姿が。
そして何よりこの場所に来たことが、彼が目を背けていた現実を思い出させたのである。
「……そろそろ行くわ。この後も午後イチでバイト入ってさ。ちょっと時間開くかもしれないけど、また来るからそこは許してくれ」
線香をあげて暫し合掌していた少年は苦笑を見せ、式の中で渡された花束を石段の上に置く。
屈み、低くなった視線の先にあるのは一つの墓石。
端々に苔の生した、粗削りな墓標に刻まれた家名はあの少女の苗字と同じもの。
側面に刻まれた四人分の名前はこの場所に彼女とその家族全てが眠る事を示していた。
――あの日を境に失われた、すぐ近くにあった陽だまりの様な温かさ。
血の海で見た無残な彼女の最後は今も少年の脳裏に深く刻まれている。
幼いながらも繋ぐ手に誓った約束を果たせなかった深い罪悪感と共に。
しかし現実は残酷で。未だ大切な者を失った悲しみを拭いきれない彼へ更なる牙を剥いていた。
「じゃあな。あ……それと、もしお袋がそっちに行くようなことが有れば迷わず叩き返してくれ。まだこっちに来るには早いってな」
止まらない負の記憶連鎖に無理矢理の苦笑を保つ少年はそう言い残し墓石から背を向けた。
震える足がゆっくりと石段を降り、歩みは途中で砂利を蹴り上げる走りになる。
時間ではなく過去に追われた背は遠ざかってそのまま一度たりとも墓標を振り返る事はない。
けれど向き合う事に耐え兼ねて悲劇の象徴から逃げ出そうとも過去は彼を逃がしはしない。
そしてあの日から離れられず、今まで幾度も目を背け続けた現実と本当の意味で向き合うべき日が近づいている事を。この時少年はまだ知らなかった。
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