空へと放て
七月も終わりとなって、本格的な夏が来た。
いや、ぶっちゃけ、大学の機械科の屋上なんて下手なビーチよりも暑い自信がある。まあ、好き好んでそんなとこで作業をしているんだろ、と、いわれれば返す言葉も無いが。
不意に、トントン、と、目の前で作業をしていた同じ研究室の棚橋が、右の頬を不意に叩き始めた。虫歯だろうか?
「どうした?」
訊ねて見ると、棚橋は理系女子大生らしい化粧っ気の無い顔で――まあ、だからこそのナチュラルな魅力はあると思うが――、ニカッと笑った。
「ほっぺた、切ってるよ?」
言われて右の頬を触り――、それからややあって、鏡としてやってくれていたことに気付き左の頬を触る。ほぼほぼ固まりかけた血の塊が手についた。
「マジか」
と、思わず声が出たが、そこまで血も出ていないし、手当てが必要って程でもないだろう。機械弄りをしていれば、知らないうちに切っていることって結構あるし。
「向こう傷だね。恥じゃないよ」
向こう傷? 変わった事を言うな、と、思ったが、棚橋とは研究室に配属されてからの付き合いだ。たった四ヶ月程度の距離感で変だと指摘するのは躊躇われた。
だから俺は「そうだな。うん、そうかも」と、返事をして近くの水道で顔を洗った。
大学四年ともなれば、夏休みなんてあまり関係ない。そう、就活だのなんだのと忙しい時期ではあるが、六月の推薦で院への進学が決まっている俺達にはあまり縁がない話ではあった。
いや、真面目な連中は感じを掴むとかで、進学するつもりでも就職活動を進めているのも多いが、俺はいまひとつ気乗りがしなかったし、それにポスドク――博士課程への進学――も、漠然とだけど考えていたので、参加していなかった。
代わりに……。
「こんなポンコツを使い続けるより、新しいのを買わないのかね、ウチの大学は」
ベシン、と、叩いてみたくなるのを我慢して一応は精密機械様様である年代モノのレーウィンゾンデを撫でた。
「今時は予算も厳しいんでしょ」
棚橋は、どこか投げ遣りに言って作業に戻ってしまう。
来年になれば、この研究室では二人っきりの大学院生にも関わらず、ちょっとつれない。暑さでイライラしているんだろう、と、思うことにする。なんてったって、レーウィンゾンデよりも繊細な部品で出来ているからな、俺のハートは。
棚橋の近くにはゴム風船に、気球に取り付ける機材、それに工具の類がずらっと並べられている。まあ、俺も似たようなものだが、俺は地上で気球からの信号を受け取る機材の調整だから棚橋のよりも大き目の機材がデン、と、鎮座している。
ふはぁ、と、直射日光に溜息というか、やかんの湯気のような息を吐いて作業に戻ろうとすると――。
「はい!」
全く意識の外から、そんな棚橋の声が投げられてきた。
ん? と、顔を向けるとふわん、と、なにかの紙切れが俺の顔目掛けて頼りなさげに飛んできた。
「なんだ?」
「絆創膏」
ふーん、やっぱり女子か、意外なところあるな、なんて、少し弾んでソレを手に取るけど……。
「あの? 棚橋?」
「ん~?」
マイナスドライバーを揺らしながら棚橋が答える。
「これ、俺がつけるのか?」
「つけないの?」
「いや……棚橋が何の疑問も感じないなら、いいんだ、別に」
そう、この場所には俺と棚橋しかいないし、教授も副手も同じ研究室の連中も今日はいないし。
しかし、それでも、どうすっかな、と、棚橋のくれた絆創膏? を、寄り目になって見つめる。
今は顔を棚橋の方に向けてはいないが、どこか期待している視線が俺の頬の傷に突き刺さってくる。
ちくしょう、向こう傷の心意気だ、俺の生き様を見ろ。
そう、意を決して、デフォルメされた猫が全体にプリントされている絆創膏を俺は自分の頬に、他ならぬ自分自身の手で貼り付けた。
どうだ! と、棚橋の方に前進で向き直る。
パチパチと、やる気の無い拍手が棚橋の方から響いてきた。
……日差しが厳しくなった気がする。
ストレートで四年まで来たが、それでも俺は今年で二十二だぞ? 可愛らしい猫の絆創膏、頬につけて大丈夫なんだろうか?
一拍だけ間を開けて棚橋を見るけど、棚橋はもう自分の作業に没頭していた。
声を掛けるのも躊躇われたので、仕方なく俺も自分の作業に戻る。
俺達は、最近の異常気象についてデータを収集するため、観測用気球をこの夏飛ばすことにしていた。自分達の研究テーマとは、リンクしていないとはいえないが、まあ、補足程度の距離感の観測。
レーウィンゾンデとは、上空の気圧、気温、湿度、それに風向や風速なんかを測定する機材で、最近の物はGPS制御なんだけど、そんな機材が無いうちの大学は、未だに専用の受信機を弄繰り回す必要があった。しかも、前に使ったのが去年とあってはメンテもせずにいきなり空に上げるわけにもいかなかったのだ。どっかにロストしたら、怒られるだけじゃすまないし。
「そっちはどう?」
俺の頬の傷から小一時間もしたころ、棚橋から声を掛けられた。
「多分行けるよ。ちょっと例に発信させてみ」
そう答えるやいなや、古いブラウン管に緑色の光で数字が浮かび上がり始める。
「OK、来てるよ」
「ちょっと飛ばしてみる?」
「落ちない自信があるならどうぞ」
「連帯責任ね」
不穏な発言を最後に、棚橋はヘリウムのボンベを捻って白い風船を膨らませ始めた。その風船の直径が一メートル五十センチぐらいになったところで、棚橋は紐で風船の口をくくり、その下に観測機器を取り付け、空へと放った。
ゆっくりとオレンジに変わっていく空の中、気球からの信号はきちんと届いていた。
いつのまにか、頬がくっつきそうな距離に来ていた棚橋が、俺が見ていたブラウン管を覗き込んでから「よし、これで大丈夫だね」と、勝気に笑った。
今日の作業で昨日よりも若干日に焼けた棚橋の顔。
せめて高校生だったら、こんな雰囲気で一気に恋が始まったのかも。
でも、残念ながら俺達は大学生。
お互いに頷きあって、気球を手繰り寄せ、撤収の準備へと入っていった。
丁度、日が落ち、でも、まだ明るさが残る紫色の空の頃に俺達は研究室を出た。明日からは本格的な観測が始まる。
「あ、そうだ」
不意に一歩前を歩く棚橋が振り返り――。
「えい」
ベリ、と、躊躇無く俺の頬の絆創膏を剥がした。
あ……。
絆創膏をつけたのを忘れていた。
流石にあのままじゃ帰れない、と、棚橋も気を使ってくれたのかな。
ありがとう、と、言おうとすると、はい、と、再び新しい絆創膏を手渡された。
「これは?」
無理矢理剥がされた頬の傷にちょっと血が滲んだ気がする。新しい絆創膏を摘まんで目の前に翳しながら俺は棚橋に優しさではなく暴挙だった行動の意味を尋ねてみた。
「とっといてよ」
「明日の分?」
にこーっと笑う棚橋は「私が怪我をしたときにも使えるかもよ?」と、答えた。
うむ。
意図が全く分からん。
首をかしげて棚橋を見る俺に、どこか悪戯っ子の顔の棚橋が弾んだ声で言った。
「今日のデートの思い出に、ね」
そういう発言は余計に解釈に悩む。年頃の女性の発言だから、余計に。
眉を寄せた俺を面白そうに棚橋が見ていた。
そっと胸ポケットに君がくれた絆創膏を仕舞う。
自分で使うのか、棚橋に使うのか、それとも部屋に帰ってどこかに仕舞ったらそれでもうお仕舞いなのか、今はまだ分からない。
ただ……。
夏が終わる頃には、この絆創膏にも特別な意味が出来るのかな、なんて毎年夏に感じるドキドキした予感は、少し確信に近付いた。
そんな一日。