4.思い出のコンサート
本大会の日。洋子は病院の待合室のテレビで、ずっとコンクールを見守っていた。補欠合格者である千江の演奏は最後に回されていた。洋子は、両手をかたく顔の前で合わせて、
「千江、がんばってね」
スヴェトラーナの演奏は素晴らしかった。ソビエトの威信にかけて送り込まれた天才である。千江たちにとっては大切なこの大会も、彼女にとっては、この大会は、数ある大会のほんのささいなものにすぎない。どこをとっても、欠点など見当たらなかった。あまりにも素晴らしかった。スヴェトラーナの次だった千江は、舞台の袖で、その優美な演奏を聞いていた。
演奏が終わり、スヴェトラーナは観客に向かって笑顔を見せ、おじぎした。きれいな、一体何ルーブルするかわからない宝石だらけのドレスは、照明の光を浴びて、7色にきらめいていた。拍手の大きさも、これまでとは桁違いだった。
退場していく時、スヴェトラーナは、さも汚い生物を見るかのように、千江をにらみ、
「アナタ、ナンナノ、ソノ、キタナイ、フクハ」
急に話し掛けられたので、びっくりした千江は、
「あ、あの…、北方領土、リターン、プリース」
「バーカ」
変な日本語ばかり、知ってるなあと千江は関心しながらも、あきれて物も言えない。つんとした表情で、優勝を確信している様子が、千江にはありありとわかった。
「あなたの曲、短所もなかったけど、長所もなかったわ。いってる意味がわからないかもしれないけど」
千江が言うと、スヴェトラーナの足が一瞬止まった。千江の言ったことがわかったのかもしれない。
「それでは、今宵最後の演奏者、扇千江さん、どうぞ」
千江はステージの中央に歩いていって、おじぎした。でも、今日の呼び物だった、スヴェトラーナの演奏が終わったので、観客の大半は帰りはじめていた。千江のみすぼらしい制服を見て、またさらに立ち上がる人数が増えたようである。
─いいんだ、すばらしい曲さえ弾けば、きっとみんなふりむいてくれる。
千江は目を閉じた。まるで、ここは、自分たちの家であるかのよに。
─私は、きっとこのコンクールで優勝して、あの家を買い戻すの。そして、また、前みたいな、…とはいかないけど、でも、お姉ちゃんと二人で、幸せに暮らしたい。
観客はほとんどいなくなっていた。
千江の心臓は高鳴っていた。洋子は待合室で、千江の演奏する姿を見守っていたけど、いつの間にか、自分が弾いているような錯覚に陥っていた。でも、洋子は、千江の弾き始めた曲を聴いて、おどろいた。聴いた事もない曲。一体、誰がこんな素晴らしい曲を作ったんだろう。
その音楽はコンサートホールの外にも響いていた。そそくさと帰ろうとしていた観客たちは足を止めて、千江が演奏する曲に、うっとりと聴き入っていた。
「なんだろう、この曲」
「ええ、なんだかとっても、心が暖かくなるわね…、ねえ、戻りましょうよ」
千江は必死だった。今まで、自分が洋子にどれだけ苦労をさせてきたか、わかった。だから、今こそ、自分が洋子のためにがんばらなければならない。一つのミスだって、スヴェトラーナに勝つためには、許されないのだ。千江は、指先に全神経を集中させていた。これだけ集中したのは、生まれて初めての事かも知れない。
戻って来た観客に気づかず、千江は弾き続けた。弾いていると、家族の想い出が鮮やかによみがえってきて、千江も忘れていた遠い過去の記憶を呼び覚ますのだった。
─楽譜を片方ずつ弾いていた時は、こんな事はおこらなかった。
最後の1小節を弾き終え、千江はふと、観客席を振り返った。いつの間にか、満員御礼になっていた。一番おどろいたのは、スヴェトラーナまで、感動の涙を流しながら、力いっぱい拍手してくれている事だった。
「北方領土は返還しまーす」
その後は、もう文句なしで、優勝は扇千江に決定。そして、千江と洋子は、その曲のおかげで、ピアニストになる事ができて、その後はお金に困ることはなかった。
でも、あれから10年たった今でも、お姉ちゃんに黙ってることがあるのよ。時々、あの時の曲ってさ、本当に千江が作ったの? って聞いてくるの。私は、もちろん! って返すんだけどね。
実は、コンクールで弾いた、私たち姉妹を救ったあの名曲はね、遺作だった2枚の楽譜を重ねたら、できたの。きっと、私たちふたり、いつまでも、仲良く一緒にいてほしかったんだろうな。まったくもう、とうさんったら、そう書いておけばいいのに、素直じゃないんだから。
(おわり)




