厄介払い
『天に浮かぶ巨大な宮殿』
この大聖宮を、一言で表せと言われたら、誰もがそんな答えを返すだろう。
浮遊力場を放つ〝稀翔石〟の力によって──厳密には、その稀翔石を納めた巨大な半球体を基底部にする事で、常に聖都の上空を陣取っている。つまり、私達のような翼を持つ天翔民でなければ、出入りは不可能であり、故に、天翔民の権威の象徴と言える。
そこでの私の役目は、北従宮の予備蔵書庫を管理維持する〝予備蔵書庫監理士〟──それが、建前であることを、私も含め知らない者はいない。
〝予備蔵書庫〟などと、それらしく聞こえるが、ここにある蔵書の大半は、知識が古かったり、手に取る者すらいないだろうという代物ばかり。中には、傷みの激しいゴミ同然の物まである。おかげで、〝死蔵書庫〟だの〝掃溜め書庫〟だのと呼ばれており、そこを監理する私には、〝掃溜め監理士〟などという肩書まで追加された。
修学所を修了し、ここに放り込まれてからの百年余り──今や予備蔵書庫から出ることも殆ど無くなり、食事と、自主的な剣の鍛錬と、書庫整理ついでの読書の日々を過ごす内、退屈を退屈と感じなくなりかけていた。
「聖皇陛下がお呼びだ」
ノックもせずに入って来たその男が、感情の籠らない声でそう告げたのは、そんな時だった。
「私を?」
「そうだ」
私の問い返しに、彼は無表情に答えた。
またタチの悪い嘘──という考えを、私は否定する。修学所の幼年室ならともかく、官吏に就いてる者が聖皇を騙るなど、それだけで重罪だ。ましてやこの男は、聖皇の近衛の証である赤い外套を羽織っている。どうやら嘘ではないようだ。
なので、
「分かりました」
閑職の私には、そう言うしか無かった。
大聖宮を上から見ると、六角形の主宮とそれを囲う正方形の従宮で成り立っており、これらは、北側と南側の従宮から中庭を挟んで主宮の南北に構える門へと繋がる。そこから中に入ると、天井まで届く吹き抜けの外環回廊が壁に沿う形で六角形を描いており、各階へと繋がる。梯子や階段は無い。翼を持つ天翔民に、昇降設備など必要ないからだ。
ただ一つ──天井を、外壁に沿う形で繰り抜かれた通路が、唯一の階段だ。
この階段は、一段一段歩いて上るのが最礼法とされており、私は近衛の案内で、初めてこれを実行した。
そして──初めて、聖皇の座す〝天頂の間〟に足を踏み入れた。
端から端までは、外壁まで含めた幅があり、天井も悠々飛び回れるくらい高い。そして、その周囲の壁は全面が窓になっており、空で囲まれるような展望は、まさに〝天頂〟だと、私は思う。
階段から延びる絨毯は、間の中央の青く彩られた六角形の床で途切れる。そこが、基底部の稀翔石へと通ずる扉であり、玉座はその上に座している。
その手前で私は片膝を着き、頭を垂れ、
「予備蔵書庫監理士ステラ、参りました」
我ながら、何と板に付いていない作法だと思う。とりあえず、何か言われるまで絨毯の毛の数でも数えよう。
「鉱山で、地駆民の失踪が相次いでいる。聖皇ミカエルの名において、予備蔵書庫監理士ステラに調査を命じる」
十六本目を数えたあたりで、頭の方から厳かな声が聞こえてきた。おかげで、その言葉を理解したのは、二一本目を数えた時であった。
「‥‥‥え?」
思わず顔を上げてしまう。玉座に腰を下ろすその男は、静かに私を見下ろしていた。
聖皇ミカエル──この聖地と聖翼達の頂点は、眉目秀麗の文字を絵にしたような端正な顔立ちだった、という事を初めて知った。
「私が、ですか?」
「不満か?」
「あ、いえ‥‥‥」
思い出したように頭を下げ、元の絨毯が目に入る。毛の数も途中の箇所も、頭から消えていた。
「聖皇陛下直々の御下命、この身には余りある光栄でございます」
光栄云々は社交辞令だが、意外に思ったのは本当だ。大聖宮どころか、この聖地において、私は最底辺と言って良い。頂点たる聖皇に目通りはおろか、遠目に見ることさえまず無い。ましてや、直々に命を受けるなどあり得ない。
だからこそ、
「でも、何故私が?」
疑問をそのまま口にした。無礼かどうかなど、頭から消えていた。
「門外漢の私よりも、適任の方は他にもいると思いますが」
例えば、貴方の息子とか──その言葉が出かかるが、さすがにどうかと思うので飲み込み、ミカエルの答えを待つ。
「残念だが、その適任者は皆出払っているとのことでな。かと言って、他の者を回せるはずもない。そして、余ったのがお前だ」
「それって」
早い話が暇そうだから──要は、そういうことらしい。
私の中で、疑念は次々に氷解して行った。
「別に専門的な事をしろとは言わぬ。お前の言う適任者は、いずれ送る。お前は先行して状況確認でもしていればいい」
「‥‥‥分かりました」
ええ、よく分かった──ミカエルが、私は勿論、この事件に対しても全然関心が無い事が。
「話は終わりだ。下がって良いぞ」
と、ミカエルはぞんざいに手を振った。
私は黙って立ち上がり、しかし頭を下げたまま三歩下がり、踵を返した。来た通り、絨毯と階段を歩いて戻り、それが切れたところで翼を広げ、その辺の窓から飛び出したいのを我慢して、北門に向かって降りていく。
そんな私に突き刺さってくるのは、奇異、侮蔑、嫌悪──そんな視線。
やはり主宮は聖皇が座す場所。各宮の出入りを禁止されているわけではないが、ここに出入りするのは高位の者──という意識が、やはり皆の中にあるのだ。
聖皇直々に呼び出されたとはいえ、半聖半魔の私に向けられる視線に、好意的な感情は一切ない。
中には、見るだけでは済まない者もいた。
「どこぞの黒い翼が主宮に入ったと聞いていたが、まさか天頂にまで入り込んでいたとはな」
門の前に降り立ったところで、そいつは上から嫌悪と侮蔑を隠そうともせず、吐き捨ててきた。
「これは聖太子殿下。ご機嫌も麗しく」
自分でもそう思えるくらい、わざとらしい態度だと思う。頭を下げたのは、もちろん礼儀ではない。そいつの顔を、一瞬でも見たくなかったからだ。
「貴様を目にした時点で、気分は最低まで落ち込んだ。一瞬でな」
同感だ。なので、
「では、これ以上のお目汚しになる前に、私は早々に消えるといたします」
私は頭を上げたまま背を向け、
「待て。誰が行って良いと言った?」
呼び止める声に、私は無視したいのと舌打ちを我慢して、仕方なく振り返った。
聖皇近衛筆頭の証である白い外套を、誇らしげにさばきながら降り立ったのは、やはり見たくなかった面だった。
聖太子ベルネス──聖皇ミカエルの息子にして次期聖皇、そして近衛の筆頭格である。
私とこいつとは修学所時代の同期であった。エリート中のエリートである彼にとって、私のような半聖半魔は、存在するだけで我慢ならないモノだったらしい。おかげで、何かと目の敵にされたものだ。
修学所を出てからは、それぞれ最高峰と最底辺の官吏に就いたおかげで、殆ど会うことも無くなった。とはいえ、同じ場所にいるのだから、十数年に一度くらいはどうしても顔を合わせる事もある。その度に、彼はむやみに絡んでくるのだった。
言うまでもなく、私はこいつが大嫌いだ。今回、呼び出されたとはいえ主宮に入った以上はこうなると思っていたが、外れて欲しい予感に限って当たるものらしい。
なので、
「何でしょうか?」
問いかけには、つい溜息が混じってしまった。
どうせまた自慢話とか、自分達の差を必要以上に比較するとか、そういう疲れる話だろう──その予想は、しかし今回は外れた。
「貴様のような〝穢れた翼〟が、如何なる用向きで父上──いや、聖皇陛下の御前に立った? それは、相応の理由であろうな?」
どこか苛ついたようなベルネスの態度。どうやら、嫌味などではなく、本当に知らないらしい。
「‥‥‥それに関して、私から言えることは何もありません」
仮にも聖太子で近衛の筆頭が知らないのは妙だと思うが、答える必要は無い。
「どうしても知りたければ、陛下に直接問い合わせて下さい」
何せ、近衛筆頭で息子なんだから──口には出さず、目でそれを告げた。それを感じ取ったか、ベルネスは歪ませた。
父親似の眉目秀麗が歪むと、逆に見るに堪えなくなる。
「‥‥‥では、これで失礼します」
私は、すぐに踵を返した。敵意剥き出しのベルネスの視線が突き刺さってくるが、それは無視。
北門から出て、北従宮の予備蔵書室に向かう。事実上の私室となっている監理室から剣を持ち出し、そのまま窓から飛び立った。
上昇しながら、ふと大聖宮を振り返ると、天頂の間の窓辺に立つミカエルに気づいた。向こうも気づいたか、一瞬こちらに視線を合わせるが、すぐに外した。
「気まぐれ、か‥‥‥」
色々考えてみたが、それが最も腑に落ちる。
聖皇は、この事件に関心が無い。地駆民ごときの失踪に、いちいち人手を割く気になれないのだ。そこで浮かんだのが暇を持て余した厄介者、というところなのだろう。それを先に行かせることで、とりあえずの姿勢を見せる。
結論──これは、子供の使いだ。
「‥‥‥何よ」
急に馬鹿らしくなってきた。だがすぐに、久しく忘れていた怒りが湧いてきた。馬鹿らしさに遅くなりかけた飛翔が、我知らずに加速していき、
「今に見てなさいよ──!」
その怒声も上乗せして、爆発的に加速した。