突破
翌日──きっかり正午に、二人の衛兵が、予備蔵書庫に現れた。
「時間だ」
片方が、感情の籠らない声で告げる。私は、ベルネスや近衛の姿が無い事を確認する。
最初の賭けには勝った──ある意味、それは落胆だったかもしれない。これでもう、後戻りも踏み止まることも出来なくなった。ましてや、迎えに来たのはこの二人だけ。部屋の外で、別の衛兵が待機している気配も無い。
訂正──最初の賭けには、大勝ちだ。
私は、落胆を高揚に変えた。衛兵達が手と足に枷を付けるべく近づいてくる。次の勝負は、出だしの一歩。集中するのは、ただ一点。
右の兵が、先に間合いに入る──遠くから轟音が響いたのは、まさにその瞬間だった。僅かに遅れて、床から震動が伝わってくる。
衛兵らの視線が、自然とそれらを探して動く。
一点に集中していた、私だけが、その場で身を翻していた。その勢いで、まずは右の兵の顔面に拳を叩き込む。体重と、僅かながらでも突進の勢いを乗せた一撃は、彼の鼻を折るには十分な威力だった。
「貴様っ」
気づいたもう片方が、剣の柄に手をかける。それが抜ききらぬ内に、回転した私の踵によって顎を打ち上げられ、悲鳴すら上げられずに仰向けに倒れた。
遅すぎる。彼らの動きは、オーマシラや森の猛獣達に比べれば、実に遅すぎる。トーマなら、それこそ剣の柄に手をかける前に、全て片付けるのではないだろうか。
私は、出入り口の鍵をかけ、昏倒した衛兵の懐を探る。だが、封環の鍵は見つからない。さすがに、そこまでは甘くないようだ。
仕方なくそれは諦め、私は衛兵達を縛り上げ、さらに轡も噛ませる。
再び轟音が響く。今度は、異なる方向から、立て続けに二回。
これは──爆発だ。
「‥‥‥何だかよく分からないけど」
これは願っても無い事だ。私は、頭の中で大急ぎで段取りを組み立てていく。
まずは、衛兵たちを監理室の方に放り込み、彼らの武器を失敬する。支給品の長剣と短剣が、それぞれ二本ずつ──心許ないが、無いよりはマシだろう。
剣を頭の上から背中に回し、封翼帯に刃を当て、切り裂いた。自由になった翼のコリをほぐしていると、さらに爆発が起きた。今度は、かなり近い。
「まただっ!」
「何が起こってるんだよっ?」
「また怪我人だっ。医療士はどうしたっ」
「避難しろって、どこに行けばいいのよっ」
しばらくして、そんな怒号が扉越しに聞こえてきた。その混乱は、さらに混乱を呼び、悲鳴や荒い足音が更に大きくなる。
私は出入り口に駆け寄り、大きく息を吸いながら鍵を開け、
「中は危険だ、外に逃げろっ」
僅かに開けた出入り口から、出来るだけ低い声色で叫んだ。そして、すかさず扉を閉める。
「中は危険だってっ」
「外だ、とにかく外だっ」
そんな声を耳にして、私は出入口の鍵をかける。
窓の方から窺うと、天翔民たちは門と言わず窓と言わず、とにかく我先に外に飛び出していくのが見えた。
まずは、宮内を手薄にしなければならない。この立て続けの爆発で、宮内の天翔民達は酷く混乱している。混乱した人間は、とにかく目的意識が希薄になっており、誘導するのが容易い──というような記述が、十年ほど前に読んだ兵法書にあった。
「うろ覚えの兵法を、使う時が来るとはね」
梯子といい、人生何が起こるか分からないものだ──などと感心していると、出入口から扉を開けようとする音が聞こえてきた。
「くそっ、何でここだけ鍵かかってんだっ」
「良いから他に行くぞっ」
足音が遠ざかっていく。輝術で無理に鍵をこじ開けようとしないあたり、焦りが頂点に達しているのか、あるいはまだ冷静なのか。
再び、窓の外に目をやる。大聖宮を遠巻きに見つめる天翔民達が、増えていく。それをざっと数えて、頃合いと判断した。
私は、再び出入り口に向かい、廊下を窺う。まだ声や足音は聞こえるが、今は誰もいない。
「さあ‥‥‥」
私は、先ほどとは別の意味で深呼吸し、静かに出る。そのまま、手近の窓から、主宮を見上げる。
最上部の天頂の間は、その周囲を、見るからに分厚そうな壁で覆われていた。そういえば、有事の際は防御壁で覆うという話を聞いたことがある。並の輝力では、傷も付けられないとか。
最大で〝貫閃〟を使えば──その考えを、私はすぐに却下。いくら並外れた輝力量でも、焦って無駄遣いするわけにはいかない。やはり、このまま北門から入って上った方が良いだろう。
私は、身を躍らせ、そのまま主宮に向けて一気に加速する。
背後が爆発したのは、その直後だった。
「え」
振り返った一瞬後に、衝撃波が私の背中を打った。体勢を立て直しながら見れば、たった今私の飛び出した蔵書庫を中心に、周りの部屋ごと吹き飛び、炎と煙が上がっていた。
「‥‥‥っ」
百年過ごした部屋──それが燃え落ちる光景に、しかし私は背を向けた。とにかく今は、速さが勝負。それに、未練など何も無いのだ。
何より、かつての己が部屋だけではない。見れば、大聖宮は──従宮はおろか主宮までが、立て続けの爆発であちこちが崩れ落ち、火災を起こして黒煙を上げていた。三百年間決して無かったその有様を、空中では天翔民たちが、地上では地駆民たちが、呆然と見つめる。
私も、思わず速度を緩めてしまう。
「魔翼だ」
誰かが、そんな事を口にしたのを、私は聞いた気がした。思い出したように加速するのと、自分に視線が一斉に集まるのを感じたのは、同時だった。
騒ぎが一気に大きくなる中、私は開け放たれたままの北門から、外環回廊に飛び込んだ。
「愚かだな」
そこには、十数人の近衛達と、その後ろで勝ち誇った笑みを浮かべるベルネスがいた。
飛び込んだ私の背後では、別の近衛が門を閉めた。
「本当に愚かだ。北門をわざと開けておいたのに気付かない上、のこのこ飛び込んでくるとは」
ベルネスが手を振ると、近衛達が私を縦横に囲み、輝力を集め始める。ベルネスは、さすがに警戒しているのか、そこから動かない。
「少々予定は狂ったが、これより処刑を執り行う。言い残すことがあれば、聞いてやるが?」
なんて自分は慈悲深い──そんな自己陶酔が、嫌でも感じられる。私は嘆息を漏らし、
「‥‥‥とある〝籠の鳥〟の大失敗談なんてどうかしら?」
「ほう、興味深いな」
勝利を確信している、ベルネスは余裕綽々で食いついた。無意味な時間稼ぎとでも思っているのだろう。
「絶好の位置で待ち伏せて、しかもここまで完全に包囲しておいて」
と、私は自信を囲む近衛達を見回し、
「一気に仕留めないどころか、取り押さえもしないで、挙句は余裕ぶってお喋りなんかして、大体自分で迎えに来ないで、たった二人の衛兵にやらせて‥‥‥」
挙げ出したら、キリが無い。私は、その先を続けるのを諦めた。
ベルネスは、笑みを引き攣らせ、
「まさかとは思うが‥‥‥貴様の言う〝籠の鳥〟が、私の事だとは言わないだろうな?」
「‥‥‥そんな事だから、父上にも見放されるのよ」
これには、周りの近衛達の何人かが、息を呑んだ。どうやら、彼らの中では禁句であったようだ。
それはつまり、
「貴方の部下の考えは、私とそんなに違わないみたいね」
と、私は他の近衛達を見回す。
「彼らが貴方に仕えているのは、あくまで聖皇の息子だからよ。逆に言えば、聖皇の息子じゃなかったら誰が貴方に、というところかしら」
近衛達は微動だにせず、しかし、私と視線を合わせる一瞬だけ、目を逸らした──やはり、彼らにベルネスそのものへの忠誠や信頼は、限りなく薄い。
「お飾りの階級、名前だけの地位、形だけの部下。それは実力じゃなくて、親から与えられて‥‥‥しかも、本人はその事に、今の今まで気づかないどころか気づこうともしない」
とはいえ──ほんの数日前まで、私はベルネスと大差なかった。
ほんの数日──私達天翔民にとっては、瞬く間に等しい時間の中で、私は様々な事を学ばせられた。
腐っていた目を、醒まさせてもらった。
「貴方の事は大嫌いだったけど」
今なら、トーマの気持ちが分かる気がした。特に、出会った頃の自分が、彼の目にはどう映っていたのか。
今は目の前の男が、ひどく小さい。その小さな男に向かって、
「哀れんであげるわ、聖太子サマ」
私は、出来るだけさりげなく、しかし勢いよく右手を振った──袖口から、仕込んでいた短剣が、文字通りの矢になって放たれ、ベルネスの左翼に深々と突き刺さった。
「‥‥‥ひ、ひぃっ?」
悲鳴を上げて、ベルネスは腰を抜かした。近衛達の視線が、一瞬だがそちらに向かう。
その一瞬で、私は左横にいた近衛の右翼に、左腕に仕込んだもう一つの短剣を投げつけ、同時に飛び出す。右翼に刃が突き刺さり、それに気を取られた彼の顔面に、膝を叩き込む。
「う、撃てっ」
ベルネスは、翼に包養を施しながら指示を飛ばすが、近衛達が輝術を放った時には、既に私は囲みから脱していた。そのまま、天頂の間への階段を目指す。
「何をしている、撃て、追えっ。陛下を守れっ」
「ままならいもんでね」
我に返ったベルネスの金切り声と、飄々とした声が、それぞれ私の背後と正面から聞こえた。正面から飛んできた四本の刃が、私とすれ違い、その先端から鋭い光条を次々に放った。先行してきた四人が撃ち抜かれ、床に落ちていく。
「それは無理だよ」
思わず立ち止った私の横に、その灰色の鎧──トーマは並んだ。
「ほい、これ」
と、差し出したのは、細長い棒──封環の鍵だった。
「何考えてるか知らないけどさ、専売特許が使えないんじゃ、派手にやるにしても、ままならないだろ?」
「‥‥‥そうね」
私は、鍵を受け取る。
いつの間に、どうやって──そんな疑問は、しかしすぐにどうでもよくなった。
「あれ、意外と冷静だね。もっと驚くと思ってたけど」
「これを見た時に、予想出来たもの」
私は、胸元から首飾りを取り出して見せる。まだ、明滅したままだった。
「もう驚く事なんて何も無いわよ」
「なら結構」
トーマの鎧から、八本の刃が抜き放たれ、
「ここは任せろ。早く行け」
その切っ先から一斉に光条が離れ、さらに八人の近衛達を撃ち落とした。
「‥‥‥ちゃんと手加減するのよっ!」
言い放って、私は階段へ飛ぶ。
冷静──大嘘だった。今だって、頬が緩むのを、必死に堪えなければならなかった。




