白い結婚の筈が、相手が好みのタイプ過ぎて正直我慢できそうにない。
ヴィクトリア・エルディネスは、自分の人生にそれほど興味がなかった。
別に死にたいわけではない。
生きることが辛いわけでもなければ、自分だけが何か大きな不幸を背負っていると思ったこともない。
ただ、自分という人間を特別大切にしなければならない理由が、いまひとつよく分からなかった。
エルディネス王国第一王女、ヴィクトリア・エルディネス。
二十四歳。王位継承順位第二位。
幼少期から神童と呼ばれ、十三歳で王国の財政報告書に計算上の矛盾を見つけ、十五歳で初めて国政会議へ同席した。十八歳で隣国との交易交渉へ参加して以来、王太子である兄の補佐として外交、財政、軍事を問わず様々な政策に関わり、二十歳を過ぎる頃には王宮内で彼女の名を知らぬ者の方が少なくなっていた。
人は彼女を、エルディネス王家の懐刀と呼んだ。
あるいは、氷の王女。
人間を数字でしか見ない女。
常に精確な機械じみた人形。
大きくは間違っていない。
ヴィクトリアが人を見る時、最初に考えるのは、その人間が何をできるかだった。次に何を望んでいるのかを考え、何を与えれば動くのか、何を失えば裏切るのかまで把握する。
そこまで分かれば、大抵の人間は扱える。
父についても同じだった。
兄についても同じだった。
そして、自分自身についてさえ、同じだった。
「一年ほど、王都を離れてもらいたい。」
国王となったばかりの兄からそう告げられた時も、ヴィクトリアは特に何も感じなかった。
「承知した。」
「……まだ理由を話していないが。」
「分かっている。」
兄が眉を寄せる。
ヴィクトリアは王の執務机に広げられた書類へ視線を落とした。国内の穀類取引から輸出租税に関する調査、新造大型商船の許可申請まで、机上には一見無関係に見える書類が雑多に並んでいる。
しかし、ヴィクトリアには全てが繋がって見えた。
「西部三侯爵家の動きだろう。お前の即位を快く思っていない。だが正面から王位継承に異を唱えるだけの大義がないから、私を担ぎ出そうとしている。」
「そこまで分かっているなら話は早い。」
「私に王位を望む意思がないことも分かっているだろう。」
「もちろんだ。」
「だが、彼らに私の意思は関係ないな。」
ヴィクトリアは淡々と言った。
自分に王位への野心がなくても、継承権はある。国政へ携わった実績もあり、王太子時代の兄よりヴィクトリアの方が王に相応しいと考える者も少なからず存在する。
ならば使える。
政争とはそういうものだった。
「私という駒が盤上になければ、少なくとも一派の大義は弱くなる。国外へ追い出せば露骨すぎるから、国内の遠隔地。王都への影響力が低く、かつ王家への忠誠が厚い家へ嫁がせるのが妥当だろうな。」
「……本当に、お前と話していると情緒というものがなくなるな。」
「この場で情緒が何の役に立つ。」
「妹を結婚させる兄としては、少しくらい寂しがってもらいたかった。」
「たかが結婚だ。意味が分からん。」
「……もういい。」
兄が額を押さえた。
ヴィクトリアにとって感情とは、物事を複雑にする変数の一つだった。盤上の駒も手札も多ければ多いほど選択肢は増えるが、それを面白いと思ったことはない。
手元の資料をまとめて机へ放ると、数枚が床へ滑り落ちた。
ヴィクトリアは特に気にせず、兄へ視線を戻した。
「それで、相手は。」
「ヴァルグレン辺境伯家の長男だ。」
「長男?」
「ああ。ただし、家督を継ぐ可能性は低いと見られている。」
ヴィクトリアは僅かに眉を上げた。
辺境伯家の長男でありながら後継者ではない。
何らかの瑕疵がある、と考えるのが普通だろう。
「婚約者は。」
「いない。」
「それは好都合だな。」
「……もう少し言い方があるだろう。」
「相手がいれば補償するか、別の相手を探すかで余計な手間が増えるだろう。いないなら早い。」
「お前は本当に……いや、もういい。」
兄は諦めたらしい。
「先方にも事情は説明してある。婚姻期間は一年。その間、お前は王都を離れ、ヴァルグレン辺境伯領で暮らす。西部の連中を片付け次第、白い結婚であったことを理由に離縁し、王籍へ戻す。」
「了解した。」
「異論は?」
「ない。」
話は終わったとばかりに立ち上がろうとしたヴィクトリアを、兄が咎めるような目で見た。
「相手の名前くらい聞かないのか。」
「書類にあるのだろう。会うまでには関係者全員確認する。」
「夫になる男だぞ。」
「一年だけだ。」
ヴィクトリアは本気でそう思っていた。
一年間、形式上の伴侶として過ごすだけなのだから、暴力を振るうような人間でなければ誰でもいい。
いや、むしろ今回に限っていえば、白い結婚であることは大変ありがたかった。
何しろ。
ヴィクトリアには、前世の記憶がある。
◇
前世のヴィクトリアは、男だった。
そして。
モテなかった。
それはもう、見事なくらいモテなかった。
勉強はできた。
仕事もそれなりにできた。
収入も同年代と比べれば悪くなかったと思う。
しかし学生時代を陰気に過ごした後遺症から、女性への接し方だけが最後まで分からなかった。余計なことを言えば嫌われ、嫌われまいと口を閉ざせば空気になる。その二択を繰り返しているうちに、年齢と彼女いない歴が綺麗に並んだ。
そして二十代半ば。
童貞のまま事故で死んだ。
だからこそ、よく読んでいた物語と似た世界へ転生したらしいと気付いた時、最初は歓喜した。
柔らかな寝台。
豪奢な部屋。
何人もの侍女。
高貴な身分の両親。
そして鏡に映る、赤子にしてすでに恐ろしく整った顔。
――来た。
幼いヴィクトリアは思った。
これは来た。
前世で読んだことがある。
異世界転生というやつだ。
しかも王族。
金もある。地位もある。顔までいい。
神様ありがとう……!
前世では縁のなかった女性たちと華々しい第二の人生を送る時が――。
だからこそ、それから少しして自分が女として生まれたのだと理解した瞬間の絶望は大きかった。
何かの間違いだと思った。
間違いではなかった。
どこからどう見ても女だった。
――しかも王女。
神は何を考えている。
そこまでして自分に女性との縁を与えたくないのか。
しかし人間とは不思議なもので、環境と身体に合わせて精神も少しずつ形を変えるらしい。
二十四年間女性として生きるうちに、自分が女であることに違和感はなくなった。
今では自分を女性だと思っている。
第二次性徴を迎えた頃から、男性を見て胸が高鳴ることもあった。
性欲も普通にある。
ならいい。
男と結婚しよう。
そう考えた。
元男の記憶があるせいか、どうしても大柄で精悍な男には異性としての魅力を感じにくかったが、世の中には色々な男がいる。
細く、綺麗で、中性的な男。
そういう相手ならば……。
自分は王女なのだ。
きっと一人くらい選べるだろう。
そう考えた。
甘かった。
◇
「まあ、ヴィクトリア殿下。とても素敵な方ではありませんか。」
十七歳の時。
最初の婚約者候補と引き合わされた際、侍女は頬を染めながらそう言った。
しかし、ヴィクトリアは答えなかった。いや、厳密には答えられなかった。
相手の身長は百九十を軽く超えていた。
肩幅、広い。
腕、太い。
胸板、厚い。
首、太い。
そして先ほど自己紹介のついでに、
「昨年は狩猟祭の際に素手で大熊を仕留めまして!」
とサムズアップを決めながら笑顔で言っていた。
素手で……?
何故だ。
武器を使え、武器を。
ここは原始時代か何かか。普通に考えておかしいだろうが。
「……殿下?」
「何でもない。」
ヴィクトリアは思わずぞっとして男からそっと目を逸らした。
視線の先、窓の外には青空が広がっている。
しかし、どう考えても自分の将来には暗雲しかなかった。
この国では、基本的に男は大きければ大きいほど美しいとされる。
逞しい肉体は富と強さの象徴。
太い腕。
広い肩。
厚い胸板。
強靱な脚。
そこに精悍な顔がつけば完璧だった。
なるほど。
文化とはどこの世界も、いつの世も多様なものだ。
それは、尊重しよう。
自分には絶対に無理だが。
二人目。
剣術大会三連覇。
――でかい。
三人目。
騎士団でも指折りの豪傑。
――でかい。
四人目。
共に参加させられた宴の余興で、まず鉄棒を曲げた。
もちろん、素手で。
ヴィクトリアは、その男の手をじっと見た。
とても、とても分厚かった。
確かにあの手なら、フライパンくらい簡単に曲げるだろう。
もう嫌だ。
もう怖い。
ヴィクトリアは前世で男だった。
だからこそ、妙に生々しく分かる。
自分より頭二つは優に大きく、体重が倍以上あり、鉄棒を素手で曲げる人間と寝台を共にする未来を想像すると、恋愛感情より先に生命の危機を感じた。
男性とは、ヴィクトリアにとって、自分を守ってくれる存在ではなく、どうしても「殴り合えば勝てない相手」としか見えなかった。
しかも今世のヴィクトリア自身は、どう見ても殴り合い向きではない。
緩く波打つ長い金髪。光によって紫色にも見える深い藍色の瞳。白磁のような肌と、細い手足。背丈は低く、年齢より幾分幼く見える顔立ちで、普段からほとんど表情を変えないせいもあり、精巧な人形のようだと評されることも多かった。
男の立場から見れば、さぞかし担ぎやすい姫に見えるのだろう。
しかし元男である自分からすれば、たまったものではない。
なぜわざわざ猛獣に人形を抱かせる必要がある。
「殿下、いかがでしょう?」
「……さぞ優秀な男なのだろうな。」
「では!」
「結婚したいとは言っていない。」
五人目。
――熊。
六人目。
――海賊。
実際には海軍士官だった。
七人目。
――山賊の首領。
実際には公爵令息だった。
八人目。
――熊。
また熊。
熊、熊、熊。
一匹くらい本物の猛獣ではなく、テディベアが混ざっていても罰は当たらないだろうに。
ぬいぐるみと人形なら、まだ釣り合いが取れる。
――しかし。もう、どうでもいい。
分かりたくなかったが、理解せざるを得なかった。
神は恐らく、自分に何らかの罰を与えているのだろう。
何の罰なのかは分からない。
――童貞だったのが悪かったのか。
――街中で楽しそうな恋人同士を見て、爆発すればいいのにと思ったのが悪かったのか。
何にせよ、自分は償いのため今世を生きねばならないらしい。
それほどまでに、この世界の美的感覚とヴィクトリアの好みは致命的に合わなかった。
ならば仕方がない。
王族である以上、いずれ政治的に必要となれば結婚しなければならない。
相手がフライパンを曲げようが、大熊を絞め殺せようが、必要ならば寝所も共にする。
その時は。
――気絶していよう。
できる限り自我を消し、機械のように役割だけ果たせばいい。
そうしてヴィクトリアは、恋愛について考えることをやめた。
それからはまた国のために働いた。
政治は、まあ退屈はしなかった。
軍略を巡らすのも悪くない。
外交にも、それなりにやり甲斐はある。
そこへ自分自身の人生や願望などなくても、特に困らなかった。
国の歯車として生まれたのなら、よく回る歯車になればいい。
必要な場所へ嵌まり、役目を終えれば取り替えられる。
それで十分だった。
だから今回の結婚にも、何の感慨もなかった。
むしろ、白い結婚。
素晴らしい。
相手がどれほど巨大でも、どれほど恐ろしくても、触れられない。寝所へ忍び込まれることもないし、夜になって妙な誘いを受ける心配もない。
ヴィクトリアは、生まれて初めて政略結婚という制度に心から感謝した。
◇
王都を出て十二日。
ヴィクトリアを乗せた馬車は、ヴァルグレン辺境伯領へ入った。
寒かった。
八月だというのに、寒い。
遠くには雪を頂いた山々が連なり、その山間部から南下してくる魔物を防ぐためだろう、領都全体が巨大な城壁で囲われていた。
なるほど。
北方では首都よりさらに屈強な男が好まれるという理由が、よく分かる。
生存に必要なのだ。
門を潜ると、出迎えの一団が並んでいた。
ヴィクトリアは馬車を降りた。
「ヴィクトリア殿下!」
声がでかい。
現れた男も、でかい。
「遠路遥々、ようこそお越しくださいました!」
ヴァルグレン辺境伯。
黒髪、黒目。
身長二メートルほど。
熊である。
ヴィクトリアは無表情で一礼した。
「歓迎に感謝する、ヴァルグレン卿。」
「はっ! おい、ガレス! ドレイク!」
「はい!」
「応!」
二人出てきた。
熊。
熊。
なるほど。
遺伝か。
「次男のガレスです!」
身長二メートルを超えている。
「三男のドレイクです!」
こちらも同じくらいある。
特に肩幅が凄まじい。
ガレスに至っては、ヴィクトリアの荷物を詰めた大型木箱を一人で持ち上げていた。
「殿下! お荷物は俺が運びます!」
「……使用人へ任せては。」
「これくらい軽いものです!」
だろうな。
あの手ならフライパンどころか鉄柵でも曲げそうだ。
「北方でお困りのことがあれば何でもお申し付けください!」
「兄上はあまり力がありませんので、力仕事なら俺たちが!」
「……そうか。」
「魔物が出た時もお呼びください!」
「心得た。」
「熊なら俺が!」
「熊はもういい! 十分だ!」
「はい?」
「……何でもない。」
ヴィクトリアは密かに息を吐いた。
息どころか魂まで口から出そうだった。
父。
熊。
弟。
熊。
弟。
熊。
なら長男も熊だろう。
白い結婚で良かった。
本当に良かった。
でなければ、この時点で失神していただろう。
「ところで。」
辺境伯が野太い声とともに周囲を見回した。
「リュシアンはどうした!」
そうだった。
今回の形式上の夫。
リュシアン・ヴァルグレン。
二十一歳。
「兄上なら、出迎えの際に殿下へご不快な思いをさせてはならないと、中で待っています!」
「馬鹿者! 妻となる方だぞ――」
「構わない。」
ヴィクトリアは辺境伯を静かに遮った。
どうせ一年だ。
熊が一頭増えたところで大差ない。
「案内を頼む。」
◇
ヴァルグレン城は、王都の宮殿とは比較にならないほど質実剛健だった。
装飾は少なく、壁は厚い。廊下は広い一方で窓は小さく、城館というより防衛拠点としての機能を優先していることが分かる。
合理的だ。
悪くない。
一年過ごすのなら、何かしら王都へ持ち帰れる工法や寒冷地での知識でも学んでいこう。
そう考えながら城内へ視線を走らせていた時だった。
雪の降り積もる中庭に、神々を象った白い彫像が並んでいる。
その向こう。
冷たい空気の残る回廊に、一人の青年が静かに立っていた。
「兄上!」
ガレスの声が響いた。
青年が伏せていた顔を、静かに上げた。
その瞬間。
ヴィクトリアは止まった。
瞬きも呼吸も忘れた。
世界中の音が、急に遠くなった。
――美しい。
銀色の髪だった。
うなじへ僅かに掛かる程度の柔らかそうな髪が、回廊へ差し込む淡い光を受け、ほとんど白く輝いている。
肌も雪のように白く、澄んだ湖面を思わせる淡い碧色の瞳と、細く整った輪郭、長い睫毛が、その中性的な美貌をいっそう際立たせていた。
身長は百八十近くあり、礼服越しにも最低限身体を鍛えていることは分かる。
それでも。
――細い。
ヴィクトリアには信じられないほど細く見えた。
何しろ、後ろに熊が二頭いる。
比較対象が悪すぎた。
青年が囚われの姫君に見える。
「……リュシアン・ヴァルグレンと申します。」
声まで良かった。
低すぎず、柔らかい。
耳に心地よい。
「このような辺境の地ではございますが、この度殿下をお迎えできること、一臣下としてまずは恐縮至極に存じます。」
一度言葉を切った青年が、ほんの僅かにヴィクトリアから目を逸らした。
伏せた睫毛まで美しい。
「また、一時的とはいえ、私なぞと婚姻を結ぶこととなりましたことにつきましては、誠に申し訳なく――」
ヴィクトリアは返事をしなかった。
見ていた。
顔を。それはもうまじまじと。
「殿下?」
「……。」
「ヴィクトリア殿下?」
ガレスの声で、ようやく意識を戻す。
「聞こえている。」
嘘だった。
半分くらいしか聞いていない。
声は耳へ届いているのだが、意味を理解する前に「良い声だ」という感想へ変換されてしまう。
「続けろ。」
リュシアンの眉が少し寄った。
困った顔。
良い。
「今回の婚姻については、あらかじめ王室から事情を伺っております。一年間、せめて殿下へご不快な思いをさせぬよう、弟たちを含め最大限気を配って参る所存です。」
「そうか。」
「殿下には別館をご用意しております。こちらより多少新しい建物ですので、王都ほどではありませんが、ご不便も少ないかと。」
まずい。
本格的に話が頭へ入ってこない。
横顔が綺麗だ。
さらりと目元へ落ちる銀髪もいい。
黒い礼服の襟元から覗く白い首筋に、ヴィクトリアは妙な色気を感じて息を詰めた。
頬が熱い。これはまずい。
「使用人も殿下付きの方々を中心に配置いたします。北方の生活で何かございましたら、ガレスかドレイクへお申し付けください。」
弟たちの名が出たことで、ヴィクトリアの思考が僅かに現実へ戻った。
「二人とも私とは違い、容姿端麗な上に武芸にも優れています。殿下のお役に立てるでしょう。」
ヴィクトリアは目を瞬いた。
「私自身は、なるべく殿下のお目に入らぬよう――」
「待て。」
思わず遮った。
回廊へ静寂が落ちる。
「なぜだ。」
「……何がでしょう。」
「なぜ君は、私の目に入らないようになどと言う。」
リュシアンは少し驚いたように目を見開き、それから自嘲するような笑みを浮かべた。
ヴィクトリアの心臓が大きく跳ねた。
笑った。
これは、ものすごくいい。
「殿下。私にお気を遣われる必要はございません。」
「どういう意味だ。」
「どういう意味かなど……このような男を夫としてあてがわれただけでも、ご不快でしょう。」
ヴィクトリアは本気で意味が分からず、顎へ手を添えた。
「私は北方の男としては、この通りです。」
リュシアンは自分の身体へ目を落とした。
「弟たちのような体格にも恵まれず、剣も不得手です。幸い魔術だけは多少使えますので家に置いていただいておりますが……。」
ヴィクトリアは後ろを振り返った。
熊。
熊。
前を見る。
銀髪美青年。
もう一度後ろ。
熊。
熊。
前。
雪の精霊か月の妖精かと見紛う美青年。
この世界は狂っている。確実に。
「今まで婚約者もいなかったと聞いたが。」
「……はい。」
「なぜだ。」
「何故、と申されましても。」
リュシアンが苦笑した。
「私のような男を望む女性は、そう多くありません。」
何、だと。
「それに、いずれ家督はガレスかドレイクが継ぐでしょう。容姿もこの通りで、武芸にも秀でず、後継者ですらない男です。婚姻相手として考えても、大した利はありません。」
ヴィクトリアは、もう一度まじまじと彼を見た。
リュシアンの顔が少し強張る。
「……やはり、お目汚しでしょう。」
「傾国の美女とは、まさにこのことか。」
ぽつりと漏れた。
全員が黙った。
リュシアンが目を瞬く。
「……ご自身のことでしょうか。」
「いや。」
ヴィクトリアは即答した。
「あなたのことだ。」
「…………。」
辺境伯が盛大に咳き込んだ。
ガレスとドレイクが顔を見合わせる。
リュシアンだけが、非常に嫌そうな顔をした。
「……殿下。」
「何だ。」
「私を揶揄っておられるのでしょうか。」
「なぜそうなる。」
「男に向かって傾国の美女と仰る方を、他に存じませんので。」
「褒めたつもりだ。」
「よりによって私を?」
「そうだ。」
リュシアンの眉間の皺が深くなった。
その顔もいい。
ヴィクトリアは無表情のまま、心の中では深く頷いた。
客観的に見れば、ひねくれている。自己評価も異様に低い。こちらの言葉を素直に受け取らないところも面倒そうだった。
しかし、そんなことはどうでもいい。
顔が好み、身体つきも好み、声も好み。
三歳年下、銀髪、碧眼。
控えめに言って完璧ではないか。
――神よ。
ヴィクトリアは二十四年間で初めて、神という存在へ心から感謝した。
生きよう。
人生は素晴らしい……!
世界はこんなにも美しい……!
春には花が咲き。
夏には草木が繁り。
秋には実りがあり。
冬には銀髪の美青年がいる。
――いや、こんなところで、一体自分は何を考えている。
ヴィクトリアは一度冷静に自分を戒めた。
落ち着け。
私はエルディネス王国第一王女。
二十四歳。
王位継承順位第二位。
幾多の外交交渉をまとめ、国境紛争を最小限の損害で収束させ、反乱計画を事前に三度潰した女が、男の顔一つで動揺してどうする。
しかし、好みだった。ものすごく。
ヴィクトリアにも性欲はある。
前世では一度も実地経験がなかったが、知識だけならある。
かなりある。
若い頃には動画も見た。
書籍も読んだ。
何とかなる。
今世では自分が女性側なのが若干残念ではあるが、別に女が受け身でいなければならないという規則などない。
むしろ、この男なら――。
「殿下?」
危ない。
「何だ。」
「先ほどから、ずっと黙しておられますが。」
「すまない。少し考え事をしていた。」
「何を。」
「世の常と天命について少々。」
半分嘘だった。
頭の中は桃色だった。かなり。
いや、全面的に桃色だった。
しかし顔には出さない。
鉄壁である。
王族教育は、こんなところでも役に立つ。
「そう、でしたか。」
リュシアンは明らかに信じていなかった。
そして、少しだけヴィクトリアから距離を取った。
なぜ離れる。
「では、私はこれで失礼いたします。」
「もう行くのか。」
「はい。殿下も長旅でお疲れでしょう。」
「私は疲れていない。」
「ですが。」
「もう少しここにいて構わない。」
リュシアンが怪訝そうにヴィクトリアを見る。
周囲もこちらを見た。
少し返答が不自然だったらしい。
「……今後一年、形式上とはいえ夫婦になる。最低限、互いについて知っておく必要があるだろう。」
急ごしらえにしては、完璧な理由のように見えた。
「なるほど。」
リュシアンも納得した。
ヴィクトリアは心の中で頷き、先ほど取られた距離をさっと詰めた。
「では、何かお尋ねになりたいことがございましたら――」
「趣味は。好きな食べ物は。酒は嗜むか?」
「……それは、必要な情報でしょうか?」
「当然だ。」
近くへ寄ると、やはり向こうの方が頭一つ以上背が高い。
肩幅もそれなりにある。
実際には脱がせてみなければ分からないが、最低限身体も鍛えているらしい。
「……読書を好みます。」
「そうか。」
本を読む。
きっと絵になるだろう。
「食べ物は特に好き嫌いはありませんが、肉よりは魚を。」
「そうか。」
食事をするところも見てみたい。
白い指で食器を扱う姿など、恐らく大変官能的だろう。
「酒類はほとんど飲みません。」
なるほど。
酒に乱れる姿を見るのは難しい、と。
いや、こちらが酔ったふりをして介抱させる手もある。
酒で酩酊した経験などほとんどないし、体質的にも相当強い気はするが、この弱々しい見た目だ。酔ったふりくらいきっと造作もない。
「女性関係は。」
「……特にございませんが。」
非常に良い。
清い身体ということか。
ヴィクトリアは内心で拳を握った。
「念のため確認するが、過去にも? 男女含めて。」
「……何の確認ですか。」
「必要な情報だ。」
「何に。」
私に。
「いや、もちろん、婚姻生活に。」
「……あの、白い結婚ですが。」
「…………。」
そこで思考が止まった。
そうだった。
白い結婚だった。
忘れていた。
完全に。
この男を見た瞬間から。
「もちろん、その点についてはご心配なく。」
リュシアンは、ヴィクトリアの沈黙を全く別の意味へ取ったらしい。
「事前の取り決め通り、殿下には指一本触れません。」
指一本。
「寝室も別です。」
別。
「生活棟そのものを分けておりますので、夜間にお会いすることもございません。」
夜間に会わない。
「食事についても、ご希望でしたら別々に。」
待て。
「日中も必要がなければ、私はなるべくこちらへ参りません。」
待て。
「社交上、夫婦として振る舞う必要がある場合のみ――」
「ちょっと待て。」
今度こそ遮った。
リュシアンが黙る。
「……何でしょう。」
ヴィクトリアは考えた。
何と言えばいい。
国境線を巡る隣国との交渉より難しい。
これほど答えに窮したのは、いつ以来だろうか。
「そこまで徹底する必要はないだろう。」
「白い結婚ですので。」
「だが、形式上は夫婦だ。」
「だからこそです。殿下にご不快な思いをさせるわけには参りません。」
不快ではない。
むしろ、かなり。
――触れたい。
ヴィクトリアはリュシアンを見た。
銀髪。淡い碧色の瞳。長い睫毛。透けるような白い肌。
そして、薄い唇。
目を逸らした。
危ない。
「それに。」
リュシアンが少し寂しそうに笑った。
「一年後には離縁するのです。余計な関わりを持たない方が、お互いのためでしょう。」
ヴィクトリアは黙った。
正しい。
確かにこれは政治的な婚姻だった。
自分が王都から一時的に姿を消すための隠れ蓑。
一年後、政局が安定すれば婚姻は解消され、ヴィクトリアは王籍へ戻る。
しかも、ただの約束ではない。
この婚姻で夫婦関係を持ち、もし子でもできれば、話は一気に変わる。
第一王女と北方最大の辺境伯家の血を引く子。
それだけで新たな派閥を作るには十分すぎる。
西部の反王派を片付けるための婚姻が、今度は北部に新しい王位継承争いの種を作る。
まして子がいなくとも、実質的な夫婦関係を結んだとなれば、一年後の円満な離縁そのものが難しくなる。
つまり。
手を出してはいけない。
絶対に。
ヴィクトリアは王族だった。
だからこそ、契約を破るつもりはない。
まして、自分の性欲一つで国家の政治計画を狂わせるなど論外である。
理解している。
理性では。
非常によく理解している。理解はしているが――。
「それでは。」
リュシアンが一礼する。
「改めまして、一年間よろしくお願いいたします。殿下。」
「ああ。」
「ご安心ください。」
リュシアンは最後に、ヴィクトリアを安心させようとしたのだろう。穏やかに微笑んだ。
「私は決して、あなたに触れません。」
ヴィクトリアは無表情で頷いた。
「……そうか。」
「それでは、失礼いたします。」
リュシアンが去っていく。
銀髪が、回廊を抜ける風にさらりと揺れた。
分厚すぎない背中。長い脚。
良い。
非常に良い。
その後ろを、早速どすどすと二頭の熊が追い掛けていく。
「兄上! 待ってください!」
「殿下、兄上はああ言っていますが、本当は頭も良くて器用で、何でもできるんですよ!」
「そうです! 兄上の魔法は剣より余程凄いんです!」
「分かった。もう行け。」
「はい!」
二頭も去った。
ヴィクトリアは一人になった。
静かな回廊の外では、雪山から吹き下ろす冷たい風が、城壁の向こうで低く唸っている。
ヴィクトリアは立ったまま考えた。
一年。三百六十五日。
形式上は夫婦。
しかし実際は、白い結婚。
触れない。寝室は別。生活棟も別。
本人は自分を醜男だと思っている。
こちらが褒めても嫌味と判断する。
しかも気を遣い、積極的に姿を消そうとしている。
ヴィクトリアは静かに、青年が去った後の雪の吹き込む回廊を見遣った。
二十四年間、自分の人生などどうでもいいと思っていた。
国のために働き、必要ならば結婚し、必要なら子を産み、役割を終えたところで死ぬ。
それで構わないと、本気で思っていた。
だが。
今日、今この瞬間、考えが変わった。
生きたい。
俄然、生きたい。
人生には希望がある。
少なくとも、この北方で過ごすこれからの一年には、今までの二十四年を補って余りあるほどの希望がある。
しかし同時に、人生最大の難問が発生している。
ヴィクトリアは、国境紛争を三日で収束させた頭脳を使って考えた。
どうすればいい。
食事くらいは一緒でも白い結婚の条件には抵触しないだろう。
散歩はどうだ。
読書を好むなら図書室を共同利用することはできる。
魔術の訓練を見学するのも別に構わないだろう。
手に触れなければいい。
いや、握手程度なら外交儀礼にもあるではないか。
肩はどうだろう。
腕は。足は。背中は。
駄目だ。もう駄目だ。自分の発想が既におかしい。
ヴィクトリアは額を押さえた。
これほど真剣に一つの問題を考えたのは、南方二ヶ国との貿易摩擦以来かもしれない。
しかし暫く考えても答えは出なかった。
――これから一年、一体、どうやって我慢すればいいのだ。
この地へ来るまでは、夫が寝所へ忍び込んでくる可能性を恐れていた。
今は、自分が夫を寝所へ連れ込まない自信がないことに恐れを感じている。
ヴィクトリアは熊も美青年も去った回廊で一人静かに唸った。




