合鍵を返したら冬に回らなくなった
鑢の音が、背中の笑い声で半拍切れた。
トルーデ・カーンは鍵の腹へ鑢をひと擦り当てたところだった。差し直そうとした指だけが止まり、薄く光った当たり傷を親指でなぞる。
「錠なんぞ、寸法どおりに切れば開く」
ホルスト・デムラーの声だった。彼は扉の反対側に立つモーリッツへ、主人へ提出する今季の支出を書き取らせていた。
「鍵一本の切り賃なら分かる。だが、同じ鍵に毎年手を入れる費用がどうして要る。寸法さえあれば誰でも代われるものを」
モーリッツは控え帳へ目を落としたまま、返事をしなかった。三十年も館の扉を開けてきた老執事は、言われた数字だけを小さな字で書きつけた。
トルーデは鑢をもう一度だけ滑らせた。木取り粉を布で拭い、鍵を差す。右へ回すと錠の中でひとつ触れ、そこで扉をわずかに持ち上げてやれば、鉄の擦れる音は消えた。
「開いたではないか」
ホルストの靴先が床を二度鳴らした。
「夏のうちは」
トルーデは扉を開けたまま鍵を抜いた。ホルストは次の費目へ移っており、聞かなかったらしい。
請求書には、どの扉も調整一回とだけ書いた。いま枠の右下へ預けられた重みは、冬には別の場所へ移る。
彼女は代表の一本を明かりへかざした。鍵の腹を走る細い筋は、木取りすぎれば消え、残しすぎれば冬に噛む。銅貨へ換算するならひと擦りにも満たない仕事を、十一年、扉の数だけ重ねてきた。
鍵部屋へ戻ると、昼の鐘はとっくに過ぎていた。窓のない細長い部屋には、壁から壁まで合鍵が掛かっている。東廊下、客間、厨房、北側の通用口。札の裏には、寸法のほかに扉が下がる季節と、その日に指へ返った手応えが書いてあった。
トルーデは作業台の端でパンを割った。朝から布に包んであったそれは、歯を立てると粉ばかり落ちた。椅子には木取りの手控えが積んであるので、立ったまま水で流し込む。
午後の仕事へ向かう途中、洗濯場の扉が風に押されて傾いていた。把手へ伸びた指を、トルーデは腰の前で握り直した。頼まれていない一手は銅貨にならない。それでもこの館では、十一年のあいだ、ずいぶん安く売った。
背後で、モーリッツが先ほどの扉を閉めた。錠は噛まず、廊下には蝶番の低い音だけが残った。
* * *
翌週、若い錠前師が鍵部屋の作業台を半分使った。
ピエト・ナッシュは、トルーデの手控えを三枚ほどめくった。扉の幅、錠の深さ、鍵の歯の寸法。その横にある春、夏、秋、冬の細い欄を爪先で叩く。
「これは何です」
「戸の向きと、その季節の当たりです。北側は冬に上がり、厨房は秋に下がります」
「測り直せば済むでしょう」
「測った値は変わりません。変わるのは、そこへ載る重みです」
ピエトは北側の欄に書かれた短い線を見た。霜、上へ押す、削らない。その三つを指で隠し、数字だけを読み直す。
「季節など要りません」
彼は明るく言い切り、新しい紙へ寸法だけを書き写した。数字は正確だった。正確なので、ホルストは主人への節約の証として上等な額縁へ入れ、鍵部屋の外の壁に掛けさせた。
「今後はこれを見て切れ。手控えを抱えた職人を、扉一枚ごとに呼ぶ必要はない」
若い侍女たちが水差しを抱えて集まった。指で数字を追い、錠の絵と扉の番号を見比べる。
「これなら私でも」
「わたしも切れそう」
声が重なり、ピエトが白い歯を見せた。ホルストは主人の執務室へ持っていく控え帳の費用欄を一本の線で消し、トルーデは自分の手控えを閉じた。
留め紐を二重に結ぶ。控え帳の厚みを測っても十一年にはならなかったが、ホルストの帳簿では、来月から一行ぶん軽くなる。
その日の帰り、町にある三軒の錠前師を順に訪ねた。どの店でも長居はせず、同じことだけを置いてきた。
「館の北側を請けることがありましたら、霜の朝は鍵を削る前に、扉を上へひと押ししてください。寸法ではなく、戸を見てください」
一軒目の親方は火箸を置いた。二軒目は控え帳の余白へ短く書き、三軒目は「代金は」と尋ねた。
「要りません。一度だけの言伝です」
「館から頼まれたときだけ、使えばいいんですね」
「はい。わたくしからは、もう伺いませんので」
三軒目の錠前師は、控え帳の余白にトルーデの名も書いた。彼女はそれを消してくれとは言わず、店先に立てかけられた扉の下がりだけを見て帰った。
翌朝、トルーデは夜明け前に鍵部屋へ入った。壁の合鍵を外し、扉ごとに束ね直す。鑢、万力、油差し、真鍮の刷毛を箱へ収め、最後に初夏のあの一本を布で拭いた。
鍵の腹には、彼女が削った細い筋が残っている。十一年を束にしても持ちにくいが、一本なら片手に載った。
鍵部屋の棚には、ピエトが使う新しい鑢と、寸法だけを写した紙が残る。トルーデは古い木取り粉を掃き、炉の灰を捨て、借りたときより作業台を平らにして扉を閉めた。
主人の朝食を差配していたホルストを、配膳室の前で待った。トルーデは道具箱を床へ置き、合鍵の束を差し出す。その上へ、代表の一本を横たえた。
「何の真似だ」
「今月分は昨日までで結構です。本日から、館の扉には触れません」
「お前の仕事はピエトが引き継ぐ。だからといって、勝手に持ち場を離れてよいとは言っていない」
「持ち場も、引き継ぎ済みです」
「季節欄のことなら、不要だと決まった。主人にも、費用を改めると報告してある」
トルーデは鍵束をもう半分、彼の手の上へ押した。輪に通した鉄が重なり、配膳室から出てきた侍女が盆を胸元へ寄せて道を空ける。
「錠は、寸法どおりに切れば開きます」
ホルストの手へ鍵の重みが移った。代表の一本だけが彼の指の外側へ垂れ、朝の明かりを細く返した。
トルーデは道具箱を持ち上げた。廊下の途中で傾いた扉が一枚あり、いつもの位置へ指が出かけたが、把手に触れる前に箱の取っ手へ戻った。
館の表口を出るまで、ホルストから呼び止める声はなかった。背後で閉じた扉の鍵は、夏らしく、素直に一度で回った。
* * *
夏の鍵は、すべて回った。
乾いた扉は寸法表どおりの位置に収まり、ピエトの切った鍵を素直に受け入れた。トルーデが金物屋の裏口を直していた日、道の向こうで館の勝手口が開き、彼の声が通りまで飛んだ。
「ほら、開く」
侍女たちの軽い声も続いた。トルーデは金物屋の扉へ手を伸ばし、秋になれば下がる側へ蝶番を半分寄せた。館の声は、二度目の鑢で聞こえなくなった。
町には、寸法表へ載らない仕事がいくらでもあった。粉屋の戸は粉を吸って膨らみ、染物屋の裏口は桶をぶつけられて枠が歪み、産婆の薬箱は急ぐ手にだけ鍵が噛んだ。トルーデは三軒の作業台を借り、終えた仕事の数だけ銅貨を革袋へ落とした。
削る前に扉を見る者は少なく、見たあとでトルーデを呼ぶ者は増えた。三軒の錠前師は仕事を奪い合わず、自分の店に合わない依頼を彼女のいる作業台へ回した。トルーデも翌日に回せるものは急ぎ代を取らず、夜に呼ばれたものは灯り代の一文まで勘定へ載せた。
夏の終わり、三軒の錠前師が共同で空き店舗を借りないかと持ちかけた。表に作業台を置き、奥を寝所にできるという。
「まだ、結構です」
トルーデは借りた万力の木の粉を掃き、店主の分まで袋へ集めた。空き店舗の前を通ったときには、入口の把手へ手が伸びたが、錠の具合を確かめる前に引っ込めた。
収穫祭の前にも、参事会の女衆が同じ話をした。夜でも錠前師を呼べる場所が町の中央に要る。名札はトルーデ・カーンひとりのものにする、と、今度は入口の幅まで測ってあった。
「まだ、結構です」
返事をしたあと、女衆のひとりが豆と根菜のスープを運んできた。話が終わっても椀は下げられず、トルーデは両手で包んで飲んだ。湯気が鼻先を塞ぐあいだ、返した鍵束を探す指は椀の丸みに沿っていた。
秋が過ぎても、館から使いは来なかった。ピエトの数字は正しく、トルーデの革袋には銅貨が増えた。館を出てから半年、仕事を休んだ日は二日だけで、その二日にも自分の道具を研いだ。
何も欠けないまま、窓の外で木々だけが細くなった。
* * *
最初の霜が降りた朝、北側の扉で鍵が止まった。
ホルストは代表の合鍵を右へ回し、元へ戻し、もう一度差し直した。鍵は途中まで入り、最後のひと押しで止まった。
力を込めると、ホルストの肩が引けた。ホルストは扉を蹴らず、ピエトが来るまで把手を押さえたまま待った。
通りの向かいで商家の鎧戸を直していたトルーデには、鉄が木の内側で突き当たる音が聞こえた。振り向けば、開かない扉の前でホルストが肩を引き、ピエトが寸法表の写しを広げていた。
「北側は表のとおりです」
「なら、開けろ」
ピエトは新しい鍵を差した。右へ押し、左へ戻し、鍵穴の縁へ耳を寄せる。
「錠の寸法は変わっていません」
「扉は」
「昨日までは、この位置でした」
「今朝の位置を測れ」
ピエトが鍵と表を重ねた。歯の高さを爪で確かめ、定規を戸枠へ当て、もう一度表へ戻る。紙の数字を消すべき箇所はなく、彼の親指だけが同じ行を往復した。
ホルストは侍女へ東の馬車口を試させた。ほどなく戻った侍女が首を横へ振る。南向きの厨房口は鍵こそ回ったが、閂が枠へ擦れ、二人が押しても半分しか開かなかった。
三枚の扉は、それぞれ違う向きへ重みを預けていた。寸法表の数字はひとつも違っていない。測り直したピエトの定規も、昨日と同じ値を示した。
(錠なんぞ、寸法どおりに切れば開く——)
ホルストは代表の一本を握り込んだ。鍵の先が手袋を押し上げ、細長い形を作る。
「木取り直せ」
ピエトは鑢を取り出したが、鍵のどこへ当てるかを決められなかった。削れば寸法が違う鍵になる。削らなければ、目の前の扉は開かない。
夏に表を囃した侍女たちは、壁際へ水差しを寄せた。ホルストが次の扉へ向かうと、誰も声を足さず、廊下の中央を空けた。
トルーデは商家の鎧戸へ新しい留め金を打った。館の北側から、同じ鍵を抜く音が三度した。金槌を置くまで、向こうの扉が開く音はしなかった。
* * *
冬は、一枚の扉だけで済まなかった。
朝に開いた扉が夕方には閉じず、日暮れに閉じた扉が翌朝には鍵を受けつけない。ホルストは代表の合鍵を持ち、扉を替えるたびに差し直した。寸法表を壁から外させて持ち歩いても、紙の上の線は木の縮む向きを変えなかった。
最初の三日はピエトが後ろをついて回った。ホルストが扉を押さえ、ピエトが測る。二人で数字を読み上げるたび、正しい値だけが廊下へ増えた。
四日目からはホルストひとりの靴音になった。東廊下で止まり、階段を下り、西の端でまた止まる。同じ金属音が、日暮れから夜番の鐘まで館を往復した。
鍵を差す。止まる。抜く。次の扉へ行く。
館へ納品に入った商人は、家令が廊下の端から戻ってくるまで荷を抱えて待たされた。夕食の盆を運ぶ侍女たちは、遠くから靴音がすると壁際へ寄った。ホルストは声を荒らげず、日が落ちても外套を脱がなかった。
食糧商の裏口を直していたトルーデのところへ、モーリッツが来たのは、その翌日だった。外套の肩に粉雪を載せ、借り物の作業台の横へ立つ。
「館へ戻せと言われましたか、モーリッツさん」
「言われていない」
「では、こちらのご用は」
「食糧商から頼まれた。倉の南京錠を一つ」
彼は手袋を外さなかった。代わりに腰の鍵束を取り、一番古い鍵を近くの錠へ差した。わざと合わないところで止めた鉄が、短く鳴った。
トルーデの右手は、扉の把手から指二本ぶん離れたところにあった。その音がしても、指は動かなかった。
「お前が削った鍵だけ、冬でも音がしなかった」
モーリッツは鍵を抜いた。錠を傷めない角度で戻す手つきだけは、三十年分だった。
「寸法が違ったわけではありません」
「知っている」
モーリッツはそれ以上足さず、出来上がっていた南京錠を手に取った。開けて、閉じて、もう一度だけ回す。金属の触れ合う音は小さく、引っかかりはなかった。
「これなら倉番を起こさずに済む」
「代金は銀貨一枚と銅貨二枚です」
彼は請求どおりを作業台へ置いた。館の使いではなく、町の客として、一枚も値切らず勘定を済ませた。
戸口を出る前に、モーリッツは一度だけ足を止めた。
「昨夜は、夜番が替わっても靴音がしていた」
トルーデは受け取った硬貨を革袋へ入れた。十一年なら、冬も十一度ある。袋の底をいくら数えても、その十一度に払われた銅貨は出てこなかった。
モーリッツが去ると、食糧商が裏から鍋を持ってきた。冷める前に食べろと言い、作業台の端を布で拭く。トルーデは把手ではなく椀へ手を伸ばした。
その夜、館の方角から金属の鳴る音が一度だけ届いた。トルーデは匙を置かず、豆をひとつすくって口へ運んだ。
* * *
雪が町の屋根を白くしたころ、三軒の錠前師と参事会の女衆が、空き店舗の奥に長机を据えた。
勝手に決めたのではない、と彼らは言った。ただ仕事の数を数え、必要な棚を作り、冬でも火を絶やさない炉を置いたのだという。表の窓には北からの光が入り、裏には木材を寝かせる乾いた棚がある。
「三軒の下働きではありません」
錠前師のひとりが、注文を書いた紙を机へ並べた。
「こちらが頼む仕事は月に十二件。急ぎは別勘定。仕事を断る日も、あんたが決める」
「参事会からは、共同倉庫と診療所の鍵をお願いします」
女衆は次の紙を重ねた。
「場所代は最初の一年、町が半分持ちます。残りは三軒が同額ずつ。仕事代から勝手に引く者がいたら、こちらへ言ってください」
「道具はわたくしのものを使います」
「足りない分は、この一覧から選んでください。買ったものはここへ置き、あんた以外には貸しません」
「食事は」
「隣の食堂から運びます。冷えたものを出したら、こちらで突き返します」
長机の中央には、豆と燻製肉のスープが置かれていた。湯気で注文書の端がわずかに反り、女衆は椀を動かさず、紙のほうをずらした。
トルーデは十二件の注文を順に見た。扉の向きも、使う時間も、急ぎかどうかも書かれている。末尾の依頼人欄には、どれも店の名ではなく、トルーデ・カーン宛と記されていた。
「二度、お断りしました」
「二度、聞きました」
「一度目は、館の扉を一番知っているのが、まだわたくしだったからです。二度目も、同じでした」
三軒の者は互いを見たが、先を奪って口を開く者はいなかった。炉の薪が崩れ、赤い火が一本だけ内側へ折れた。
トルーデは注文書の端を揃えた。館の鍵部屋なら、この時刻には昼のパンが布の中で冷えている。目の前の椀から上がる湯気は、紙を濡らさぬよう少し横へ流れていた。
「わたくしは、開ける役しか持っておりません」
椀の縁へ親指を置く。両手の中で、熱が逃げずに残っている。
「だから頼むんです」
錠前師のひとりが、十二件の注文を指で揃えた。
「閉じたままでよいものを閉じ、開けるべきものを開ける。三軒で北側の言伝を聞いたとき、寸法の先を見ている者が誰か、分かりました」
「三軒とも、冬になるまで言伝を使う機会はありませんでした」
別の錠前師が炉へ薪を足した。
「それでも、削るなと先に言える者へ頼む仕事はあります。失敗してから呼ぶより安い」
「名札はもう頼んであります」
女衆が窓の下を示した。まだ壁へ掛けられていない木札に、トルーデ・カーン錠前仕事、と文字が彫られている。
「要らなければ、薪にします。ただし字を彫った代金は、彫り師へもう払いました」
トルーデは木札を持ち上げた。裏に二つ、釘の位置を示す小さな穴がある。入口の柱へ当てると、右が髪一本ぶん高かったので、下へ直した。
「ここです」
錠前師が金槌を渡した。
「店の位置ですか。札の位置ですか」
「両方です」
トルーデは釘を二本打った。木札は、自分の名の重みだけで柱に収まった。
女衆は注文書を革紐で束ね、仕事場の鍵を一本、机へ置いた。鍵の腹にはまだ使い込まれた艶がなく、歯は今日の扉に合わせて切ったままの色をしている。
「最初の仕事です。ここの錠を、あんたの使いやすいように」
トルーデは鍵を取った。扉へ差し、把手をわずかに持ち上げ、冬の木がどちらへ寄っているかを指で拾う。
「明日の朝までに仕上げます」
話が済んでも、女衆はスープの椀を下げなかった。トルーデも手を離さず、湯気が細くなる前に底まで飲んだ。
* * *
仕事場を開けて五日目の夕方、戸口の鈴が一度だけ鳴った。
ホルストが雪を踏んで入ってきた。館で使う黒い外套のまま、手袋も外していない。右手には、あの一本の合鍵が握られていた。
トルーデは注文された鍵の歯を測り、数字を紙へ移した。顔を上げるまで、ホルストは客用の線の外へ入らなかった。
「トルーデ」
十一年で一度も使われなかった呼び方が、作業台の上へ落ちた。彼の指がゆるみ、合鍵の腹に残った鑢の筋が見える。
「館の北側が、今朝から開かない。厨房口は閉められず、客間の二枚は夜のうちに人を置いて押さえた」
「館のお仕事は、お受けしておりません」
「ほかでは間に合わない」
ホルストは鍵を作業台へ置こうとした。トルーデが注文書を一枚差し出すと、その手は途中で止まった。
「町の仕事は、今月分がこちらです。急ぎは三軒のどこかへお頼みください」
「ピエトでは直せない」
「寸法は合っていますか」
「合っている。表も鍵も、何度も確かめた」
「でしたら、ピエトさんのお仕事に誤りはございません」
「誤りがなくても開かないのだ」
ホルストは合鍵を握り直した。手袋の革に、鍵の先が同じ細長い形を浮かべる。
「給金は倍にする。鍵部屋も広げる。必要な道具があるなら買わせる」
「町の仕事を終えてから、館へ通えということですか」
「町の仕事は断ればよい。館の扉を知っているのはお前だ」
トルーデは測りかけの鍵を布の上へ置いた。算盤を引き寄せ、珠には触れず、四つの勘定だけを口へ出した。
「十一年で、冬は十一度ございました。館から頂いたのは、いつも調整一回ぶんです。扉の数も、見回った時間も、その一回へ押し込みました。十一年も安く買った相手へ、十二度目を売るほど馬鹿ではございません」
炉の中で炭が割れた。ホルストの口が一度開き、いつもの言い切る形まで届かずに閉じる。
「では、今年だけでいい」
トルーデは注文書の束へ手を置いた。紙のいちばん上には、明朝までに開ける薬種店の裏口が載っている。
「戻ってくれ」
トルーデは代表の合鍵を見た。初夏に削った筋も、返した朝に拭いた艶も、そのまま残っている。
「錠は、寸法どおりに切れば開きます」
ホルストの顎から、命令するときの角度が消えた。作業台へ出しかけた鍵を手の中へ戻し、客用の線を踏まずに戸口まで下がった。
鈴がもう一度鳴った。雪の上を遠ざかる靴音は館の方角へ折れたが、トルーデは追わず、測りかけの鍵を布の中央へ戻した。
翌朝、仕事場の炉には隣の食堂から火が移されていた。豆と根菜のスープが作業台の端で湯気を立て、壁には今日の注文が三枚だけ掛かっている。館から持ち出した札は一枚もなかった。
トルーデは椀を両手に持ち、先に飲んだ。熱が指の節まで移ってから、入口の把手へ手を伸ばす。
自分の名が掛かった扉で、鍵は抵抗なく回った。冬の朝へ、かすかな音をひとつ返した。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




