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「人形のようだ」と婚約破棄されたので、もう完璧を演じるのはやめようと思います  作者: 千乃


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 雨が降っている。久方ぶりの雨だ。ここのところ晴天続きだったので、ぽってりとしたような分厚い鈍色の雲が、空一面にどんよりと立ち込めているのがなんだか珍しく思える。珍しく、なんだか見慣れないもののように。


 窓枠に嵌め込まれた硝子を叩く雨粒を見るともなく眺めながら、明日には――出来れば今日の夕方頃には――やんでくれれば良いな、とレティシアは胸の内で密かに祈る。明日の早朝には出立する、と、昨夜イヴァンは言っていた。温室から帰る道すがら。本当はもう少し滞在していたかったけれど、さすがにそろそろ猶予を過ぎてしまいそうだから、と。どこか悔しそうな、寂しそうな微笑みを浮かべて。


 ――君は、君の人生を歩むべきだ、レティシア。誰かの為の人生ではなく、君の為の人生を。


 庭に植わる木々の枝葉を撓るように揺らす雨風が、まるで身体の中にも流れ込んできたかのように、凪いでいたはずの心を大きく震わせる。それが、吹き荒んだ風ではなく、鼓膜に焼き付いて離れない彼の言葉のせいだと気付いた時には、思い出さないようにと努めていたイヴァンのかんばせが、鮮明に、はっきりと脳裏に浮かんでいた。屈託のない無邪気な笑顔。太陽のように眩く美しい金色の瞳。真っ直ぐであたたかな眼差し――。


 次会う時にはもう、彼の隣には――一番傍には――顔も名前も知らない別な女性が立っているのだろうか。夫婦の証である同じ指輪を嵌めて。幸せそうに、仲睦まじく笑い合っているのだろうか。


 そんなこと考えたところで、どうしようもないのだけれど。深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出し、レティシアはゆるゆるとかぶりを振った。今は兎に角、天候が落ち着くのを祈るばかりだ。嵐になっては大変だろうから。


 そう思いながら窓から視線を背けた――その時。唐突にノブの回る音が聞こえ、次の瞬間、扉が乱暴に開かれた。事前のノックひとつなく。けれど、レティシアはひどく落ち着いていた。疾うに慣れたことだ、と割り切っているせいだろうか。ああまたいつものことか、と。この部屋に無作法で――そもそも礼儀やマナーなどが必要とすら思っていない――入ってくる人間など、ただひとりと決まっているのだから。


「レティシア」


 振り向くと、案の定そこには、大仰に両手を開きながら歩み寄ってくるレイモンドの姿があった。年齢に比して少し皺の多い顔には、不気味なほど晴れやかな笑顔が浮かんでいる。もちろんそれが作り物であると分かっているからこそ、ぞっとしたものが忽ち背筋を走り抜けた。なんて嫌な笑顔なのだろう。イヴァンのそれとはまるで大違いだ。


「聞いたぞ。昨夜のパーティーで、イヴァン殿下と踊ったそうじゃないか」


 明らかに機嫌を取るような、いつもよりも少しだけ高い、猫撫で声。それは、何年も前に聞いた、アルバートとの婚姻が決まった時の声と、殆ど同じだった。


 もちろん、何故そんなにも嬉々としているのかなんて、考えるまでもない。アルバートとの関係は潰えたが、しかし、今度は更に格上の、大帝国の皇太子と繋がりが持てる可能性が出てきたことに歓喜し、ひどく興奮しているのだろう。


 きっと、何度も何度もふたりで踊っていたことまで、レイモンドの耳に届いているに違いない。一夜のパーティーで同じ人間と何度も踊ることは、それだけ相手と親密な関係にあることを暗に示す。無論、そんな“社交界の常識”くらい、イヴァンも分かっていただろう。けれども、それでも彼に幾度となく引き止められ、結局楽団の休憩が訪れるまで、ふたりでずっと踊り続けていた。


 レイモンドからすれば、青天の霹靂だっただろう。何せイヴァンとの関係を、彼は知らなかったのだから。把握されれば、間違いなく良からぬことを企むのは分かっていた。だから、言いたくなかった。知られたくもなかった。その為に何年も何年も――クロエ以外の人間には――隠し続けていた。レイモンドに、イヴァンを、彼との関係を、利用されたくはなかった。


「いつからそんなに親しかったんだ?」

「……お父様が思っておられるほど、親しい間柄ではございません」

「だが、イヴァン殿下はお前をエスコートする為に来たと言っていたそうじゃないか」


 本当に筒抜けなのだな、と、レティシアは胸中で苦々しく溜息をこぼす。今朝、レイモンドは久方ぶりに宮廷へ出向いていた。何か用事があったのか、それともいつものコネクション作りなのかは分からないけれど。恐らくはそこで、聞かされたのだろう。興味本位で、或いは、レイモンドを通してイヴァンとの繋がりを画策する為に。


「昨夜は、イヴァン殿下のお知り合いが少なかったのです。ただそれだけですわ」


 どこまで言い訳が効くだろう。どこまで嘘が通用するだろう。果たして誤魔化せるだろうか。レイモンドの昂りを鎮め、この場を切り抜けることが出来るだろうか。


「まあ、細かいことはどうでも良い」


 そう言いながらにやりと歪な笑みを浮かべ、彼はレティシアの傍で足をとめた。口調こそ媚びへつらうような明るさがあるものの、見下ろしてくる目にはいつもと変わらぬ軽蔑が色濃く滲んでいる。表をどう繕ったところで、それはただの薄っぺらい仮面でしかない。透けて見えるのだ、裏側なんて簡単に。特に、レイモンドやマチルダの場合は。もしかしたら、偽りこそすれ、隠すつもりはないのかもしれない。


「レティシア、今すぐ手紙を書け」

「手紙、ですか……?」


 礼を認めるように、ということだろうか。それならば昨晩、別れ際にきちんとしたのだけれど、と答えよとして開いた唇は、しかし、唐突に両肩を掴んだレイモンドの力強い手によって、瞬く間に萎んだ。見上げた先にある瞳は、汚泥のような欲望を孕んでぎらついている。吊り上がった口角は、さながら絵画に描かれた悪魔のそれのようだった。


「皇太子妃の座が、目の前にぶら下がっているんだ。こんな好機を逃す手はないっ!」


 言葉を口にすればするほど、レイモンドの興奮はどんどんと高まってゆく。それに比例して、声は熱に浮かされたように上擦り、性急さを増す。抑えきれない昂りが、肩に喰い込む指先から身体の中へ流れ込んでくるようで、気持ちが悪い。


 皇太子妃――。アルバートとの婚約が破棄され、“王太子妃”、更には“未来の王妃”の座を手に入れることが叶わなくなった以上、レイモンドが狙うのは確かにそうだろう。縁談話は数多きていると言っていたし、大臣たちから急かされているとも言っていたが、とはいえ今のイヴァンはまだ独身であり、妃を娶る話も出てはいない。今ならばまだ間に合う、と、強欲なレイモンドが躍起になるのは、至極当然のことだろう。


「私が手紙をお送りしたところで、イヴァン殿下のお妃選びには何の影響も――」

「ならば、“影響”を与えられるようになれ。それくらいの頭もないのか、お前は。色仕掛けだろうが何だろうが構わん。兎に角、あの御方の心を掴めるのならな」


 冷たいものが、背中を滑り落ちてゆく。何てことを言うのだろう、と思った。自分の娘に対して、色仕掛けでも構わない、と平然と言い放てるその無神経さが信じられない、と。つくづく、私腹を肥やすことだけしか考えていないのだと、痛感させられる。その為ならば血の繋がった娘がどうなろうとどうでも良いのだ、と。


 そもそもレイモンドにしてみれば、そうするのに使う目的で引き取った“駒”に過ぎないのだから、こんなまたとない絶好の機会でこそ使わねば損だ、という考えなのかもしれない。何の為に産ませた娘だ、と。何の為に育てた娘だ、と。だから、たとえ精神的にも身体的にも苦痛を受けようが、うまく使い、成功を掴み取れれば問題はないのだ。


「お前も少しは、聖女様を見習ったらどうだ」


 唐突に出てきたミリーの存在に、レティシアは僅かに目を見開く。そんな娘の些細な変化になどまるで気付いた様子もなく、レイモンドは粘つくような下卑た笑みを浮かべた。


「あの涙、あの仕草――何もかも全て、計算し尽くされている。感嘆するほどにな。だからこそ、男はああも簡単に落ちる。その術を、お前も学ぶことだな。あれくらい上手く男を転がせれば、全て思いのままだ。殿下の心を意の通り操れてこそ、価値がある。お前にも、母親譲りのその顔と身体があるんだ、使い方次第でどうとでもなるだろう」


 計算、落ちる、価値、母親譲りの顔と身体――。そのひと言ひと言が、鼓膜の奥で何度も反響する。まるで暴れているみたいに。そこここを引っ掻き、打ち、傷だらけにしながら。


 やがてその鋭い爪先が、レティシアの中にある何かを、ぷつんと音を立てて切った。刹那、身体中に流れる血液が、一瞬にして沸騰する。轟々と燃え滾るような熱が、まるで堰を切ったようにお腹の底から一気にせり上がり、喉を、舌を焼き焦がさんばかりの勢いで呑み込む。小刻みに息をすればするほど、それはどんどんと膨らみ、苛烈さを増してゆく。とても抑えきれそうにない激情に、身体も頭も支配されてしまいそうだった。このままでは気が狂ってしまいそうだ、と。


 自分のことを貶されても、こんなに荒れた感情が込み上げてくることはなかったのに――。震える手を力強く握り締めながら、レティシアは唇にきつく歯を突き立てる。自分のことは、どうでも良かった。どんなことを言われようと。そんなものにはもう慣れきっていたから。


 けれど、イヴァンは違う。誰よりも誠実で、誰よりも真っ直ぐな彼のことを、まるで色香ひとつで容易く転がせるような、そんな軽薄な人間であるかのように語られることが、甚だ許せなかった。ふざけたことを言わないで、と。貴方は彼のことを何も知らないくせに、と。それなのに、イヴァンを単純で御しやすい、女ひとりに籠絡される程度の男性だと言い切り、揶揄するレイモンドの態度に、レティシアは心底我慢ならなかった。


「――イヴァン殿下は、そのような方ではございません」

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