17
何かを手放す時、それを惜しいと思ったことはなかった。アルバートの婚約者という立場も、未来の王太子妃という肩書も、贅を凝らしたドレスも、惜しみなく宝石をあしらったアクセサリーたちも。父であるレイモンドの顔色を窺うことはあれど、それ以外には何もなかった。後ろ髪を引かれるような寂しさや哀しみも、そして、自分自身の意思も。
だから多分、これが初めてなのだろう――。レティシアはゆっくりとひとつ瞬き、浮かべていた笑みを深める。苦笑というより、それはどちらかといえば自嘲だった。これから一番大事なものを失うだろう、という瀬戸際に瀕した、情けなくも愚かな自分への皮肉であり、憐れみ。
今ならばまだ引き返すことは出来るのかもしれない。けれども一度開いた口はもう、閉じることは出来なかった。
「これは、私にとってかけがえのないものなのです。他とは比べ物にならないほど、とても大事なもの。だから、私自身が持ち得るありったけの財を注ぎ、信頼の出来る職人に、丹精込めて仕立てていただいたのです」
イヴァンからの贈り物に、誰かの存在を介入させたくなかった。アルバートも、両親も、そして国そのものにも。故に職人を探すのも、支払う対価も、全て己でこなし、賄った。それが、気遣いをこめて贈ってくれた彼への最大の礼儀だと思ったし、何よりこの宝物を手放す時が来るかもしれない、という可能性を限りなく下げる為の、精一杯の手段でもあった。
いつか彼が、知らない女性の傍へ行ってしまっても。それでもこの宝石とたくさんの思い出があれば、それで良い――。だから、離れ離れにはなりたくなかった。たとえ身に着けられなくとも、一番近いところにいてほしかった。
ピアスでもなく、髪飾りでもなく、指輪でもなく。数多あるアクセサリーの中から、敢えてネックレスを選んだ理由なんて、彼は知る由もないだろう。これから先も、ずっと。心臓に一番近いところに置きたかった――なんて、そんな重たい理由だとは、少しも思わないはずだ。
つくづく彼に惚れているのね、と、胸の内でひそりと呆れながら、レティシアはイヴァンの、心做しか見開かれた金の瞳を見つめる。もしかしたら、これで良かったのかもしれない。このまま彼を想い続けているよりも。いつか必ず訪れる別れの前に、その恋心へ終止符を打つことが出来て。あんな甘美なひとときの後だったからこそ。それをいつまでもいつまでも引き摺らなくて済むよう、ここできっぱりとその糸を断ち切ることが出来るのなら。これで、良かったのかもしれない。
「何を仰っているのか分かりませんわ、レティシア様。わたくしはそもそも、主神からのお告げを、いち早くお伝えしただけですのに……。レティシア様がこれ以上お辛い目に遭わないよう、ただただ親切心で……」
イヴァンの双眸が、ちらりと、ミリーを見下ろす。その視線に、まるで我が意を得たりとばかりに、彼女は物憂げな面持ちのまま、それでもどこか嬉々とした瞳で、イヴァンのかんばせを仰いだ。
「実は先程、主神からお告げを賜ったのです。その……こんなことを申し上げるのは大変心苦しいのですけれど……“このままでは、国は滅びの道を辿るであろう”と……ああ、レティシア様、どうかお許しください。紛うことなき主神が、わたくしに仰ったのです。その原因が……その者が誰なのかを、はっきりと……」
「へえ、主神がそう言ったのか」
にやりと、イヴァンの口角が持ち上がる。
「ええ、そうですわ。ですからわたくし、レティシア様が大変な目に遭われる前にお伝えしなければ、と、急いでこちらへ来たのです」
主神も随分と都合良く利用されたものだ。辟易としながら内心溜息をこぼし、レティシアはミリーの横顔を見据える。聖女――と、この国では崇められているが、彼女が本当にその力を有しているのか、主神の御言葉を聞くことが出来るのか、それは誰にも分からない。彼女に仕える大主教や枢機卿たちでさえ。
それでも“聖女”という存在は、この国では大昔から尊ばれてきた。主神の御子として、厚く信奉されてきたのだ。時の国王も敬意を払うほど。故に聖女の言葉は――お告げとして下された主神の御言葉は――重要視され、場合によっては政にも影響を及ぼす。それほど、聖女とは特別で、絶対的な存在なのだ。
本当にお告げを賜ったのなら、彼女はその御言葉をアルバートだけでなく国王にも報告するのだろう。このままでは国が滅びる、と。そしてその原因が誰であるのかも含めて、何もかも。そうなれば、レティシアに待っているのは牢獄だ。それだけで済めばまだ良いと思える未来も、もしかしたら有り得るだろう。否定出来ないくらいには、この国の人々の信心深さを、レティシアはよく知っている。
婚約を破棄されるだけでなく、国を滅ぼす存在にまで成り下がってしまった娘を、果たしてレイモンドはどう思うだろうか。
そんなの考えるまでもない――。レティシアは無意識に握り締めていた拳からそっと力を抜き、夜風に靡いた髪の毛を指先で払った。
「主神がそうお告げになったのですね。……でしたら、そのような私が、いつまでもこの場にいるわけには参りませんわ。皆様のご迷惑になる前に、早々に失礼させていただきます」
未だイヴァンの腕に纏わりついたままのミリーににこりと笑みを向け、それからレティシアは、何度も見つめ合った金色の瞳へ目を移す。なるべく感情が表に滲み出てしまわないよう努めながら。それでも、開きかける唇は微かに震えてしまっていた。
「――イヴァン殿下」
彼が嫌う呼び方を、敢えて口にする。壁を作られているみたいで嫌だ、と、いつも言っていたその呼び方を。でも今は、それが最も相応しい、と思った。本当は超えてはいけなかった線を引き返し、あらねばならなかった壁を作る為に。
「お手数ですが、ミリー様を大広間までお連れいただけませんでしょうか。おひとりにさせるわけにはいきませんから」
事務的な連絡をするような淡々とした口調でそう告げ、レティシアは満面の笑みを繕うと、ドレスの端を摘んで恭しく一礼した。侯爵家の娘として――いや、レティシア・ブランシャールとしての、これは最後の矜持。
いつまでもイヴァンの視界にいるのは耐えられそうになく、レティシアは素早く踵を返すと、出入り口とはまるで違う方向へと足を向けた。大広間に戻る気力など、もうどこにもない。かといってすぐに邸へ帰るのも、億劫だった。取り敢えず此処ではないどこかへ行ければ、それで良い。逃げた、と嘲笑われようとも。少しでも早く、イヴァンの前から消えたかった。
そう思えば思うほど、歩調はどんどんと速くなってゆく。本当はもっと優雅な足取りで去りたかったのだけれど。しかしゆったりしていては、お腹の底から込み上げてくるものを、いつまでも塞ぎきれそうになかった。
無性に泣きたい。泣きたくて泣きたくてたまらない。でも、今はまだ――彼の視界から完全にいなくなるまではまだ、どうか溢れ出してしまわないでほしい、と思う。どんなに心が痛くても、胸が張り裂けてしまいそうでも。どうか最後の最後だけは、涙なんて流れないでいてほしい、と。
▽
遠ざかる足音が、微かに震える華奢な背中と共に物陰の奥へ消えてしまって漸く、イヴァンは心底忌々げに顔を歪めた。腕に絡みつく体温が、煩わしくてしかたがない。同じ“女”でも、レティシアのぬくもりとはまるで違う。彼女のそれは、あんなにも心地良かったというのに。
「――ケレム」
静まり返った夜闇の中に声をかけると、レティシアが去って行ったのとは別の物陰から、ケレムがすっと、音もなく姿を現した。その顔には、薄明かりの中でもそうと分かるほどくっきりと呆れが浮かんでいる。
「まさか貴方の過保護が役立つことになるなんて、思ってもいませんでしたよ」
そう言って肩を竦める彼に、イヴァンはくつくつと喉を鳴らして笑った。
「役立たないのが一番だったんだがな。……それで、実際のところはどうなんだ」
びくり、と震えた細い腕を乱雑に引き剥がし、イヴァンは夜風に乱れた前髪を掻き上げる。聞くまでもない、と分かってはいるけれど。それでも一応は、確かめておかねばならないだろう。己の目で見ていないものを判断するのに、いつもそうしているように。
「私の説明なんて必要ないでしょうに」
そんなイヴァンの頭の中などまるでお見通しだ、と言わんばかりにケレムは深々と溜息をつくと、余計な感情の含まれていない平坦な声で、事の次第を淡々と告げた。レティシアがひとり休んでいたところにミリーが突然やって来たこと、彼女がふたりきりで話をしたいと言い出したこと、その“話”というのがイヴァンとの仲を取り持ってほしいという内容であったこと。そして、レティシアのネックレスに目をつけたミリーがそれに手を伸ばし、レティシアがその手を咄嗟に払い退けたこと――。
「主神のお告げ云々と仰っていましたが、そんな話はありませんでしたね」
「ち、違うのです、イヴァン殿下! この方は嘘をついておられますわ!」
必死に弁明しようとするミリーを、イヴァンはじろりと睨め付けた。その視線に気圧されたのか、よろよろと後退った彼女は、神に祈りを捧げるように胸の前で両手を組み、潤んだ瞳でイヴァンを見上げる。
「わたくしは本当に、主神からのお告げを……!」
「説得力に欠けるな。幼い頃から共にしてきた忠臣の言と、今日会ったばかりの君の言では、そもそも重みが違う。ケレムの報告を退けるほどの信用は、君には微塵もない」
「で、ですが、本当なのですっ! わたくしは嘘などついておりません! イヴァン殿下、どうかわたくしを信じて――」
「君もレティシアも気付いていなかったんだろうが」
ミリーの悲痛な懇願を遮り、イヴァンは口角を歪に持ち上げながら、僅かに首を傾けた。
「――あいつは初めから此処にいたぞ」
はっと目を見開かせたミリーの、愛らしくも可憐でもないなんとも間抜けな蒼白顔に、イヴァンはくすりと嗤う。
「こんな魔窟にいて、俺がレティシアをひとりにするわけがないだろ」
こんな女のどこが良いんだろうか、と、アルバートのかんばせを脳裏に浮かべながら思うも、しかしまあこれはこれでお似合いというべきか、とイヴァンは内心独りごちる。正直なところ、ふたりの仲がどうだろうか、これからの未来でどうなろうが、そんなことに興味はない。
「君に好き勝手喋らせたのは、辻褄を合わせさせないようにする為だ。話せば話すほど、自ら墓穴を掘っているとも知らず、実に滑稽だったな」
「ですが、あれではさすがにレティシア様が可哀想では」
突然の横槍に、イヴァンはむっと眉根を寄せる。痛いところをついてくれるな、と視線で訴えるが、無論ケレムにそれが通じるはずもない。
一々彼に言われずとも、それくらい分かっている。本当は彼女の傍に駆け寄って、あの小さく白い耳を塞いでやりたかった。何なら今すぐにでも彼女の背中――胸が軋むほど震えていたあの背中を――追いかけたくてたまらない。ミリーという女の存在も、彼女がひとりになろうがなるまいが、知ったことではない。
暴力の問答時点では、さっさと片付けてしまおうと思っていたのだが――。イヴァンは舌打ちをこぼしそうになるのをどうにか堪えながら、胸の内で苦々しく溜息をこぼす。あの時までは、まだ良かった。けれど、ミリーが“聖女”として主神のお告げだ何だと言い始めたところで、方向を転換せざるを得なくなったのだ。内容が、レティシアの身に危害が及ぶ可能性があるものであっただけに、なおさら。危険な芽は、早々に踏み潰しておかなければならない。
「仮に、聖女である君が、本当に主神の御言葉を聞いたのだとして」
そう言いながらミリーへ目を移し、イヴァンは彼女の青い瞳を、凍てついた視線で真っ向から射抜く。
「君たちが信じるものが、必ずしも俺の信じるものとは限らない。君はあくまでもこの国の“聖女”であり、この国が崇める“主神”の御子というだけで、我が国の“聖女”でもなければ、俺が信じる主神の御子でもない」
やれやれと肩を竦め、イヴァンは鼻で嗤う。
「だというのに、何故俺がその“お告げ”とやらを受け入れねばならんのだ。ゼハディアの主神が下した御言葉ならまだしも。だが、そうではない。正直、君の聞いたお告げが何だろうと、俺にはどうでも良い話だ。この国の行く末は君たちの問題であって、ゼハディアの問題ではないからな」
レティシアさえ無事でいれば、それで十分だ。――とは、敢えて口には出さず、イヴァンは嘲笑とともにミリーから目を逸らした。もうこれ以上、この女を視界に入れていたくない。
「お告げを陛下に報告するのは、君の自由だ。だが、君がそうするのなら――無論、俺も黙ってはいない」
足を動かし、レティシアの走り去った方へ歩みながら、イヴァンは肩越しに言葉を投げつける。
「陛下も馬鹿ではないからな。俺と君の言葉、どちらを取るべきかくらい……まあ、考えるまでもないだろ」
あとは頼んだ、と、一瞥だけでケレムへ指示を出し、イヴァンはもうそれ以上口を開くことはしなかった。追いかける足をとめることも、未だ図々しくも何かを喚いているミリーを振り返ることも。ただ愛する者の顔だけを頭に思い浮かべ、今もまだ瞳に焼き付く小さな背中を追い、イヴァンは青白く照らされた回廊の奥へと突き進む。失いたくないという、その一心で。
けれど、あんなことの後で――果たして彼女は、許してくれるだろうか。




