月の神様に救われた僕は、ずっと貴方をお護りします〜向日葵と母さまの想い出を胸に〜
柴犬の僕【月】と、月の神である姫さま。
遠い存在のはずの僕たちが出会ったのは、蝉の声がうるさいくらいに泣いていて、倒れてしまいそうなくらいに暑い日だった。
いつもならば、真っ黒な毛並みの中が蒸して「わふぅ」と鳴きながら、縁側で腰掛けている飼い主と縁側で涼んでいるはずなのに。
なぜ僕は耕したばかりの土の上に座っているのか。こんもりと盛られた土の前には、キラキラと磨かれた石が控えめに置かれている。
飼い主の元へと駆けていきたいのに、僕はここから動くことができない。
僕を縛り付けるように土の中から伸びる鎖が邪魔だった。
することもなく、かと言って、どこに行くともできず。ぼんやりと風に揺れる草を見つめていたら、
──シャン
突然涼しげな鈴の音がした。
先ほどまで煩いほどに鳴いていた蝉たちも一斉に黙り込み、墓場に不思議な静寂が満ちる。
そこに、鈴のように綺麗な声が降って来た。
「なんじゃ、お主。まだ行けんのか」
顔を上げると、真夏だというのに幾重にも布を重ねた長い装束をまとった女が立っていた。風ひとつ吹いていないはずなのに、その衣だけがゆるやかにはためいている。
「……」
「なんじゃ、声の出し方も忘れたか」
僕が座り込んでいる隣へ、女の人もそっと腰を下ろした。
綺麗な衣が、土で汚れてしまう。ここは、そんな綺麗な人が座っていい場所じゃないのに。
女の人は、丁寧に磨かれた墓石をじっと見つめると、「……置いては、ゆけぬか」と、どこか寂しそうに微笑んだ。
その笑い方から目が離せなかった。最近、母さまが僕のお墓の前で浮かべる笑顔と、あまりにもよく似ていたから。
「うちに来るか?」
意味が分からなくて首を傾げると、「ほれ、お主のような仲間がおるぞ」と女の人が言った。
女の人の後ろには、猫や犬、鳥たちが静かに寄り添うように集まっていた。よく見ると、その身体はどれも薄く透けている。──僕と、同じだった。
僕が小さく頷くと、女の人はふわりと笑った。
今度の笑顔は、とても優しくて、どこか嬉しそうだった。
その笑顔を見ていると、なぜだか心がぽかぽかと温かくなった。
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「なんじゃ、月。また来とるのか?」
姫さまに名前を呼ばれる瞬間が好き。
伝えたことはないけれど。
「姫さま……またこのような場所に来られて」
「可愛くない話し方になってしまったのぉ。昔は僕と言って可愛かったのに」
「……やめてください」
むすっとして返すと、姫さまはくすくすと笑った。
なんだか暖かい風が吹いた気がして、墓地の入り口を見ると、母さまが向日葵の花を持ってやってくるところだった。
それを見た姫さまは、静かに帰って行った。
姫さまはいつもそうだ。私が一人でいるとやって来て、母さまが来るとすぐに姿を決してしまう。
姫さまもいてくれたらいいのに。
私は、視線を姫さまから母さまへと戻した。
──また一年が過ぎた。
元気だった母さまも、どんどん皺が増えていった。だけど、笑顔だけは変わらない大好きな母さまのままだ。
「月ちゃんや。また向日葵が咲いたよ。綺麗な向日葵だろう?」
「そうだね、母さま」
母さまには届かないけれど、私は返事をする。
母さまが話しかけてくれるのはとても嬉しくて、少しだけ寂しい。私のことなんか忘れていいのに、母さまはずっと私を忘れないでくれている。
「月ちゃんに、一度でいいから向日葵畑を見せたかったわ。ごめんねぇ、一輪だけで」
「母さまの向日葵が一番綺麗だよ」
石の前に置かれた一輪の向日葵に、触りたいのに触れない。
私はその向日葵が枯れていくのを、ただじっと見つめていた。
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線香の煙がふわふわと頼りなく伸びていく。
私はそれをいつまでもいつまでも見ていた。
母さまはちゃんと仏様のところに行けただろうか。今頃ちゃんと川を渡れたかな。
私みたいに、迷子にならなければいい。
「月や。満足したか?」
「姫さま」
コツコツと靴の音を鳴らして姫さまがやって来た。普段、姫さまは靴音なんか立てない。なんとも不器用な人だ。
「満足は……しました」
「そうか。ならば、行くか?送ってやるぞ?」
嬉しそうに姫さまは笑う。だけど、その瞳の奥が悲しそうなのを私はもう知っている。
ずっと姫さまの近くに居させてもらった。
成仏していく動物たちを、姫さまは嬉しそうに、それでいてどこか寂しそうに見送っていた。
その晩になると、姫さまは決まって月を見上げ、一人静かに酒を傾ける。
私は、その背中が少しだけ小さく見えることを知っている。
「私は残りますよ。心残りがありますから」
そう言うと、姫さまは目をパチクリさせた。珍しい表情に思わず笑ってしまった。
「まだ心残りがあるのか?」
「そうですね。姫さまと共に入れないのが心残りです」
そう告げると、姫さまはぽかんと口を開けた。
この人は、人のことには誰よりも聡いくせに、自分のこととなると驚くほど鈍い。たぶん、自分の気持ちにさえ気づいていない。
あんなにも寂しそうな顔をするのに、自分が寂しいことすら分かっていないのだ。
「私がいなくなったら、誰が姫さまの暴走を止めるんですか」
「失礼な。妾は暴走などせぬ」
「よく言いますよ」
ふんっと鼻で笑ってやる。
姫さまは姫さまでいていいのだ。
そのために、私たちがいるのだから。
「姫さまの眷属になりましょう。ならせてください」
「……後悔せぬか」
「しません」
「永遠の時間をここで過ごすことになるぞ?」
「姫さまとなら楽しそうですね。きっと飽きないでしょう」
私がそう言って笑うと、姫さまは呆れたように笑った。
その目には一瞬だけキラリと光るものが見えた。だけどそれもすぐに消えてしまう。
どこまでも意地っ張りな姫さまだ。
「後悔しても知らぬぞ」
「しつこいです」
ムッとして眉を寄せると、少しだけ情けなさそうな顔をした姫さまが、両手を広げて名前を呼んだ。
「おいで、月」
私は姫さまの腕の中に飛び込んだ。姫さまの腕に飛び込んだのはこれが最初で最後だ。
姫さまはぎゅっと私を抱きしめて、「ありがとう」と消えそうな声で呟いた。
「お主の名前は、月牙じゃ」
姫さまがそう言うと、私の身体が淡く光って、キラキラとした黄色の光が舞った。
「妾の牙として、そばに居ておくれ。月牙や」
「何事からも御守りしましょう」
そっと私の身体を下ろした姫さまは、私の頭を優しく撫でてくれた。何度も何度も。
その晩、夢を見た。
母さまと姫様と三人で、満開の向日葵畑をゆっくりと歩く、それだけの夢だった。
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最近、姫さまはよく笑うようになった。
突然呼ばれて、人間を守れと言われた時には困惑したが、今なら姫さまの気持ちもわかる。
今も、言い合いをしている姫さまと私がお守りしている主人、柏木 陽翔殿の言い合いを私はのんびりと見つめていた。
「陽翔殿も飽きませぬなぁ……」
陽翔殿と口喧嘩している姫さまはとても楽しそうだ。
これからは姫さまを守ると母さまの墓の前で誓ったけれど、まさかこのようなことになるとは露ほどにも思っていなかった。
片時も離さなかった姫さまが、私を人間につけようとするなんてと驚いたが、まさかその次の日に一面の向日葵畑を見せられるなんて夢にも思わなかった。
彼らが私の夢を知っているはずもなかったのに。
世の中には面白い人間も居るものだ。
目を細めて見ていると、静かな声が隣から聞こえた。
「飽きぬと言えば、お主相当な物好きだろう」
「……そうですか?」
「そうじゃ」
似ているようで似ていない、気が合うようでそうでもない猫又のミケ殿は、この家の中では一番波長が近い気はしている。
「姫さまと陽翔、選べと言われたらどちらを選ぶ?」
「そうですねぇ。どうしましょうかね?」
昔ならば、姫さま一択であったが今ではどうだろう。
ここ、古民家で過ごす時間も長くなって、離れがたくなってきた。座敷わらしの双子と猫又、庭守、ケサランパサランと過ごす時間も捨てがたい。
それでも──
「私は姫さまを守らなければ」
「そうだな……」
少しだけ寂しげなミケ殿の声がした。
「だから、私は陽翔殿がこちら側へ来たらいいなぁ──と。そう思います」
そうしたら、姫さまが月を見上げて寂しげに笑うこともないだろう。姫さまは月にもうお帰りになることはできないのだから。
陽翔殿の隣で、笑っていて欲しい。
「そうだな」
「そうですね。先は長そうです」
姫さまに揶揄われて怒っている陽翔殿を見て、私は目を細めた。
──シャン
今日も姫さまは、涼しげな鈴の音を纏っている。
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本作は『妖と棲むアトリエ〜挫折した俺は不思議な古民家で最強絵師となる〜』のスピンオフ作品です。
本編は7月19日(日)に完結予定ですので、よろしければぜひそちらもお読みいただけましたら幸いです。




