喫茶店で元魔王に進路相談した
―――雨が降っている。
足先から服の裾までぐっしょり濡れていて、歩くたび、水分をたっぷり含んだ靴下が足先にまとわりつく。学生鞄を強く引き寄せ、制服の裾が濡れないよう、少し小股で、しかし何かに追われるように急いでいた。
タイヤが擦れ、跳ねる水の音、酔っ払いたちの上機嫌な声、バチバチうるさい車のライト、暗闇にほとばしる広告の赤、青、黄のネオン……。
耳がキーンとする。居酒屋から怒号とともに、鼻の奥までじっとり忍び込むようなにおいがした。
――いくら金曜日とはいえ、いったい何がそんなに楽しいのか。
そんな文句を心中に吐き散らす。
外界を遮断するようにイヤホンを耳にねじ込み、地面を凝視して、帰路につく。家では、楽しくもないのに、スマホの画面を永遠にスクロールし続ける。
これが(まったく自慢できるものでもないが)いつものルーティーンだった。
ただ、その日は違った。
何が引っ掛かったのか。
一つの建物の前で足を止めていた。
小さな喫茶店といった感じの店だった。
木材でできた門の間から、こぢんまりとした扉が見えた。レンガ造りのぼこぼこした壁は、木の蔦でびっしりと覆われており、足元には白い花が所狭し植えられている。お店と門の間には、白いテーブルとイスがそれぞれ一つずつ添えられていた。
看板らしきものがあるものの、掠れて読めなくなっている。
いかにも『女性の好みそうなオシャレ喫茶店』といった出で立ちであった。
しかし、雨にぬれた黒々としたレンガが、てらてらと光り、白い椅子やテーブル、花が暗闇の中ぼうっと浮かび上がっている様子は、どこか不気味な印象を与えていた。
中の様子は蔦で見えない。
何を考えたのか。
思わず、扉を開いていた。
扉は思ったより分厚く、そして重くギーと低い音を立てながら開いた。
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「いらぁっしゃい!何名様ですか!?」
高く、弦楽器のように鋭く響く声が聞こえた。
オレンジの温かい光で染まった、少し古風な店内で、女性が立っていた。
長いつややかな黒髪を後ろで一つに縛り、ブラウンの縁の眼鏡をかけた女性だった。
身長は平均的な男性よりも高く、がっしりとした体格で、一瞬男性のようにも見える。眼鏡の奥の鋭い目や、―――なぜか仁王立ちしている様子が、よりそれを助長させていた。
しかし、若葉色のエプロンを大きく押し上げる胸元や、高い綺麗な声がそれを否定していた。
「ここは居酒屋ではないので、その言い方、やめてくれます?漣珂さん。」
女性をなだめるように奥からぬるっと出てきた男性は、女性とは裏腹に小柄で、腰の低い男性だった。
色素の少し薄い、短い茶髪と大きな目が幼い印象を与えるが、丁寧な物腰から、老成した雰囲気がある。
女性と同じエプロンを着用しており、店員だろうかと思った。
「あれ?そうなのか瑞音!新しい客なんてひさしぶりで、勝手がわからんかった。わっははは!」
大きな声で笑いながら男性をべしべしと叩いた。線の細い男性の体が心配になる力だった。男性はされるがまま、苦笑いを浮かべて、気にする素振りがない。
黙っていれば、華道とか茶道とか嗜んでいそうな麗人なのに、見た目の印象を大きく裏切っている。
「ここって…喫茶店ですよね?」
僕が困惑気味に尋ねると、漣珂と呼ばれていた女性が笑うのを止め、鋭い視線をこちらへ向けてきた。
「いやね。そうなんだけど。この店の仕組み上、めったに客なんてやってこないから、ちょっと騒いじゃった。で?あんたはいったい何をやらかしたのさ!?」
眦に浮かんだ涙をぬぐいながら、こちらへ身を乗り出してきた。
何を言っているのかわからない。やらかしたといえば、塾をさぼったぐらいだが……、まさかこの女性がそんなことを知っているはずもない。
「すみません。何のことだか……。僕はただちょっとお気になってしまって、店をのぞいてしまっただけなのですが…」
僕が恐る恐る切り出すと、女性は「へ?」と声に出した後、目を丸くし男性と顔を見合わせた。
「珍しいですね。普通の人がどうやら迷い込んでしまったみたいです。」
瑞音と呼ばれていた男性が顎に手を当てながら丁寧にそう呟いた。「普通の人」とはいったい何のことだろう?
すると、漣珂と呼ばれていた女性が訳の分からないことを言い始めた。
「ここは勇者に敗れた元魔王の、人生相談所を兼ねているんだよ。おぼっちゃん!わっははは!」
「………」
……からかわれているのだろうか?
それとも最近流行っているアニメの話?
そういう話はそこまで詳しくないので困ってしまうのだが…。
僕は対応を決めあぐねていた。
「そこまで言っていいんですか?漣珂さん。常連の皆さんが、嫌な目で見られてしまうかもしれませんよ?」
瑞音と呼ばれていた男性が、少し心配するように女性に声をかける。
「いいんだよ。どうせ奴らはそんなこと気にするほど、殊勝な性格してないしな!」
困惑する僕を尻目にそう言い、椅子にどかっと座ると、テーブル上にある角砂糖を取り上げ、口に放り込み、がりがり食べ始めた。男性に向けていた視線をこちらへ向けるとニヤッと笑った。
「そうだ!面白いものを見せてやろう」
そう言い、女性は手を高く掲げた。
すると、掲げた指先から、長い墨色の毛が生えてきて、彼女を覆いつくした。黒かった瞳が深紅に染まっていく。バキッ、グキッと音を立てながら彼女の骨格が大きくゆがんだ。
――そこにいたのは、巨大な狼のような姿の獣だった。烏の濡れ羽色の毛が、怪しく光っており、頭部には銀色に輝く角が見える。口元には、小さな子供ほどのサイズがある牙が、ナイフのようにギラギラと揺らめいていた。
「ッ!!」
思わず尻もちをついていた。
獣は一瞬で僕との距離を縮めると、大きく口を開け迫ってきた。
視界の8割を白い牙が塞いだ。
音がぼやけ、視界がゆっくりと動く。
嫌な汗が全身からあふれ出すのを感じた。永遠と思える時間が流れた。
――ぼしゅっと気の抜けた音がしたかと思うと、柔らかい感触に包まれていた。
漣珂と呼ばれていた女性に抱きしめられていた。
「ほらね?この通り」
長いまつ毛に縁どられた目を大きく開き、ニヤニヤと笑いながらこちらを見ていた。
「………」
「ふっ……。わっははは!」
僕が何も言えないでいると、彼女はおなかを抱えて、大きな声で笑いだした。
体の感覚がなかった。力が入らず、立ち上がることができない。
「からかってはだめですよ。漣珂さん。大丈夫ですか?」
嘆息しながら、瑞音と呼ばれていた男性が手を差し伸べてきた。
その手を受け取りつつ、僕が「どういうことですか?」と聞くと、
「彼女は元魔王なんですよ。
こことは異なる世界で勇者に敗れた魔王の一部が、この世界に転生してきているみたいなんです。
人間世界とはなかなか折り合いつかないものが多くて…。
僕と漣珂さんは先達として、ここで彼らの相談に乗っているんです。
魔力のある人しか、この店は見つけられないよう細工してあるはずですが……。
手違いであなたが見つけてしまったみたいですね。」
荒唐無稽な話ではあったが、さっきの化け物を見てしまうと何も言えない。
「……それは、僕ら、危険じゃないですか?」
そう僕が恐々聞く。
魔王って、文字通りの存在なら、人類を滅ぼそうとしたりするものじゃないだろうか。
「ここじゃ私たちの力は、異世界の10分の1程度しか発揮できないですし、心配ないですよ。
それに、この世界は監視社会ですからね。
迂闊なことは、僕らの首を絞めるだけなんですよ。」
自分の手で首を絞めるような動作をしながら、「なんなら持前の腕力で、警察官になったやつもいますよ。」と、そう説明してくれた。
―――こんなに丁寧に説明してくれているが、さっきの話を聞く限り、この人も元魔王だよな……。
「よしっ!!ぼっちゃん。この、世界を7回破滅の危機に陥れたこの私が、人生相談にのってやろう!私のことは、レンディーカ様と呼んでくれて構わないぞ!」
僕と瑞音さんの会話をきいていた漣珂さんが、「暇だしな」なんて言いながら、そう切り出してきた。
……なるほど、頭と尻をとって「漣珂」か……。
会話しているうちに、少し落ち着いた僕は「『漣珂さん』でいいですよ」という瑞音さんの言葉に甘えつつ、少しためらいながら、
「じゃあ…漣珂さん、話を聞いてもらってもいいですか?」
と切り出した。
「「……」」
「急に、お二人とも黙ってなんですか?」
「いや、そこは、『急に何を言っているんだー!!』とか、『レンディーカ様の武勇伝聞かせてください!』とかそういう反応を期待していたからさぁ…」
「そうですね。漣珂さんの自慢話に興味はないと思いますが……。突拍子もない話をしている自覚があったので、もっと困惑させてしまうと思いました。」
漣珂さんは、身振り手振りでせわしなく動き、瑞音さんは、泰然とした態度を少し崩していた。
二人の僕に対する反応は理解できる。
普通、こんな話を聞いたら、相手を質問攻めにすると思う。
僕も、いつもだったらそうしていたかもしれない。
しかし、荒唐無稽な話も、目の前に化け物が現れ、喰われそうになったことも、どうでもよくなるぐらい、絡まった毛糸のように、心がぐちゃぐちゃしていた。
誰でもいいから、それを吐き出したい気分だった。
―――猫の手でも借りたいではないが、魔王の手でも借りたい気持ちだったのだ。
「進路について悩んでます。」
魔王に告げるには、いささか以上に陳腐なことをいった。
きっと、二人も呆れているだろう。
僕自身も、恥ずかしさと情けなさに身を焼かれそうになっていた。
しかし、僕の口は、語りだした。
屋根を強く叩く雨音が聞こえてきた。
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小さいころから、運動は苦手だった。
一斉に走れば、ゴールで友人を待たせることになったし、ボールはあらぬ方向へ飛んでいき、プールでは怖くて顔を水につけられないほどだった。
なまじ兄弟がスポーツマンだっただけに、劣等感をこじらせていた。
そんなとき、父が紹介してくれたのが剣道だった。
子供のころ、父が力を入れていたらしい。「僕は弱かったけどね」と苦笑いを浮かべながら話してくれた。
心根のやさしく、常にゆっくりと、言葉を噛み締めるように話す父に、勝負事は向いていなかったのだろう。
小学生から始めたおかげか、他のスポーツよりは長く続けることができた。
竹刀が相手をとらえる感触、面を脱いだときの爽快感、そういったものが心地よかった。
何より、僕の活躍を、父が大変喜ぶのだった。
勉強も、兄や妹と比べ、そこそこできた。
剣道以外では、パッとした成績を残すことができない僕にとって、勉強はやればやるだけ伸びたので、嬉しくて真面目に取り組んだ。
勉強すれば、成績が上がる。テストでいい点を取れば、人に褒められる。家族が喜ぶ。
勉強が好きだったわけじゃない。
けれど、認めてもらえることが嬉しかった。
そんなどこにでもある、普通の学生生活を送っていた。
その日は、重要な試合だった。
勝てば次の大会に出場することができる。
試合は長引き、延長線となっていた。
両者ともに、一本とることができず、両足は鉛のように重く感じられていた。
相手の疲労の隙をついて、なんとか自分の得意技が決まり、一本とることができた。
急いで父のもとへ向かった。
早く報告したかった。
しかし、そこに父の姿はなかった。
試合中に、倒れたということだった。
急いで病院へ駆けつけると、そこにはうずくまる母の姿があった。
虚血性心疾患というらしかった。
―――父は習字の先生をしていた。
以前は、サラリーマンとして働いていたが、マイペースな父の気質とは相性が悪く、体調を崩してしまったという。
その後、子供のころに習っていた習字を学び直し、家で教室を開いた。
自分や教え子が書いた文字を飾り、柔らかい笑顔を浮かべていたことを思い出す。
どこか心が宙ぶらりんになったような心地だった。
勉強にも、部活にも、身が入らなかった。
試合に勝っても、どこか物足りない気持ちになった。
テストでいい点をとっても、何も感じなかった。
―――そんな中、高校受験に失敗した。
辛かった。何が辛かったのか。
落ちてもなんとも思わないことが辛かった。
県内で有名な進学校を志望した。
成績優秀な友人の多くが志す、学校だった。
合格すれば心から沸き立つような心地になるはずだった。
不合格であれば、崖から落とされたような気持になるはずだった。
いつもだったら。
なのに、自分の心の中身がどこかへこぼれてしまって何もなくなってしまったかのように、空っぽだった。
何も感じない。
打ちのめされた様子の私に、母は、
「大丈夫。第一志望に行けなくても、そこでやりたいことをやればいいんだよ。」
と言った。そのとき、
―――金槌で頭を殴られるような、ガンッと甲高い音が聞こえた気がした。
やりたいこと……………。
なんだっけ?
ゲームだろうか。Instegramだろうか。
あれ?
なんだっけ?
何がしたいんだっけ?
母の言葉、自分のしてきたこと、それらが頭をぐるぐると駆け回る。
どうして勉強を頑張ってたんだっけ?
そういえば、何で剣道をここまで熱心に取り組んでいるんだろう……
何か学びたいことがあるから、なりたいものがあるから、有名進学校を選んだわけじゃなかった。
ただ、なんとなく、みんな選んでいるから、志望しただけのことだった。
剣道も、別に楽しいわけじゃなかった。
打たれれば痛いし、夏は暑いし、冬は手足が痛い。
運動は得意ではないから、必死に努力しても部内で下から数えたほうが早いし。
先輩後輩の上下関係も厳しくて、休憩中も気が休まらないし。
剣道するなら、友達とゲームして遊びたい。
そういえば、最近遊ぶ暇なかったなぁ……。
剣道は、貴重な時間を割いてまですることじゃなかったはずだ。
そう。貴重な時間だ。
とうさんは死んでしまった。
僕は、今死んだらどうなるんだろう?
どうして勉強している?
剣道している?
気づいてしまった。
別にやりたいことなんて、何もないことに。
ただ、褒められたくて、認められたくて勉強も剣道もしていただけだった。
父が死んでそれも叶わなくなった。
―――自覚した瞬間、自分がまるで空っぽの人形のように感じられた。
第三志望の高校に進学し、新しい友人とゲームをしたり、カラオケに行ったりしている間に、自分の体が何かよくわからないものと溶け合って、少しずつ液状になっていくような、そんな感覚に襲われた。
成績は入学と同時に落ちていくばかりだった。
当然だった。
ほとんど授業中は寝て過ごしたから。
剣道部には入らなかった。というより、存在すらしていなかった。まるで調べていなかったことに、入ってから気づいた。
今は三年の春。
進学か就職か、もう決断しなければならなかった。
高校生活がまるで余生のように希薄で、一瞬だった。
それとなく、友人に相談しても「考えすぎ」と言われた。
「卒業後どうするつもりか」と逆に尋ねると、「働きたくないから、とりあえず進学―」と言った。
「それは逆に、考えていなさすぎでは?」という言葉を、寸前のところで飲み込んだ。
他人のことをジャッジできるほど上等な人間ではない。
それに、自分が言えた義理じゃなかった。
母や兄には、こんなこと言いだせなかった。
母には、塾や部活にかかるお金を出してもらっていたし、兄は、大会の送り迎えをしてもらったり、勉強を見てもらったりしていた。
僕の家族は、みんなびっくりするぐらいいい人なのだ。
実は、剣道も勉強もどうでもよかっただなんて、二人には口を避けても言えない。
僕はどうしたらいいのだろう。
自分の人生なのに。
このままでは、大好きな父のせいにしてしまいそうで、それが怖かった。
もっと恵まれない人は多くいるだろう。
家が貧しくて、進学したくてもできない人や、家族が厳しくて自由に進路を選べない人。
僕はこんなに恵まれているのに。
もういっそ、来年の三月に、自分の人生が終了したら、それが一番いいのにと。
そこまでのことは、目の前の二人にも、話すことができなかった。
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「聞いてくださってありがとうございます。まあ。よくある話ですよね……。」
話してみて、そのありふれた内容と、自分の情けなさに頭を抱えたくなった。
いただいたコーヒーを口に含む。
苦い。
「むーーー。これは困った。我々の腕力じゃどうにもできない類の問題だな。瑞音!わっははは!」
「笑っては失礼ですよ。漣珂さん。その癖、治してください。人間の皆さんに嫌われますよ」
「それはそうだな……。ごめんな!ぼっちゃん。わっははは!」
……僕も解決を期待していたわけではなかった。
むしろ、「情けない」とか「甘え」とか辛い言葉を返されなくて、ほっとしている自分がいた。
「しかしなあ。ぼっちゃん。ここにお前がいるのはやりたいことではなかったのか?」
「…………えっ?」
言葉の意味がすぐに理解できなかった。
「あたしには、ここにいることが、誰かがお前さんを褒めたりするような状況につながるとは思えんがなぁ。それに、あたしは今までやりたいことなんて、やったことないから正直、何のアドバイスもできんわ!」
そういって、漣珂さんは「わっははは!」と大きな声で笑った。長い足を組み、手をひらひら振る。
「あたしの一族はなあ。人間を喰うのが好きだった。あちこちの村や国を襲って、人を喰らった。
当然、人間の目の敵にされた。
だから、あたしは戦った。
一族の中で一番強かったから。
別に人を喰うことは好きじゃなかったけどな。ベジタリアンだから。
だから、自分で選んで戦ってはいたが、やりたかったかと言われると、ちとわからん。
だけど、しょうがなかった。
人間喰うなんて、人からすれば悪者に違いはないが、あたしにとって、あいつらは、辛いときに慰めてくれるし、一緒に遊んでくれる家族だったから。
放っておくわけにはいかなかったんだ。」
「まあ。勇者に負けちまって今はこの通りって訳なんだが。」そう言って、一瞬僕ではなく、どこか遠くを見つめるように、瞳が揺らいだ。
しかし、瞬き一つすると、ニヤリと口をゆがませ、「わっははは!」と笑った。
体を大きく揺らす。座っていた椅子がガタガタ音を立てた。
「でも、戦いばああぁぁっかで、やりたいことなんて、まったくやれちゃいなかったが、後悔なんてしてないぞ?」
「……………どうしてですか?」
仲間を守れたから―――とかだろうか?
僕には……。そういうのは無理だ。
「例えば、さっきの驚いたお前の顔は傑作だったな」
「は?」
「瑞音につっかかって、返り討ちにあったことも面白かったな!」
「あれは、漣珂さんが悪いんですよ?僕のお気に入りのティーカップ割るから。」
「悪い悪い。わっははは!」
「………」
「おまえ。やりたいことをやってこなかったなんて、思っているかもしれないけど。何もかもつまらない、やりたくないことばっかりじゃなかったんだろ?」
そのとき、過去の光景が脳裏をよぎった。
父と食事をしている瞬間だった。
冬で、二人でコタツに入りながら、みそ汁を飲んでいた。
その日は、珍しく、母も妹も兄も用事があるとかで、家を留守にしていた。
父は料理が苦手だったので、その日の夕食は味噌汁と、ごはん、いびつな形の卵焼き。
みそ汁が冷えた体をじんわり温めた。
父ととりとめのない会話を交わすだけの静かな空間。
日々の疲れや苛立ち、焦りなんかが、スーっと通り過ぎて消えていくような気がした。
「………」
「安心しな。やりたくないことやっていても、どうしようもなく、楽しい瞬間とか面白い瞬間はやって来る。」
「でも……。辛いときはどうしたらいいんですか?
確かに、楽しい瞬間や面白い瞬間はあるかもしれない……。
けど、そればっかりじゃないですよね?
自分で………自信をもって選択したことならきっと我慢できる……。
でも、なんとなく決めてしまった選択で後悔したら、立ち上がれなくなりそうで……。」
「それこそ、人を助けてればいいんだよ!」
「え?」
「別に、あたしみたいに体張れなんて言っているわけじゃない。自分を犠牲にしろとも言ってない。
『ちょーーーっと、暇だなぁ~。」みたいなタイミングで、ちょーーーっと何かするんだよ。
もの運ぶの手伝ったり、愚痴を聞いたり、コーヒー淹れたりでもいい。」
漣珂さんは、僕の空になりかけていたコップにコーヒーを注いだ。
「そしたら、こっちが困っているとき、辛いとき、助けてくれるんだよ。」
そう言って、漣珂さんはにかっと笑った。
「漣珂さん、前の職場でしょっちゅう同僚の人に助けてもらってましたもんね。」
「あたしにサラリーマンは、向いていなかったからな!わっははは!」
大きく笑いながら、長く細い指をこちらに向け、切れ長の目細め、眼鏡の奥からこちらを見てくる。
「辛くないときは、テキトーに周りを助けて、辛くないときは、テキトーに甘えれば、とりあえず、なんとか回ってく。
徹頭徹尾自分のためにしか行動したくないやつもいるだろうが、そんな奴ばかりじゃない。
みんな他人に嫌われたくないって考えているし、相手に感謝されるのは気持ちいいことだから、助けてくれるもなんだよ!」
「ほら。あれ。なんだっけ?へんぽせいのげんり?だっけ?」
「『返報性の原理』ですよ。漣珂さん、難しい言葉知っていますね。」
「前たっちゃんがそう言ってたんだ!」
「そうなんですか。あの人、本を熱心に読んでいますもんね。」
二人の会話を横目に、僕の脳内では、これまでの光景がせわしなく通り過ぎていった。
そんなぐだぐだでいいのだろうか。
たった一度の人生なのに。
「じゃあ…。結局、僕はどう今後をきめればいいんですか?」
「くじで決めれば?」
「はあ!?」
急に大きな声を出した僕に、漣珂さんは飛び上がっていた。
「だって!!わからないもんはしょうがないじゃん!!」
そこで、「あっ!!」と何か思いついたように、目を大きく開くと
「それこそ、今あんたは困っているんだから、あたしが助けてあげないとな!!よし、ここで働け!!わっははは!」
「「え!?」」
僕と、瑞音さんの声が重なった。
「本気ですか?漣珂さん?この店、そんなに儲けてないですよ?」
「本気も本気だよ。たまには、魔王じゃなくて人間の相談にものってあげないとな!わっははは!」
「………働きます!」
「よっし!よく言った!」
「えっ!!!???本当に?」
その後、瑞音さんに盛大に窘められ、とりあえず、アルバイトという形で働き始めることとなった。
なぜ、「働くよう勧めてくれたのか」と漣珂さんに聞くと、「情けないやつではあるけど、悪い奴ではないから。」と返してくれた。
それがなんだかこそばゆかった。
「それでは、来月からよろしくお願いします。」
そう帰り際に二人に伝えた。
「まあ。そう忙しい店でもないので、肩肘張らず、来てください。」
「なんだ。瑞音。反対してるんじゃないの?」
「よく考えたら、店員としての漣珂さんは非常に役立たずなので、もう一人ぐらいいたほうが、私の負担が減ると思いました。」
「あーあ。あたしがお前より強かったら、とっくに喰ってるのになあ。わっははは!」
「私より弱くて残念でしたね。」
すごい形相で、漣珂さんは瑞音さんを睨んでいた。
僕の知らない上下関係があるらしい。
今後気を付けよう。
「最後に一つ……、聞いてもいいですか?」
「ん?」
黒い長い髪を翻して、こちらを漣珂さんが見つめた。
―――本当に静かにしていれば、綺麗でかっこいい人なのに。
「それでも、漣珂さんは今、やりたいこと、やれていたりするのですか?」
少し考え込んだ後、漣珂さんは
「ああ。やれている。あたしは、エプロンを着て、コーヒーを入れてみたかったんだ。あたしも知らなかったけど。」
そういって、「わっははは!」と大きな声で笑った。
読んでくださって、ありがとうございました!




