祓魔調香師、吉沢透
◆
香りとは粒である。
眼には見えぬが厳然たる物質であり、分子の配列に従って鼻腔の受容体を刺激し、脳髄の奥深くにある記憶の蔵を叩く。世間では香りを詩的なものとして語りたがるが吉沢透は十七年この道を歩んできて、香りとは畢竟、化学反応であるという認識を揺るがせたことがない。
ムスクもジャスミンもベルガモットも、すべては空気中を漂う微細な粒子にすぎぬ。
人間はその粒子を吸い込み、電気信号に変換し、ようやく「匂う」と認識する。これは紛れもない事実であり、ロマンの入り込む余地など本来ならばないはずであった。
匂いの粒子は空気中を漂いながら徐々に拡散し、やがて知覚できぬほどに薄まって消えていく。これが通常の過程である。
しかし条件が揃えば、粒子は消えずに留まることもある。
密閉された空間、温度と湿度の均衡、そして何よりも、その匂いを発した存在の「執着」とでも呼ぶべきもの。
吉沢がそのことに気づいたのはこの稼業を始める三年前の梅雨時であった。
依頼主は築四十年の古いマンションに住む中年の女であった。夫を亡くして二年、寝室から腐敗したような異臭がすると訴えてきた。管理会社に相談しても原因は分からず、清掃業者を呼んでも改善せず、最後に藁をも掴む思いで調香師の門を叩いたのだという。
吉沢は当初、配管の問題か、あるいは壁の内側で鼠でも死んでいるのだろうと踏んでいた。
だが現場に赴き、玄関の扉を開けた瞬間、見当は外れたと悟る。
あれは人間の匂いだった。
正確に言えば、人間が腐敗していく過程で放つ匂いの、最も濃密な層だけを抽出したような臭気である。しかし室内に死体などあるはずもなく、女は蒼白な顔で寝室の扉を指し示すばかり。吉沢は長年の経験から匂いには必ず発生源があると信じて疑わなかったが──その寝室には何もなかった。
ベッドがあり、箪笥があり、遺影が一枚壁に掛かっているだけ。だが匂いは確かにそこにある。しかも動く。吉沢が一歩踏み出せば匂いも動き、まるで此方を意識しているかのように揺らめいた。
その夜、吉沢は眠れなかった。自宅の仕事場に籠り、数百本の試香紙を並べながら、あの匂いの正体について考え続けた。人間の匂いでありながら、人間が不在である状況。匂いが意志を持つかのように動いた現象。
科学的に説明しようとすれば、こう言えるかもしれない。
人間の身体は生きている間、常に匂いの粒子を放出している。皮脂、汗、呼気、体温によって揮発する無数の化学物質。それらが混ざり合ってその人固有の「体臭」を形成する。死ねば肉体は朽ち、やがて匂いの発生源も消滅する。
通常ならばそこで終わりだ。
しかしもし死の瞬間に放出された匂いの粒子が何らかの条件によってその場に固定されたとしたらどうか。肉体は滅びても、粒子だけが残る。それは死者の「痕跡」であり、ある種の「記録」でもある。そして粒子である以上、物理的な存在だ。目には見えぬが確かにそこにある。これが巷間でいうところの幽霊の正体ではないか。
吉沢は笑おうとしたが笑えなかった。
翌日、再び女のマンションを訪れた吉沢は調香師としての技術を総動員することにした。幽霊が匂いの粒子であるならば、その粒子を中和するか、あるいは別の匂いで包み込んで無力化すれば良い。
理屈の上では単純だが実行には困難が伴う。
死者の匂いを嗅ぎ分け、その構成要素を特定し、それに対応する香料を調合しなければならないからである。匂いの中和とは酸とアルカリの関係に似ている。ある匂いを打ち消すにはその匂いと「反対」の性質を持つ香料が必要になる。
甘い匂いには苦味を、重い匂いには軽さを、濁った匂いには清浄さを。死者の腐敗臭を中和するには生命力に溢れた香りをぶつければ良いのではないかと吉沢は考えた。
三時間を費やして、吉沢は一本の香水を作り上げた。
ベースにはサンダルウッドと微量のアンバーグリス、生命の温もりを思わせる動物性の香料。ミドルノートにネロリと白檀、清浄さと神聖さの象徴。トップには柑橘系の爽やかさを加え、全体を乳香で包む。
これを寝室に噴霧したとき、あの腐敗臭は掻き消えた。
女は泣いた。これで夫が成仏したのだと、吉沢の手を握って何度も礼を述べた。成仏などという言葉を口にするつもりはなかったが結果として依頼は完遂されたのだからそれで良かったのだろう。
以来、吉沢のもとには奇妙な依頼が舞い込むようになった。表向きは調香師として香水の調合を請け負いながら、裏では「匂いの問題」を解決する仕事が増えていった。霊感などというものは持ち合わせていない。ただ匂いを嗅ぎ分ける嗅覚と、それを調合する技術があるだけだ。しかしそれで十分だった。
幽霊とは匂いの粒子であり、粒子であるならば化学的に処理できる。中和剤を調合し、噴霧し、粒子を分解する。それだけのことだ──吉沢はそう確信していた。
その確信が揺らいだのはつい先週のことである。
◆
依頼主は若い男だった。二十代の後半、神経質そうな細い指で名刺を差し出してきた。名刺には「フリーライター」とあり、名前は戸田修一と印刷されている。頬がこけ、目の下には濃い隈がある。眠れていないのだろうと吉沢は見て取った。戸田は声を潜めて、取材で訪れた廃墟について語り始めた。
その廃墟はかつて病院だったという。正式名称は「聖愛会病院」。三十年前に閉鎖され、以来ずっと放置されてきた建物で、心霊スポットとして有名らしい。閉鎖の理由は経営難とされているが噂では違う話も流れている。
末期患者を集めて人体実験を行っていた、保険金目当ての殺人が横行していた、死体の処理が杜撰で地下に埋められている者がいる。どこまでが事実でどこからが尾鰭か、今となっては確かめようもない。ただ一つ確かなのはその病院で多くの人間が死んだということだけだ。
戸田は雑誌の企画で内部を取材することになり、カメラマンと二人で足を踏み入れた。一階、二階と探索を進め、三階の手術室跡に至ったとき、異変が起きたという。
最初は微かな違和感だった。空気が重く、妙に湿っている。古い建物特有の埃っぽさとは異なる何かが鼻腔の奥にへばりついてくる感覚があった。戸田はそれを言葉にできず、カメラマンも首を傾げるばかり。しかし数分もしないうちに、その「何か」は明確な形を取り始めた。
腐った花の匂いだった。
最初は薔薇かと思った。いや、百合かもしれない。しかしそのどちらとも異なる、甘ったるく、それでいて底知れぬ腐敗を孕んだ臭気が手術室の中を満たしていく。戸田は吐き気を催し、カメラマンは真っ青になって壁にもたれかかった。逃げようにも足が動かず、匂いはますます濃くなり、やがて二人の意識は途切れた。
気がついたときには夕刻で、手術室の床に倒れていたという。カメラマンは記憶が曖昧で、匂いのことも覚えていないと言う。しかし戸田は違った。あの匂いの記憶だけが脳裏に焼きついて離れない。以来、自室にいても時折あの匂いを感じるようになった。幻嗅ではない。確かにそこにある。深夜、ふと目覚めると枕元に漂っている。シャワーを浴びていると、湯気の中に混じって立ち上ってくる。しかし誰に相談しても信じてもらえず、ようやく吉沢の噂を聞きつけてここに来たのだと、男は語り終えた。
吉沢は腕を組み、しばらく黙考した。持ち帰られた匂いというのは初めてのケースではない。幽霊が特定の人間に「憑く」という現象はおそらく匂いの粒子がその人間の衣服や髪に付着し、そのまま運ばれてくるのだろうと解釈していた。衣服に染みついた匂いは時間が経てば自然に拡散するが死者の粒子は違う。通常の匂いよりも「粘度」が高いとでも言えばいいか、一度付着すると容易には離れない。それでも対処法は同じはずだ。付着した匂いを特定し、それを中和する香料を調合すれば良い。
「服を持ってきましたか」と吉沢は訊ねた。戸田は頷き、鞄から畳んだシャツを取り出した。廃墟に入ったときに着ていたものだという。吉沢は受け取り、布地に鼻を近づけた。
瞬間、視界が揺れた。
腐った花。確かにそれはある。だがそれだけではなかった。薬品の匂い。消毒液。ホルマリン。血の匂い。汗と恐怖の混じった人間の匂い。そしてその奥に潜む、もうひとつの層。吉沢はそれを嗅ぎ取った途端、シャツを床に落とした。
──複数いる。
その認識が脳裏に走ったとき、吉沢の喉は乾き、背筋には冷たいものが這い上がってきた。これまで相手にしてきた幽霊はすべて単独だった。一人の死者が遺した匂いの残留物であり、その構成要素を特定することは難しくとも、少なくとも「一つの個体」を相手にしているという前提があった。一人の死者には一つの匂いがある。それを分析し、中和剤を作る。それだけのことだった。
だがこのシャツに染みついているのは違う。幾重にも折り重なった匂いの層。一つを剥がせばまた一つ。その下にもまた別の層が潜んでいる。まるで地層のように堆積した死者の気配。十人か。二十人か。あるいはもっと多いのか。一人一人の匂いが混ざり合い、しかし完全には融合せず、それぞれの輪郭を保ったままそこにある。
戸田の顔を見上げた。若いライターは不安げな表情を浮かべている。この男は何を持ち帰ってきたのか。いや、何に「連れてこられた」のか。
「少し時間をください」と吉沢は言った。声が掠れているのが自分でも分かった。戸田は何か言いかけたが吉沢の顔色を見て言葉を呑んだらしい。名刺を受け取り、後日連絡すると告げて帰らせた。
一人になった仕事場で、吉沢は落としたシャツを拾い上げた。今度は慎重に、層を一つずつ嗅ぎ分けていく。最も表層にあるのは確かに花の腐敗臭。薔薇と百合が混ざったような、甘く重い香り。病室に飾られた見舞いの花が水を換えられぬまま腐っていく匂いに似ている。その下には消毒液の残り香。エタノールとクロルヘキシジン、古い病院で使われていた類の薬品だ。さらに下には金属的な血の匂いと、人間の体液が乾いたときに発する独特の臭気。尿、汗、涙、唾液。生きている人間が発するあらゆる液体の痕跡がそこに折り重なっている。
そして最も深い層には──言葉にできない何かがある。
それは匂いというよりも、意志だった。何かを訴えようとしている。何かを求めている。しかしその内容はまだ分からない。
三日間、吉沢は仕事場に籠もった。食事も睡眠も最低限に抑え、ひたすら調合を繰り返す。まず試したのは最初の依頼で成功した方法だった。生命力に溢れた香りをぶつけ、死の匂いを中和する。サンダルウッド、ネロリ、柑橘系、乳香。しかし効果がない。シャツに染みついた匂いは微動だにしない。
次に試したのはより攻撃的な調合だった。揮発性の高い合成香料を大量に使い、力ずくで匂いを押し潰そうとする。アルデヒド、ケトン、エステル。化学的な暴力とも言うべき調合。しかしこれも効果がない。むしろ匂いは反発するかのように強くなり、吉沢は激しい頭痛に襲われた。
十種類、二十種類と試作を重ね、どれも効果がない。三十本目を作り終えたとき、吉沢は手を止めた。
なぜ効かないのか。
これまでの依頼では中和という方法で問題なく対処できていた。死者の匂いを分析し、それと「反対」の香りをぶつけ、粒子を分解する。単純な化学反応だ。しかしこの匂いにはそれが通用しない。中和剤を噴霧するたびに、匂いは一瞬たじろぐがすぐに元に戻る。いや、元に戻るというより、弾き返されている。まるで此方の攻撃を意図的に拒絶しているかのように。
吉沢は椅子に深く座り、天井を見上げた。
中和とは何か。ある匂いを別の匂いで打ち消すこと。つまり、その匂いを「消す」こと。「無かったこと」にすること。
ならば、彼らはそれを拒んでいるのではないか。
消されたくない。無かったことにされたくない。三十年もの間、あの廃墟で朽ちていく自分たちの存在を、誰にも気づかれぬまま消されることを、彼らは拒否しているのだ。
吉沢は目を閉じた。これまで自分は何をしてきたのか。依頼を受け、死者の匂いを中和し、「祓った」と称してきた。しかしそれは死者の側から見れば何を意味するのか。存在の否定だ。「お前はもう要らない」「お前の痕跡は消えるべきだ」という宣告に他ならない。
一人の死者ならば、それでも受け入れられたのかもしれない。遺された者の生活を乱し、恐怖を与え、迷惑をかけている自覚があれば、消えることを選ぶ者もいるだろう。しかし複数の死者が互いに寄り添うようにして残留している場合はどうか。彼らは孤独ではない。同じ場所で、同じように忘れられ、同じように朽ちていく仲間がいる。その連帯が中和への抵抗力になっているのではないか。
ではどうすればいい。
消すのではなく。否定するのではなく。
吉沢は再びシャツを手に取った。今度は中和しようとせず、ただ匂いを嗅いだ。腐った花。消毒液。血。汗。涙。その奥にある、言葉にできない何か。それは意志だと思っていたがもう少し正確に言えば、問いなのかもしれない。
なぜ、と。
なぜ自分たちはここにいるのか。なぜ消えることができないのか。なぜ誰も気づかないのか。なぜ誰も覚えていないのか。その問いが幾重にも折り重なって匂いの形を取っている。
問いに対しては答えが必要だ。
中和ではない。別の方法がある。消すのではなく、受け入れる。否定するのではなく、承認する。「あなたたちはここにいた」「あなたたちの存在を、私は知っている」と伝えること。それが答えになるのではないか。
具体的にはどうするか。
彼らがかつて纏っていた匂いを再現する。生きていたときの匂いを。死の匂いではなく、生の匂いを。「私はあなたたちが生きていたことを知っている」という調合。
吉沢は新しい試香紙を手に取り、シャツの匂いを改めて分析し始めた。腐敗の層を剥がし、薬品の層を剥がし、血と体液の層を剥がす。その奥に、微かに残っている匂いがある。石鹸。洗剤。食べ物。煙草。香水。それぞれの死者が生前に身につけていた匂いの、ほんの微かな残滓。
それを拾い上げ、増幅し、一つの調合にまとめ上げる。
戸田に電話をかけたのは四日目の午後だった。廃墟に行く、と告げると、若いライターは驚いた声を上げた。危険ではないかと問われ、分からないと答えた。ただ、現場を見なければ最終的な調合はできないとも伝えた。戸田は少し考えてから、同行すると言った。あの場所にはもう近づきたくないがこのまま匂いに憑かれ続けるのも耐えられないと、声を震わせながら言った。
廃病院の前に立ったのは曇天の午後三時だった。風がなく、空気が淀んでいる。「聖愛会病院」と刻まれた表札は錆びつき、文字の半分が剥落している。建物は想像していたよりも小さく、三階建ての古びたコンクリート造り。しかし確かに何かを孕んでいる気配があった。正面玄関の鉄扉は半開きで、隙間から黒々とした暗がりが覗いている。
吉沢は鞄の中を確認した。調合済みの香水を十二本詰め込んでいる。中和用が十一本、そして最後の一本。三日三晩かけて作り上げた、まだ一度も使っていない調合。どれが効くかは分からない。分からないからこそ、できる限りの準備をしてきた。
一階は埃と黴の匂いが支配していた。廊下を歩くたびに足音が反響し、崩れかけた天井から石膏の欠片が降ってくる。かつては受付だったらしいカウンターが残っており、その上に古い書類が散乱している。戸田は吉沢の後ろについて歩き、時折振り返っては背後を確認していた。顔色が悪い。ここに来るだけで、相当な勇気が必要だったのだろう。
二階に上がると、匂いの層が変わった。消毒液の名残り。古い薬品。エタノールとホルマリンの混合臭。病室だった部屋がいくつか並んでおり、錆びたベッドの骨組みがそのまま残されている。そして微かに、花の腐敗臭が混じり始める。まだ遠い。しかし確実に、三階から降りてきている。
階段を上る。一段ごとに匂いが濃くなる。戸田の呼吸が荒くなるのが背後から聞こえてきた。
三階に辿り着いたとき、吉沢は足を止めた。手術室跡と思しき大きな部屋が廊下の突き当たりにある。扉はなく、暗い口を開けて待っている。そこから漏れ出てくる匂いはもはや微かなどというものではなかった。凝縮された腐敗と死の気配が廊下全体を満たしている。
一歩、踏み出した。
匂いが押し寄せてきた。それは波というよりも奔流であり、鼻腔を突き抜けて脳髄を直撃する。吉沢は膝をつきそうになりながら、必死で踏みとどまった。複数の層が複数の意志が此方に向かって殺到している。一人一人の死者がそれぞれの匂いを武器にして襲いかかってくる。薔薇の腐敗臭。百合の腐敗臭。血の匂い。汗の匂い。恐怖の匂い。憎悪の匂い。悲嘆の匂い。それらが渾然一体となり、しかし個々の輪郭を保ったまま、吉沢の感覚を蹂躙していく。
戸田が背後で何か叫んだが声は聞こえなかった。吉沢は鞄から香水の瓶を取り出し、一本目を噴霧した。白檀と乳香を主体にした調合。清浄と神聖の香り。匂いの一層が薄らいだがすぐに次の層が前面に出てくる。弾かれた。予想通りだった。
二本目。ベルガモットとネロリ。生命力と爽やかさ。これも効かない。三本目。ムスクとアンバーグリス。動物的な温もり。効かない。四本目、五本目、六本目と続けて噴霧し、それでも奔流は止まらない。むしろ抵抗するたびに匂いは強くなり、吉沢の意識を削り取っていく。
七本目を手に取ったとき、膝が崩れた。床に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。視界が霞む。このままでは意識を失う。戸田のように、この場所に囚われてしまう。
だがその瞬間、吉沢は気づいた。
匂いの奔流の中に、問いがある。最初に感じたあの問いが今も繰り返されている。なぜ。なぜ。なぜ誰も気づかない。なぜ誰も覚えていない。なぜ自分たちは消えることができない。
中和しようとするから、弾かれるのだ。消そうとするから、抵抗されるのだ。彼らが求めているのは消滅ではない。承認だ。
吉沢は最後の一本を取り出した。それは三日間の試行錯誤の末に辿り着いた調合であり、まだ一度も使っていないものだった。薔薇と百合。しかし腐敗ではなく、生きている花の香り。血の匂いを思わせる鉄分を含んだ香料、しかしそれは傷ついた肉体ではなく、脈打つ生命の象徴として。土と朽木のノート、これは死ではなく、すべての生命が還っていく大地の匂い。そして最後に、ほんの微量の人間の汗。労働の汗、恐怖の汗ではなく、生きて動いている人間の匂い。
死者たちが生前に纏っていたであろう匂いを、可能な限り再現した香水。「あなたたちはかつて生きていた」「私はそれを知っている」という調合。
噴霧した瞬間、奔流が止まった。
室内に静寂が広がる。埃が舞い落ちる音さえ聞こえそうなほどの静けさの中で、吉沢は目を開けた。匂いはまだそこにある。腐敗臭も、血の匂いも、消えてはいない。しかしもう押し寄せてはこない。ただそこに在るだけだ。問いではなく、存在として。攻撃ではなく、ただの気配として。
彼らは答えを受け取ったのだ。
「あなたたちはここにいていい」
声に出して言った。誰に向けて言っているのか、自分でも分からなかった。しかし言わなければならないと思った。
戸田が背後で息を呑む気配がした。振り返ると、若いライターは涙を流していた。なぜ泣いているのか。おそらく本人にも分からないのだろう。この場所に充満している悲しみが匂いを通じて伝染したのかもしれない。吉沢は何も言わず、出口に向かって歩き始めた。
廃墟を出たとき、空は茜色に染まっていた。西日が崩れかけた建物を照らし、長い影を地面に落としている。戸田のシャツからはもうあの匂いはしなかった。彼らは戸田を通じて外の世界に訴えようとしていたのだろうが今はもうその必要がない。誰かが気づいた。誰かが覚えていると伝えた。それで十分だったのだ。
「これで、終わりですか」
戸田の問いに、吉沢は首を横に振った。
「終わりではありません。彼らはまだあそこにいる。消えたわけじゃないのです」
「でも、もう憑いてこないんですよね」
「たぶん。もう誰かを連れ出そうとはしないでしょう。問いかけることをやめたから」
戸田は廃墟を振り返った。夕日を受けて、建物の輪郭が赤く縁取られている。心霊スポットとしての噂はこれからも続くだろう。しかしあの手術室に足を踏み入れた者が意識を失うことはもうないかもしれない。彼らは静かに、ただそこに在り続ける。忘れられた死者として。しかし少なくとも一人の人間に存在を認められた死者として。
帰路についた車の中で、吉沢は窓の外を流れる景色を眺めていた。
街には無数の匂いがある。
人間の匂い、食べ物の匂い、排気ガスの匂い、花の匂い。そのすべてが粒子となって空気中を漂い、やがて消えていく。
しかし消えないものもある。
死者の匂い。生きていた証。執着。未練。問いかけ。
祓魔の調香師として、これからも依頼は来るだろう。だが幽霊を「祓って」くれと頼まれるたびに、吉沢は考えなければならないと吉沢は思った。
祓うべきなのか、それとも別の答えがあるのか。相手は何を求めているのか。消えることを望んでいるのか、それとも認められることを望んでいるのか。
香りは粒子であり、粒子は物質であり、物質は消すことができる。しかし消して良いものと、そうでないものがある。それを見極めるのはこれからも自分の仕事だ。
吉沢は鞄の中に残った香水の瓶に手を伸ばした。空になった十一本と、まだ中身の残っている最後の一本。
薔薇と百合と、血と土と、人間の汗の調合──死者のための香水ではなく、かつて生きていた者のための香水。レシピを書き残す気にはなれなかった。二度と同じものを作れなくても、構わない。次の依頼が来たとき、また一から嗅ぎ分ければいい。それぞれの死者にはそれぞれの匂いがある。それぞれの生があり、それぞれの問いがある。既製品で済ませるような仕事ではないのだ。
夕暮れの光が車内を斜めに横切り、吉沢の手元を照らした。
香水の瓶が琥珀色に輝いている。
その中で無数の粒子が揺らめき、やがて静かに沈んでいくのが見えた。
(了)




