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九話 亡き声

「お、おと……さんっ……」


 掠れた声が上擦り、空回る。

 獲物を眼前に捉えた捕食者の瞳。生きるための、前に進むための殺意を孕んだそれは、底なし沼のように私を掴んで離さない。

 ビール瓶を握り直す一瞬の指の動き。私の死相をはっきりと描いた。


「や、やめて……」


 拒絶を宿した救難信号。

 お父さんは何も言わず、凶器で空気を断ち切った。


 硝子細工の爆ぜる音が雄叫びを上げた。

 


 瞼の裏に流れた映像の幕を引くように瞳をこじ開ける。

 意識が戻るにつれ、朝のざわめきが押し寄せてくる。

 

「詠鼓、大丈夫? すごくうなされてたわよ」


 児童指導員の本田さんが心配そうな顔で私を見つめている。

 見苦しいところを見られてしまった。


『大丈夫です。なんか変な夢みちゃって』


 脳に言葉を浮かべながら、口を開閉する。

 私の声は、音にならない。

 鳩が私の脳から本田さんの脳へと言葉を届けてくれるような、そんなイメージだと私は思っている。

 言葉に合わせて口を動かす必要なんて、本当はない。声が戻ったと喜んでくれる大人たちを見て、後に引けなくなっただけ。

 張り詰めていた糸を垂らすように息をついて、私より幼い子たちに手を焼きに行く本田さんの背中を見送る。


 ──はぁ、嫌なこと思い出しちゃった。


 ため息にも声が宿らない。空虚な息だけが世界に解き放たれる。


 朝から弱気になってちゃダメダメ。今日は「大事な日」なんだから。


 掛け布団を跳ね除け、私は朝の支度に向かった。


***


 学校の正門をくぐった瞬間、言いようのない違和感が肌を撫でた。

 いつもなら運動部の掛け声や、登校する生徒たちの騒がしいお喋りが、遠くからでも波のように聞こえてくるはずの時間。

 なのに今日は、まるで世界に薄い膜が張られたように、音が欠落している。


 後ろから肩を叩かれ、僕はびくりと肩を揺らした。

 振り返ると、そこには先生が立っていた。けれど、彼は自分の首を押さえ、必死に口を動かしている。

 「おはよう」と唇が動いているのは分かる。けれど、そこから漏れ出るのは、掠れた吐息の音だけだった。

「え……? 風邪ですか?」


 僕が問いかけると、彼は青ざめた顔で首を横に振り、そのまま泣きそうな顔でどこかへ去っていった。


 嫌な予感が、心臓の鼓動を速める。僕は導かれるように、自分の教室へと急いだ。

 教室の扉を開ける。

 そこは、異様なまでの静寂に支配されていた。

 数人の生徒が自分の喉をかきむしり、あるいは机に突っ伏して震えている。

 そして、その中心で──。


「心さん!」


 彼女は自分の席で、呆然と立ち尽くしていた。

 僕の声に気づき、弾かれたようにこちらを向く。彼女の大きな瞳には涙が溜まっていた。

 神谷さんは何かを叫ぼうとして、大きく口を開く。


「…………っ、……っ!」


 音がない。

 昨日、あれほど晴れやかに笑い、「堂々と真ん中を歩く」と宣言した彼女の力強い声が、一欠片も聞こえてこない。

 心さんは自分の喉を両手で強く絞めるように押さえ、苦しげに顔を歪めた。


「心さんまで?」


 クラスの約半分。いや、もっとかもしれない。

 昨日、僕らに冷ややかな視線を送っていた連中も、そして僕の一番の理解者である彼女までもが、一晩にしてその「言葉」を奪われていた。

 

 これは、風邪なんてものじゃない。

 僕の魂の奥底で燻っていた熱──天照大御神の権能が、警鐘を鳴らすように激しく疼き始めた。

 この異常な静寂の正体は何だ。

 誰が、何のためにこんなことを。

 僕は震える心さんの肩を一度だけ強く掴むと、犯人を、あるいはその手がかりを見つけ出すために、静まり返った校舎へと飛び出した。



 静まり返った校内を走る。手がかりを探して。

 ふと、僕は昨日の補習で出会ったばかりの、あの儚げな少女の安否が気になり始めていた。

 詠鼓さんは……大丈夫なのだろうか。

 彼女もまた、あの「聞きやすい声」を失って怯えているのではないか。

 そんな不安を抱えながら校庭の隅、旧校舎へ続く校舎裏の細い道に差し掛かった時だった。


「──あ、颯人くん」


 背後から、聞き覚えのある明るい声が届いた。

 僕は心臓が跳ね上がるのを感じて、勢いよく振り返る。


「心さん! 声、戻ったの!?」


 そこに立っていたのは、桃色の髪をなびかせた女子生徒──の、はずだった。

 けれど、校舎の影になっていて顔がよく見えない。


「なんとかね。詠鼓ちゃんを探してるの? なら私も手伝うよ。とりあえず、合流しよう」


 その声は、紛れもなく心さんのものだった。僕を呼ぶ時の少し弾んだイントネーション、空気を含んだような柔らかな発声。

 僕は安堵し、彼女の待つ暗がりに足を踏み入れた。


「よかった、本当に。急にみんな声が消えちゃうから……」


 歩み寄った僕の目の前で、人影がゆっくりと顔を上げた。

 そこで僕を待っていたのは、心さんではなかった。


「……え」


 昨日と同じ、小柄な少女。

 詠鼓さんが、そこに立っていた。

 彼女は口を動かしていない。けれど、心さんの声が、まるで彼女の背後から響いているかのように僕の耳を打った。


「ごめんね、颯人くん」


 「心さんの声」で、詠鼓さんが謝罪を口にする。

 その異様な光景に思考が停止した瞬間、彼女の細い体が信じられない力で僕にぶつかってきた。


「うわっ!」


 地面に背中を打ちつけ、視界が火花を散らす。

 彼女は僕の胸元に乗りかかるようにして押し倒すと、右手に握られていた銀色のカッターナイフを高く振り上げた。


「詠鼓さん……? な、何して……?」


 混乱の中で、僕は彼女の瞳を見た。

 昨日の穏やかな光は消え、そこには逃げ場のない絶望と、研ぎ澄まされた殺意だけが宿っている。


「雪花君のためなの……! 雪花君を守るためには……あなたが必要なの!」


 振り下ろされる刃。

 心さんの「声」を使いながら、彼女は泣き出しそうな顔で僕の心臓を狙った。

 死を覚悟し、反射的に目を閉じた、その刹那。


 鼓膜を劈くような鋭い破裂音が、静寂に包まれた校舎裏に響き渡った。

 直後、火花が散るような金属音と共に、詠鼓さんの手からカッターナイフが弾き飛ばされた。回転しながら地面に突き刺さる刃。僕の頬をかすめた衝撃波が、遅れて熱として伝わってくる。


「……あ、あ……」


 詠鼓さんが呆然と、痺れた自分の右手を凝視している。


「そいつの上から退け。じゃねぇと、その頭ぶち抜くぞ」


 低く、地を這うような冷徹な声。

 詠鼓さんは弾かれたように僕の上から飛び退き、数メートル先でへたり込んだ。恐怖に顔を歪め、ガタガタと震える彼女の視線の先──そこには、硝煙を纏わせた孤高の少年が立っていた。


「……海斗、君」


 僕が掠れた声でその名を呼ぶと、海斗君は地面を乱暴に踏みしめながら、迷いのない足取りでこちらへ歩み寄ってきた。彼は地面に倒れたままの僕を一瞥もせず、ただ僕と詠鼓さんの間に割り込むようにして、その背中で僕の視界を塞いだ。


「おかしいと思って来てみりゃ、この様だぜ。ったく、何回死にかけりゃ気が済むんだ、お前は」


 吐き捨てられた言葉は刺々しい。けれど、目の前に広がる彼の背中は、前に僕を抱え上げて運んでくれた時と同じ、絶対的な安心感を伴う「壁」そのものだった。

 海斗君は左腕を無造作に突き出し、その銃口を一点の曇りもなく詠鼓さんへと固定する。


「お前がこの異変の犯人か?」


 一歩。彼はさらに詠鼓さんとの距離を詰める。僕を背後に隠し、一筋の風さえも通さないような、完璧な守護の形。


「……答えろ」


 海斗君の放つ殺気は鋭く、そして重い。

 詠鼓さんは何かを訴えようとしたけれど、海斗君の放つ圧倒的な「戦う者の威圧感」に押され、ただ絶望に瞳を濡らして後退ることしかできなかった。


「……海斗君、待って。何か事情が」


 背中越しに服の裾を掴もうとする僕の手を、海斗君は振り払いもせず、ただ前を見据えたまま短く鼻を鳴らした。


「事情だの何だの、そんな甘っちょろいもん、俺の知ったことじゃねぇ」


 詠鼓さんは、がたがたと震える指先で地面を探り、弾き飛ばされたカッターナイフを再び掴み取った。その瞳には、もはや正気の色など残っていない。ただ、一人の少年の「美しさ」を繋ぎ止めるためだけに、その魂を燃やし尽くそうとする狂信的な光が宿っていた。


「ダメ……雪花君が……!」


 声を歪ませた絶叫。彼女はなりふり構わず、地面を蹴って突っ込んできた。

 死に物狂いの突撃。刃先が空気を切り裂き、海斗君の喉元を狙う。


「待って、詠鼓さん!」


 僕が叫ぶよりも、海斗君の動きの方が遥かに速かった。

 彼は一歩も退かなかった。それどころか、迎撃のために身を翻すことさえしない。

 突進してくる詠鼓さんの勢いをそのまま利用するように、海斗君は最短距離で踏み込むと、突き出された彼女の腕を、左腕の銃身で鮮やかに払い上げた。


「無駄だ」


 硬質な音が響き、刃が虚空を泳ぐ。

 がら空きになった彼女の胴体へ、海斗君は迷いのない一撃──右の正拳を叩き込んだ。

 重い衝撃音が鼓膜を打つ。

 その一撃は、小柄な彼女をいとも容易く宙に浮かせた。詠鼓さんは声にならない悲鳴を漏らし、そのまま糸の切れた人形のように地面に崩れ落ちた。

 カラン、と力なくカッターナイフが手からこぼれ落ちる。

 ただの一撃で、彼女の殺意は完全にへし折られた。


「……ガハッ……あ、あ……」


 地面に這いつくばり、浅い呼吸を繰り返す詠鼓さん。海斗君はそれを見下ろすこともせず、ただ冷徹に銃口を彼女の眉間に突きつけた。


「死に損ないが。余計な体力使わせんじゃねぇよ」


 彼はそう言い捨てると、ようやく、地面に座り込んだままの僕を、不機嫌そうに一瞥した。


「おい。立てるか」


 差し出されたのは、手ではなく、ただのぶっきらぼうな視線。

 けれど、その視線が「これ以上は指一本触れさせない」という最強の拒絶となって、僕と彼女の間に境界線を引いていた。




「詠鼓さん……」


 地面に這いつくばる私の耳に、颯人くんの悲痛な声が届いた。

 あぁ、終わったんだ。

 頬に伝わる砂利の冷たさと、腹部に走る鈍い痛み。海斗と呼ばれる男の放った圧倒的な暴力が、私の心根にこびりついていた浅ましい執着を、強制的に引き剥がしたようだった。

 視界が涙で歪んでいく。



 私は、「言ってはいけないこと」が我慢できない子供だった。

 あの子があなたの陰口を言っていたよ。あの子があなたのことを嫌いだって言っていたよ。

 無邪気に、あるいは無自覚に放たれる私の言葉は、いつも誰かの平穏を壊し、人間関係を修復不能なまでに切り裂いた。

 決定的だったのは、あの日。

 父が、見知らぬ女性を家に連れ込んでいるのを見てしまった。


「いいか、詠鼓。お母さんには絶対に言うなよ。これは二人だけの秘密だ」


 大きな手で肩を掴まれ、低い声で念を押された。

 けれど、父の浮気に薄らと勘づき、夜な夜なヒステリックに泣き叫んでいた母に、「ねぇ、詠鼓。何か知らない? お父さん、隠し事してるでしょ!」と問い詰められた瞬間。

 私の口は、意志に反して滑り出した。


「お父さん、女の人といたよ」


 その一言で、私の家は崩壊した。

 母は書き置き一つ残さず蒸発し、残されたのは、怒り狂った父と私だけ。

 愛する妻を失った原因が娘にあると確信した父の瞳から、理性は消えていた。


 ある夜。

 酒の匂いと、空気を切るような音。

 振り下ろされたビール瓶が私の頭を捉えた瞬間、世界は真っ暗な硝子の破片に変わった。

 次に目覚めたとき、私は病院のベッドにいた。

 怪我は治った。けれど、私の喉は、二度と言葉を紡ぐことを拒絶していた。


 それから、私は児童養護施設に引き取られた。


「声の出ないかわいそうな子」


 周囲の憐れむような視線。私はどこかでホッとしていた。

 声が出なければ、もう誰も傷つけなくて済む。

 私の言葉で、誰かの人生を壊さなくて済む。

 そう思って、私は自分から心を閉ざし、施設の隅で透明な壁を作って生きていた。誰とも関わらず、ただ一日が過ぎるのを待つだけの灰色の日々。

 そんな私の世界に、彼が現れた。


「……君、なんで喋らないの?」


 それが、雪花くんとの出会いだった。

 彼は施設の中でもひときわ浮いていた。どこか影のある、けれど目を引く顔立ち。彼もまた、私と同じように「家族」という居場所を奪われた傷を抱えていた。

 声が出ない私を、彼は笑わなかった。「不便だね」とも言わなかった。ただ、隣に座って、私が見ている景色を一緒に眺めてくれた。

 言葉を交わさなくても、彼の孤独が私の孤独にそっと寄り添うのが分かった。彼と過ごす時間だけが、私の止まっていた時間を動かしてくれた。


 彼を守りたい。

 彼のためなら、何だってできる。

 初めてそう思えた、大切な人。


 ある日、その人物は影の中から染み出すように現れた。

 煤けたような黒い外套を纏い、顔の半分を奇怪な面で隠したその人は、自らを「スサノオ」と名乗った。

 その人が放つ空気は、暴力的なまでの重圧を伴っていた。私は恐怖で震え、隣にいた雪花くんは、私を庇うように一歩前に出た。


「怯える必要はない。私は、君たちの望みを叶えに来ただけだ」


 その声は、底冷えするような静けさを湛えていた。

 細長い指を、私たちの方へと向ける。


「君たちの一番欲しいものをあげる。……君には、世界を魅了する絶対的な『美』を。そして君には、誰にも邪魔されない『言葉』を」


 その言葉は、毒のように甘く、私たちの空っぽな心に深く突き刺さった。私がずっと欲しかったもの。雪花くんが、その輝きで自分を守るために必要としていたもの。

 

 スサノオは、面の奥の瞳を怪しく光らせて告げた。


「代わりに──御神颯人を殺せ」


 その名を聞いたとき、私は息が止まるかと思った。同じ学校の、あの色素の薄い灰色の髪をした少年。

 男は、まるで何でもないことのように続けた。


「彼が生きていれば、君たちの幸せは訪れない。彼こそが、君たちの運命を妨げる障害だ。……やり方は問わない。彼を消し去れば、君たちの願いは永遠のものとなる」


 雪花くんの手が、私の手を強く握りしめた。その掌は、恐怖に混じって、抑えきれない「渇望」で熱を帯びていた。

 

 彼と一緒にいられるなら。

 彼がもう、誰からも傷つけられない場所へ行けるのなら。

 私は、地獄への招待状を受け取るように、静かに頷いた。



 私のことも、颯人君を殺す使命も、雪花君は覚えてない。

 だから、私一人でも──。


 私は震える手を地面に振り下ろした。


***


 鏡の中の僕は、完璧だった。

 朝日の差し込むトイレの洗面台。蛍光灯の微かな瞬きさえも、僕の銀髪を際立たせる演出にしか思えない。滑らかな肌、整った鼻筋、そして見る者すべてを陶酔させる深い瞳。

 指先で自分の頬をなぞる。この「美しさ」こそが、僕のすべてだ。これさえあれば、誰も僕を虐げない。誰も僕を惨めな場所へ引き戻せない。


「……あぁ、なんて綺麗なんだろう」


 吐息が鏡を曇らせる。その曇りさえも愛おしい。

 けれど、その静寂は、背後の個室から染み出してきた「影」によって塗りつぶされた。


「見惚れている場合かな。……成美雪花なるみ ゆきか


 心臓が凍りつくような冷気が、首筋を撫でる。

 振り返るよりも早く、鏡の中にそいつは現れた。煤けた黒い外套、奇怪な面。あの時、僕らに力を授けた人物──スサノオだ。


「……何しに来たんだよ。約束は守ってる。僕は僕を磨き続けてる」


 震える声を絞り出す。けれど、スサノオは嘲笑うように細長い指を鏡の表面に滑らせた。


「忘れたのか。君のその輝きは、御神颯人の命と引き換えに与えた『前借り』に過ぎない。期限はもう、とうに過ぎているんだよ」


 鏡の表面が、水面のように波打つ。

 次の瞬間、僕の視界から「美しい僕」が消失した。


「……っ! やめろ、見せるな!」


 鏡に映し出されたのは、色白でもなければ、銀髪でもない、どこにでもいる平凡で冴えない少年の姿。施設の片隅で、誰の目にも留まらず、ただ怯えていただけの、かつての僕だ。

 あぁ、嫌だ。あの惨めな姿に戻るくらいなら、死んだ方がマシだ。


「御神颯人を殺せ。さもなくば、そのメッキは剥がれ落ち、君は再び泥を這う無価値な存在へと戻ることになる」


 スサノオの声が、逃げ場のない呪詛となって頭の中に響き渡る。

 鏡の中の「醜い僕」が、僕を呪うように見つめていた。


「嫌だ……戻りたくない。僕は、綺麗なままでいたいんだ……!」


 僕は叫びながら、拳で鏡を叩き割った。

 砕け散った破片の一つ一つに、泣き出しそうな「平凡な僕」が映り込んでいる。

 御神颯人。あいつさえいなくなれば。

 あいつの命を糧にすれば、僕は永遠に、この光の中にいられるんだ。


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