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八話 補色

 舞台。いや、もはやこれは舞台ではない。目の前で起きている「今」そのものだ。演者と観客を隔てる壁は消失し、僕らさえも風景の一部として取り込まれていく。

 大地に根を張る大輪の花のごときドレスが、女優の動きに合わせて重々しくうねる。舞台の端から端までを、さながら軌道を描く惑星のように舞う。遠心力に身を委ねて開花した裾は、完璧な正円を描き出した。

 

 僕は、叔母さんが借りてきた舞台ビデオに釘付けになっていた。

 王家の政争を描いているのだと、かろうじて筋道は追えるものの、詳しい内容はよくわかっていない。けれど、セリフの放つ熱量と優雅な舞いの美しさは、僕の呼吸を止めるには十分だった。


 舞台は最終局面を迎える。

 苛烈な旋律に突き動かされる、情熱的なダンス。結ばれぬ想いが舞台上で幾重にも交錯する。

 男の手元が照明を弾き、ギラリと銀色に翻った。磁石の極が引き合うように、急速に距離を詰める男女。刹那──

 切っ先がドレスを捉えた。

 時が止まったかのように、世界が静まり返る。

 ゆっくりと、暗転。

 画面の向こう、劇場で「生」の目撃者となった人々の喝采が押し寄せた。僕は我に返り、釣られるようにして控えめに手を叩いた。


「いい話だったね」


 隣に座る叔母さんが、僕の顔を覗き込んだ。

 正直、よくわからなかった──とは、流石に言えなかった。けれど、物語を理解せずとも魂が震えたのは確かなので、僕はその鮮烈な演技とダンスへの称賛を込めて、深く頷いた。


「……でも、もう新しい舞台は観られないんだよね」


 余韻に浸るように画面を眺めていた叔母さんが、ぽつりとこぼした。リモコンを握る手に、少しだけ力がこもっている。


「どういうこと?」

「この女優さん、成美撫子なるみ なでしこさんっていうんだけどね。数年前、事故で亡くなっちゃったの。これからもっと凄くなるって言われてたのに」


 成美撫子。その響きは、先ほど観たばかりの苛烈なダンスと重なり、僕の胸に鋭く刺さった。あんなに生命力に溢れ、舞台を惑星のように支配していた人が、もうこの世にいない。


「……叔母さん、この人のファンだったの?」

「ファンなんて言葉じゃ足りないくらい。私の憧れだった。彼女が舞台に立つだけで、劇場の空気が一変するの。このビデオだって、数え切れないほど見た」


 叔母さんは少し自嘲気味に笑って、テレビのスイッチを切った。

 急に静まり返ったリビングに、自分の心臓の音だけが聞こえる。画面が真っ暗になったことで、かえって網膜には、あの正円を描いて舞うドレスの残像が焼き付いていた。


「それは……残念だね」


 語彙の乏しい言葉しか出てこなかった。けれど、それが精一杯の共感だった。

 内容はよくわからなかったはずなのに、二度と更新されることのない「美しさ」の終わりを知って、急に喉の奥が熱くなる。


「私はそろそろ寝るね。颯人も、夜更かししちゃダメだよ。明日学校なんだから」

「うん。おやすみ、叔母さん」

 

 自分の部屋へと消えていく叔母さんの背中を見送った。

 さて、僕も寝るとするか。

 小さく伸びをしてソファから立ち上がる。画面の中の熱量に圧倒され、ずっと同じ姿勢を保っていたせいか、全身の節々が小さく軋んだ。

 テレビの主電源を落とすと、リビングは急に色を失い、深い静寂に包まれた。

 ──成美撫子。

 今はもうこの世にいないという、伝説の女優。

 暗くなった画面に映る自分の顔を見つめながら、僕はさっきまでそこにあった、鮮烈な「正円」の残像を頭の隅で追いかけていた。


 


「成美撫子さん?」


 二人、肩を並べて歩く通学路。心さんは視界の上の方を見つめ、記憶の引き出しを探るような仕草をした。


「知ってるよ。すごく綺麗な人だよね。私のお母さんも大ファンだったし、亡くなった時はニュースでも結構取り上げられてたから」


 なるほど。やはり、それほどの人だったのだ。僕はつい昨日の夜に知ったばかりだというのに。

 今考えてみると、僕は芸能人に関する知識が絶望的に乏しいのかもしれない。有名人を五人挙げろと言われても、即座に詰まってしまう自信がある。これまでの人生、テレビの前でのんびり過ごす余裕などなかったから、無理もないのだけれど。


「その人が、どうかしたの? 急に珍しいね、颯人くんが有名人の話なんて」


 歩みを止めずに、心さんが覗き込んでくる。

 僕は昨夜の、網膜に焼き付いたままの鮮烈な正円を思い出した。あの舞台の熱量は、単に「綺麗」という言葉で片付けていいものではなかった気がする。


「昨日、叔母さんとビデオを観たんだ。それで、すごく綺麗な人だなぁと思って」

 

 曖昧に言葉を濁した僕を、心さんは少し意外そうな、あるいは揶揄うような目で見つめた。


「ふぅん。あんな感じの、凛とした大人の人がタイプなんだ?」

「……そういうわけじゃないけど。ただ、あんな風に命を削るみたいに踊る人を、他に知らなかっただけだよ」


 僕の言葉に、心さんは「命を削る、か」と小さく反芻した。

 朝の柔らかな光が降る通学路。平和な日常の風景の中では、昨夜目撃したあの凄絶な「死」の間際のダンスは、まるで遠い異世界の出来事のように感じられた。


「ねぇ、そんなことよりさ、何か気づくことない?」


 心さんが足を止め、僕の正面に回り込んだ。

 悪戯っぽく笑っているようにも見えるけれど、その瞳の奥には、薄氷を踏むような緊張が張り詰めている。

 僕は彼女の顔を直視して、一瞬、呼吸を忘れた。


「あ……」


 昨日の放課後まで、彼女の髪はどこにでもいる中学生らしい、落ち着いた黒髪だった。

 けれど今、朝の光を浴びて輝いているのは、混じりけのない鮮やかな桃色だ。隠すことをやめたその色は、春の桜よりも、あるいは昨夜見た舞台の情熱よりも、ずっと強烈に僕の視界を支配した。


「……染めるの、やめたんだね」

「うん。もう、いいかなって。バレちゃったもんはしょうがないし、一生コソコソ隠して歩くのも疲れちゃった」


 心さんは、自分の毛先を指先でくるくると弄びながら、晴れやかな声で言った。


「変かな。やっぱり、浮いてるよね」

「変じゃないよ。……すごく、綺麗だと思う」


 お世辞ではなかった。その潔さが、昨夜見た成美撫子の、あの凛とした佇まいに重なって見えたから。

 心さんは「ありがと」と照れくさそうに笑うと、今度は僕の頭のあたりに視線を移した。


「……颯人くんは、今日もそれで行くの?」


 心さんの視線の先には、僕が毎日欠かさず被ってきた黒いウィッグがあった。

 地毛の灰色を隠すための、僕にとっての殻。彼女と一緒にいたあの場所で、僕の「秘密」もまた、衆目に晒されてしまったはずだった。


 僕は通学路の脇にある、民家のカーブミラーに目をやった。鏡の中の僕は、相変わらず無難で、特徴のない、嘘の姿をしている。

 隣では、心さんが桃色の髪を風になびかせて立っている。

 彼女がひとりで戦いに行こうとしているのに、僕だけが盾に隠れているのは、なんだかひどく格好悪い気がした。


「……いや、僕も、もういいかな」


 僕は両手でウィッグの感触を確かめた。

 一度思い切って指を差し込み、ゆっくりとそれを持ち上げる。

 

 頭皮を撫でる朝の空気が、驚くほど冷たくて心地いい。

 ウィッグを鞄に押し込み、手ぐしで髪を整えた。鏡の中に現れたのは、色素の薄い、曇り空のような灰色の髪をした自分だった。


「あはは、お揃いじゃん。私たち、並んで歩いたら相当目立つね」


 心さんが声を上げて笑った。その笑い声が、僕の胸に澱んでいた重たい空気を取り払ってくれる。

 鮮やかな桃色と、静かな灰色。

 混じり合うはずのない二つの色が、今、並んで一歩を踏み出す。


「さ、行こ。教室、お通夜みたいになってるかもしれないけど、堂々と真ん中を歩いてやるんだから」


 学校へ続く坂道。

 僕らの背中には、もう何一つ隠すものなんてなかった。



 教室の重い鉄扉を開けた瞬間、騒がしかった空気が一瞬で凍りついた。

 視線の矢が、一斉に僕らに突き刺さる。心さんの鮮烈な桃色と、僕の濁った灰色。隠すことをやめた二つの「異物」に、クラスメイトたちは露骨に顔をしかめ、あるいはひそひそと耳打ちを交わした。

 けれど、それだけだった。

 罵声を浴びせられることも、詰め寄られることもない。腫れ物に触るような沈黙。彼らにとって、僕らは関わるべきではない「遠い世界の不気味なもの」に格下げされただけなのだ。


「……意外と、普通だね」

「そうだね。もっと大騒ぎになるかと思ってた」


 僕らは小声で言葉を交わし、それぞれの席に着く。

 世界が反転するような覚悟で扉を開けた僕らにとって、その「無関心」は救いのようでもあり、少しだけ拍子抜けでもあった。

 そんな奇妙な高揚感も、二時間目のチャイムとともに霧散した。


「数学の小テストだるくない?」

「それな。しかも今回、三十点以下は補習だって。マジ勘弁」


 斜め後ろの席から聞こえてきた会話に、僕と心さんの肩が同時に跳ねた。

 視線が絡み合う。心さんの瞳が「聞いてない!」と叫んでいた。


「……颯人くん、数学、得意?」

「……最後に教科書を開いたのがいつかすら思い出せない」


 昨夜は成美撫子の舞台に見惚れ、今朝は髪をさらけ出す決意に心血を注いでいた。

 僕らの頭の中に、数学が入り込む余地など一ミリも残っていなかったのだ。


 ──そして、放課後。


「……最悪」

「……人生終わった」


 夕日に染まり始めた廊下で、僕らは力なく項垂れていた。

 返却された解答用紙に踊っていたのは、僕が「十二点」、心さんが「八点」という、清々しいほどに壊滅的な数字だ。神の生まれ変わりだとか、コンプレックスの克服だとか、そんな高尚な悩みは、赤いペンで引かれた大きなバツ印の前では無力だった。


「御神、神谷、放課後、第二学習室だからな。遅れるなよ」


 数学教師の冷徹な声を背中で受けながら、僕らは重い足取りで補習会場へと向かった。


「俺の生まれ変わりだってのに、情けねぇな」


 宿命だの権能だのと言いつつも、結局のところ、僕は赤点一つで絶望するただの中学生なのだという現実を、嫌というほど突きつけられていた。




 放課後の第二学習室は、独特のどんよりとした空気に包まれていた。

 使い古された机には、消しゴムのカスと、絶望に近い沈黙が積み重なっている。

 僕と神谷さんは並んで教室の隅に座った。

 桃色と灰色の髪。扉を開けた時はあんなに視線を感じたのに、ここでは誰も僕らを見ない。皆、自分の解答用紙に書き込まれた絶望的な点数と戦うのに必死だった。


「……あ、もう一人来た」


 神谷さんが小声で呟き、入り口に視線をやった。

 扉の隙間から、一人の少女がひっそりと入ってきた。

 小柄で、どこか儚げな印象の女の子だ。彼女は監督役の教師にぺこりと一礼すると、僕らの前の席に腰を下ろした。

 手元のプリントと格闘し始めて数分。僕のシャーペンは、方程式の壁の前で完全に沈黙していた。

 すると、耳元で鈴が転がるような、澄んだ声が届いた。


「これ、プラスとマイナス、逆じゃないかな?」

「あ……本当だ。ありがとう」


 僕は反射的に顔を上げ、声の主──前の席の彼女を見た。

 彼女は振り返り、僕と目が合うと少しだけ口角を上げて、嬉しそうに頷いた。


「え、すごい。君、こんなに難しい問題解けてるのになんで補習なの?」


 隣の神谷さんが、不思議そうに身を乗り出した。確かに、彼女のプリントには迷いのない正解が並んでいる。

 僕の問いに、詠鼓さんは少しだけ視線を泳がせ、悪戯が見つかった子供のような顔をした。


「……ちょっと、ね。あはは」


 響く笑い声は、どこか楽しげで、それでいて肝心な部分をはぐらかすような響きを含んでいた。


「もしかして……わざと間違えたの?」

「どうかな。でも、こうしてお喋りできる人が見つかったから、結果オーライかなって」


 彼女は小首を傾げて見せた。


「そっか。私は神谷心。こっちは御神颯人くん。二人とも、一組だよ」

「二組の、木霊詠鼓こだま えいこです。よろしくね」


 彼女は僕の灰色の髪をじっと見つめ、またあどけない声で語りかけてくる。


「独特な髪だね。でも、夕方の空みたいで、私は好きかも」

「……ありがとう。木霊さんの声、なんだかすごく耳に残るっていうか、聞きやすいね」

「そう? ありがとう」


 窓から差し込む夕日が、彼女の白い肌を透かすように照らしている。

 

 数学の補習という最悪な時間のはずなのに、この小さな空間だけは、外の世界にある冷たい無関心から切り離されているような気がした。

 けれど、その穏やかな空気の底で、何かが静かに、けれど確実に動き出しているような──そんな予感が、僕の背筋を微かに撫でていった。



「……ふぅ、やっと終わったね」


 神谷さんが大きく伸びをしながら、校舎の玄関を出る。

 結局、一時間以上も数字と格闘していたせいで、外はすっかりオレンジ色と紫色の混じり合った濃い夕景に包まれていた。


「お疲れ様。二人とも、頑張ってたね」


 横を歩く詠鼓さんの声が、頭の中で優しく弾む。その「声」を聞いていると、不思議と疲れが引いていくような気がした。


「詠鼓ちゃんも、付き合ってくれてありがとう。あ、そうだ。せっかくだし、一緒に──」


 心さんの言葉が、不自然に途切れた。

 校庭のフェンス越し、サッカーゴール付近に集まっている異常な人だかり。そこから、地鳴りのような歓声と、黄色い叫びが放課後の空気を震わせていた。


「なに、あれ……。芸能人でも来てるの?」


 神谷さんが呆然と呟く。僕らは吸い寄せられるように、人だかりの方へ歩を進めた。

 人混みの中心。そこでボールを蹴っている一人の少年がいた。

 その少年は、まさに「光」そのものだった。

 透き通るような白銀の髪が、夕日を反射して真珠のように輝いている。ボールを操る身のこなしは優雅で、まるで重力を無視しているかのようだった。彼が一度微笑むだけで、周囲の女子生徒たちが悲鳴に近い声を上げる。


「……すごく、綺麗な人」


 神谷さんが、魂を奪われたように呟く。

 確かに、誰が見ても完璧な美少年だった。けれど、僕は胸の奥に、ざらりとした冷たい違和感を覚えていた。

 昨夜、ビデオで見た成美撫子のダンス。あれは、魂を削り、大地を震わせるような圧倒的な「実体」があった。

 けれど、目の前で舞う彼はどうだ。

 美しすぎる。整いすぎている。まるで、精巧に作られた硝子の細工物が、中身のないまま動いているような──。


「二人とも知らないの? うちのクラスの雪花ゆきか君。超がつくほどの美少年。ファンクラブもあるくらいの人気者だよ」

 

 一際大きな歓声が上がり、雪花くんがシュートを決める。

 

 彼がこちらを振り返り、乱れた髪をかき上げる。その瞬間、僕と彼の視線が真っ向からぶつかった。

 一瞬だけ、彼の美しい顔が歪んだような気がした。

 

 夕闇が迫る校庭。

 称賛の嵐の真ん中で、彼は誰よりも孤独な、拒絶の光を放っていた。

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