六話 灰燼
『あの尻軽女、また男子を家に連れ込んだらしいよ』
嘘偽りのない。腹の底からの軽蔑。男に媚を売る節操のない女を値踏みする冷ややかな瞳。包囲陣を築くように私を取り囲んでいる。遠巻きに、されどこびりつくように、はっきりと鼓膜を震わす。全身を駆け巡るように鳥肌が走る不快感。
ぽつり、と。その背中を見た時、本能が嬌声を上げたくなった。
──颯人君。
顔が見えなくても、わかる。千人の中でだって見つけられる。灰色の後頭部、控えめな背面、華奢な四肢。あぁ、大好き。全身の細胞が祈るように詠嘆する。
砂鉄が磁石に引かれるように、駆け寄る。しかし、どうも体が鈍い。老婆のようによろめきながら、蛇の如く地を這う。きっと、今の私は醜い。メッキを剥ぎ取られ、残された本性だけが蠢いている。
粘りつく泥の中を泳ぐような、いつまで経っても距離が消えないもどかしさに足をすくわれ、その場に倒れ込んだ。
「心さん」
私を呼ぶ声は、驚くほど冷たかった。呪いの言葉を吐くように無機質で、無関心。
「ひどいよ。僕を利用するなんて」
──違う。そんなつもりじゃない
立ち上がって、否定したい。力強く、自信を持って。しかし、体が言うことを聞いてくれない。
辛うじて顔を上げ、颯人君の顔を視線に捉えた。
すぐに後悔が押し寄せてきた。怒りとも、憎しみともとれない。「無」がそこにあった。まるで、私に抱く感情など無駄であるかのように。
「──最低だね」
………
「……っ、はぁ、はぁ……っ!」
春の朝の光は、今の私には全てを焼き尽くす裁きの光に思えた。
心臓が喉から飛び出しそうなほどに悲鳴を上げている。
「夢……?」
自分に言い聞かせるように、呟いた。
そうだ。夢だ。
夢の中の颯人君は、いつもの優しい瞳を氷のように冷たく研ぎ澄まし、私を見下ろしていた。
──最低だね。
何度も、何度も頭の中で反響する。
誰かからの好意を、熱を、男の人に求めてしまう私の醜い本性。それを軽蔑し、拒絶する虚ろな瞳孔。
震える手でシーツを握りしめる。
夢と現実の境界が曖昧になるほど、その恐怖は現実味を帯びて私の胸を締め付けていた。もう、寝てはいられない。彼に会って、その瞳の中に「いつもの優しさ」があることを確かめなきゃ、私は壊れてしまいそうだった。
私は逃げるように支度を済ませ、まだ誰もいない登校時間の学校へと向かった。
静まり返った教室。
主を待つ机たちが整然と並ぶ中、私は自分の席に座り、膝の上で指をきつく絡ませた。
心細さに押し潰されそうになりながら、私はただ、教室の入り口をじっと見つめていた。
しかし、現れたのは、私が一番会いたくない相手だった。
「あら。サボり魔の神谷さんじゃない。今日は珍しく早いのね」
背筋が凍りついた。
ゆっくりと顔を上げると、そこには三人の女子生徒が私の机を囲むように立っていた。小学校の頃から、私の「異質さ」を嗅ぎ取っては踏みにじってきた彼女たち。
中心に立つ彼女は、私の顔を覗き込むようにして、唇を歪めて笑った。
「何、その顔。昨日、あの気味悪い男子とベタベタしてた女の顔とは思えない」
中心に立つ彼女──真希が、私の机を指先でトントンと叩く。その規則的な音が、私の心臓を直接打ち据える。
「ねぇ、ちょっと来てよ。話があるの」
「い、嫌……」
「いいから来いって言ってんの!」
真希が私の腕を乱暴に掴み、椅子から引きずり出した。ガタッと教室に耳障りな音が響く。まだ誰もいない廊下に助けを求める視線を向けても、そこには虚空が広がるだけだった。
「痛い、離して……!」
「うるさい。尻軽女の分際で私に命令しないで」
──昨日の幸せこそが、やっぱり夢だったのかもしれない。
彼女たちは私を挟み込むようにして、北校舎の奥へと連れて行く。そこは、普段から生徒が寄り付かない、古びた手洗い場がある女子トイレだった。
重い扉が閉まる。その瞬間、カチリと鍵がかけられる音が私の逃げ場を完全に塞いだ。
不快なアンモニアの臭いと、湿り気を帯びたコンクリートの冷気。
三人が私を壁際に追い詰める。
「ねぇ、神谷さん。また男子を家に連れ込んでたね」
真希の声はいつものように甘く、毒を含んでいる。
「ほんと、昔から変わらないよね。そうやって誰彼構わず媚を売って、自分の居場所を作ろうとするの」
彼女の言葉に、他の二人がくすくすと笑う。
変わらない。私も、あなたたちも。私の周りには、いつもこの三人がいた。
私が誰かと親しくなるたびに噂を撒き散らし、笑いものにして、結局誰も寄り付かなくなるまで追い詰めてきた。
「違う……。颯人君は、そんなんじゃ……っ」
言い訳が口をついて出た瞬間、鈍い衝撃が腹部を貫いた。
「う、ぐっ……」
息が詰まる。膝が折れそうになるのを、壁に背を預けてなんとか耐える。
「初日から男子引っ掛けるなんて。本当、見てるだけで虫酸が走る」
言い訳なんてできない。
この体に刻まれた「薔薇の紋章」が、愛を、熱を、誰かからの好意を求め続けているのは事実だから。そうしなければ、内側から焼け付くような痛みに引き裂かれてしまうから。
でも、それが周りには「男に媚を売る、節操のない女」としか映らない。
真希が取り巻きの一人に目配せをした。彼女が手に持っていたのは、掃除用の大型バケツだった。蛇口から溢れる水の音が、死刑宣告の鐘のように私の耳に突き刺さる。
まだかけられてもいないのに、底冷えした。
この水が降り注いだら──隠し続けてきた桃色が、全部剥き出しになってしまう。
そんな想像だけで、胃の底がキュッと縮こまる。絶対に、見られたくない。見られたら、もう終わりだ。
「あんたみたいな汚い女には、これが一番お似合いよ」
「やめて、お願い、やめて……っ」
私の悲鳴は、バケツがひっくり返る水音にかき消された。
氷のような冷たさが頭上から降り注ぎ、意識が白く染まる。
私を守っていた黒い染料が剥がれ落ち、足元のタイルを濁らせていく。
濡れて重くなった髪の下から、隠し続けてきたあの忌々しいほど鮮やかな「桃色」が、残酷に晒された。
「……何、これ」
さっきまでの嘲笑が消え、静まり返ったトイレに、引きつった声が響く。
「……気持ち悪い。髪までそんな色なの?」
「やっぱり化け物じゃない。そんな色で男を誘惑してたわけ? 本当、生理的に無理……」
真希たちは逃げるように去っていった。
──気持ち悪い。
投げつけられた言葉が、濡れた肌に突き刺さる。
髪を染めていたのがバレたことよりも、自分の本性を「汚物」のように扱われることの方が、今の私には耐え難かった。
冷えた体に、呪いの疼きが戻ってくる。
──助けて。
心の叫びは、排水溝へと流れる水音にかき消された。
誰でもいい。この呪いごと、私を抱きしめて。
脳裏に浮かんだのは、昨日、私のために「灰色」を見せてくれた、あの優しい少年の横顔だった。
滴り落ちる黒い水が、床に点々と絶望の跡を残していく。
鏡を見る勇気なんてなかった。水に濡れて重くなった髪が、隠したかった桃色を晒している。それが今の私には、剥き出しになった心臓を見られているようでたまらなく惨めだった。
「ひどい……」
自嘲気味に呟いた声が、冷え切ったトイレの個室に虚しく反響した。
体に刻まれた薔薇の紋章が、ドクドクと毒を流し込むように疼き始めている。愛が欲しい。熱が欲しい。
誰かに触れてもらわないと、このまま心が腐り落ちてしまいそうだ。
颯人君。颯人君に会いたい。
その衝動だけに引きずられるように、私は重い足取りで教室へと向う。
廊下に出た瞬間、針のような視線が突き刺さった。
「えっ。何、あの髪」
「あれ、『サボり魔』じゃない? 毎日遅刻してるっていう」
「本当だ。しかも、男子に媚び売ってるっていう噂だよ」
──気持ち悪いね。
すれ違う生徒たちのささやき声が、嘲笑が、侮蔑が、嫌悪が。鋭い刃物となって私の鼓膜を切り裂く。
教室の扉を開けたとき、それは頂点に達した。
喧騒が嘘のように止まり、クラス中の視線が私の一点に集まる。
昨日まで私に愛想よく接していた人たちさえも、今は薄ら笑いを浮かべて遠巻きに見ている。
「……何かの病気じゃないの?」
一人の女子が放ったその言葉が決定打だった。
視界が急激に霧に包まれていく。立っていられない。叫びたいのに、喉は焼けたように熱くて声が出ない。
私は、この世界で一人、色のついた化け物として生きていくしかないんだ──。
その時だった。
「……心さん」
静寂を裂いて響いたのは、低く、でも確かな意志を持った声。
教室内がざわつき、視線が教室の隅へと動く。
そこに立っていたのは、颯人君だった。
彼はゆっくりと自分の頭に手をやり、偽物の黒髪──ウィッグを、なんの躊躇もなく剥ぎ取った。
光を吸い込むような「灰色」の髪が、教室の蛍光灯の下で淡く輝く。
「颯人……君……?」
私の震える声に、彼はまっすぐ歩み寄ってきた。周囲の「あいつもかよ」「変な髪」という冷笑なんて、彼には届いていないようだった。
颯人君は、私の濡れて震える手を、力強く、でも壊れ物を扱うような優しさで包み込んだ。
彼の熱が、私の指先から紋章の奥底へと流れ込む。それだけで、狂いそうだった呪いの疼きが、嘘のように静まった。
「ここにいちゃダメだ、心さん」
彼は僕の瞳をじっと見つめ、小さく、でもこの世界で一番力強い言葉を紡いだ。
「行こう。一緒に逃げよう。……二人で」
引かれた手のぬくもりに、止まっていた涙が溢れ出した。
嘲笑に満ちた教室を背に、私たちは走り出した。桃色と灰色の髪を、春の風になびかせて。
その背中を追う私の世界には、今、この人の色しかなかった。
教室を飛び出した先、人気のない旧校舎の裏。颯人君の手の温もりが、私の指先から全身へと広がっていく。
「もう大丈夫だよ、心さん。……寒くない?」
颯人君は自分の上着を脱いで、濡れた私の肩にそっと掛けた。
上着に残された持ち主の体温。羽毛のように私を包み込んで、寄り添う。暖かい。熱いくらいに。
その仕草には「打算」も「裏」もなくて──私とは大違い。
──ねぇ、颯人君。
「どうして……? どうして、助けてくれたの?」
私の声は震えていて、ほとんど息のように細く掠れていた。
颯人君の温もりが、まだ濡れた肩に残る上着を通じて染み込んでくるのに、心の奥底ではまだ信じられなかった。
こんな私を、こんな醜い私を、なぜ。
愛を、優しさを、啄み、喰らい、吸い尽くすだけの汚れた桃色の化け物を、なぜ──。
颯人君は少しだけ足を止めて、私の顔をまっすぐ見つめた。
灰色の髪が、春の柔らかな風に揺れて、光を散らしている。
その瞳には、いつもの穏やかさと、少しの照れくささが混じっていた。
「だって──心さんは『仲間』だから」
その言葉は、静かに、でも確かな重さを持って落ちてきた。
まるで、ずっと前から決まっていた事実を、ただ当たり前のように告げているみたいに。
仲間──。
違う。私は、あなたを「利用」しようとしていたんだよ。
この体に刻まれた薔薇の呪いを解くために。私を蝕む痛みを鎮めるための、都合のいい「熱源」として、あなたを選んだだけだったの。
それなのに、どうしてそんなに真っ直ぐな目で私を見るの。
どうして、そんなに綺麗に笑うの。
「……っ、やめて……」
胸の奥が、焼けるように熱い。
彼を独り占めしたいという狂おしいほどの「好き」という感情と、こんなに汚い私に彼を愛する資格なんてないという絶望。
その二つの感情が、私の魂を雑巾のように絞り上げ、限界を超えて捻じ切った。
「心さん……?」
颯人君の声が遠のく。
視界が急激に暗転し、私の足元からドロリとした影が噴き出した。
あぁ──
大好き──。
***
「心……さん……?」
「おい、颯人! ぼうっとしてんじゃねぇ、死にてぇのか!」
ポケットの中の鏡が、これまでになく激しく、火傷しそうなほどの熱を放った。
アマテラスの怒鳴り声で、僕はかろうじて意識の混濁を振り払う。
目の前で、心さんの姿が急速に書き換えられていた。
彼女の制服が、どす黒い闇の糸に解け、再構築されていく。
現れたのは、幾重にも重なる薄汚れたヴェールと、枯れ果てた薔薇の蔦が絡みつく、禍々しい花嫁の姿だった。
「アマテラス、これは……」
「『灰燼』だ。神を宿した器が、己の心に焼き尽くされた成れの果て、とでもいうべきか……お前ら神の生まれ変わりは、抱えきれねぇほどの絶望や自責に晒されると、その感情が火種となって神の力を暴走させちまうんだ」
心さんの背中からは、折れた翼のような歪な骨が突き出し、あの美しい桃色の髪は、燃え盛る燐光を放ちながら夜を焦がす色へと変わっていく。
「いいか、颯人。一刻も早く正気に戻さねぇと、あいつの魂そのものが燃え尽きて、人間を攻撃するだけの怪物に成り下がっちまう。そうなればもう、二度と元には戻らねぇぞ!」
「そんな……心さん!」
僕の呼びかけに、黒い花嫁は応えない。
彼女が虚空を掻くように手を振ると、僕たちの足元から世界がひび割れた。
校舎の影が歪み、色彩が剥がれ落ちる。一瞬の浮遊感のあとに僕が立っていたのは、見渡す限り瓦礫が積み重なり、灰色の雪のような塵が舞い散る、静寂のテリトリーだった。
「……颯人……君……」
幾重にも重なった、ノイズ混じりの声。
心さんの背後から茨のような巨大な蔦が、意志を持つ蛇のように僕へ向かって飛来した。
「くっ!」
僕は咄嗟に横へ跳び、石畳だったはずの残骸を蹴る。蔦が突き刺さった場所が、爆発したように弾け飛んだ。
「やるしか、ないんだね…!」
僕は鏡を強く握りしめた。
彼女を傷つけたくない。でも、止めなきゃいけない。
「待ってて、心さん。今、助けるから!」
禍々しくも美しい花嫁のヴェールが、黒い風にたなびく。
その奥にある、今にも泣き出しそうな彼女の心に届くために、地を這う蔦の嵐の中へと突っ込んだ。
「見えるか、颯人。あの女の心臓のあたりにある球体。あれが核みたいなもんだ。あれを目指せ」
「わかった!」
アマテラスの声が鏡越しに鋭く響く。
視線を集中させると、確かに心さんの胸の中心、薄汚れたヴェールの奥で、赤黒く脈打つ光の球体が浮かんでいた。
心さんはゆっくりと、両手を前方に掲げた。その指先から、命令が放たれる。
無言の、しかし絶対的な指令。
瞬間、地面が震え、幾本もの黒い蔦が一斉に地中から噴き上がった。
太く、節くれだった茨の鞭が、一直線に僕を狙う。
空気を切り裂く鋭い音。
鞭の先端が、血のように赤く光りながら、蛇のようにしなり、迫ってくる。
「っ……!」
間一髪、体を大きく捻って回避。
背後で蔦が瓦礫を粉砕し、爆ぜる衝撃波が背中を叩く。
灰色の塵が舞い上がり、視界を一瞬汚す。
息つく間もなく、次の波が来る。
今度は左右から、二本の太い茨が同時に挟み撃ちのように迫る。
僕は咄嗟に腕を振り上げ、右の蔦を素手で弾く。
棘が掌を抉り、肉を裂く感触。
熱い痛みが走り、血が飛び散る。
左の蔦は体を低く沈めてかわし、肩をかすめる風圧に髪が激しく揺れる。
ビリビリと、腕全体が痺れる。
衝撃が骨まで響き、まるで鉄槌で叩かれたような鈍い痛みが全身を揺るがす。
それでも止まらない。
蔦たちは容赦なく、次の攻撃を準備していた。
鋼のように硬く、蛇のようにしなやかな茨は、一度地面に叩きつけられると、深く深く瓦礫に突き刺さり、まるでそこから新たな根を張るかのように、微かに蠢きながら次の鞭を生み出そうとしていた。
その悍ましい生命力に、僕は一瞬、息を呑んだ。
これが、心さんの「絶望」が生み出したもの。
彼女の心臓の奥で燃え尽きようとしている炎が、こんなにも悍ましく、力強く、僕を拒絶しようとしている。
でも──
僕は拳を握り直し、血まみれの掌を拭うこともなく、再び前を見据えた。
「まだだ……!」
心さんの掲げた手が、再び微かに震える。
次の波が来る。
今度は三本……いや、四本か。
蔦の群れが、まるで生き物のようにうねりながら、僕を完全に包囲しようと蠢き始める。
雨のような一斉掃射。
外角を抉るように迫り来る茨の群れが、灰色の空を切り裂きながら、僕を飲み込もうと迫る。
くっ……流石に多い……!
防戦一方。
しかし、それも長くは続かない。
盾のように扱っていた左腕の肉が抉れ、神経を引き裂かれる感覚が走る。
鈍い痛みが遅れて脳に届き、視界が一瞬白く霞む。
意識が遠のきそうになる。
「チッ……俺に代われ」
アマテラスの声が、頭の奥で鋭く響いた。
瞬間、全身の力が抜け落ちる。
肉体の主導権が、アマテラスへと移る。
視界が一瞬暗転し、再び開いたとき──
僕の体は、もう僕のものではなかった。
灰色の髪が、風もないのに激しく逆立つ。
瞳が輝き、口元に冷たい笑みが浮かぶ。
アマテラスが、僕の体を借りて立っていた。
「ふん……小娘の玩具ごときに、いつまでも遊ばせておくと思うか?」
アマテラスは低く呟き、両手を軽く広げた。
次の瞬間──
目にも止まらぬ速さで、両腕が乱舞する。
まるで無数の剣を振るうような、流れるような動き。
迫り来る無数の茨の鞭を、一本残らず弾き返す。
掌底、肘打ち、手刀──
ただの肉体のはずなのに、触れるだけで茨が爆ぜ、粉々に砕け散る。
灰色の塵が舞い上がり、まるで嵐の中心に立っているかのようだった。
一瞬の静寂。
茨の群れが、怯んだように動きを止める。
アマテラスは、ゆっくりと右手を構えた。
指先から、黄金の光が細く、鋭く凝縮していく。
「神技──草薙」
手刀を、水平に振り抜く。
その軌道に沿って、目に見えない斬撃が飛ぶ。
空気が裂け、空間そのものが歪む。
一閃。
無数の茨が、根元から真っ二つに斬り払われ、断末魔のような音を上げて崩れ落ちた。
灰色の塵が、雪のように降り積もり、聖域の空を一時的に静かにする。
「……少しは楽しめたぜ」
アマテラスは小さく息を吐き、輝きを瞳から消した。
体から、ふっと力が抜ける。
主導権が、再び戻ってくる。
視界が揺れ、膝をつきそうになるのを堪える。
左腕の傷が、焼けるように痛む。
でも──
茨の群れは、少なくとも今は、消えていた。
心さんの姿が、ヴェールの奥で微かに震えているのが見えた。
彼女の瞳に、ほんの一瞬、怯えと……希望のような光が混じった気がした。
僕は、血まみれの掌を握り直し、ゆっくりと立ち上がった。
茨の残骸が灰となって舞う中、僕は迷わず駆け出した。
今が、唯一の隙だ。
足元を蹴り、瓦礫を踏み台に一気に距離を詰める。
「心さん……!」
彼女の体が、びくりと反応する。
ヴェールの隙間から、真紅の瞳が僕を捉える。
その瞳は、拒絶と渇望が渾然一体となった、狂おしい色を湛えていた。
僕は彼女の懐に飛び込んだ。
近接戦闘へともつれ込む。
心さんの手が、虚空を掴む。
黒い光が凝縮し、身の丈ほどの弓が形を成した。
しかし、弓弦を引く動作はせず、弓そのものを、棒術のように振り回す。
重く、鈍い風切り音。
弓の弓尻が僕の頭上を薙ぎ払い、僕は後ろに跳んでかわす。
続けて弓の胴を横薙ぎに振るわれ、腕で受け止める。
衝撃が骨まで響き、左腕の傷口が再び開いて血が噴き出す。
「ぐっ……!」
痛みを堪えながら、僕は彼女の腕を掴もうとする。
心さんは体を捻り、弓を盾のように構えて僕を押し返す。
互いの体温が、わずかな隙間を通じて混じり合う。
彼女の息遣いが、荒く、熱い。
──この距離なら、触れられるかもしれない。
手を伸ばした瞬間、心さんが急にバックステップを踏んだ。
一瞬で距離が開く。
彼女の足元から、蔦が再び蠢き始め、僕の足を絡め取ろうとする。
心さんは弓弦を強く引き絞り、虚空に向かって矢を放つ。
一本の矢が、灰色の空を突き抜け、高く、高く昇っていく。
頂点に達した瞬間──
矢が爆ぜるように分裂し、無数の赤黒い矢の雨となって降り注いだ。
空を覆い尽くすほどの矢の群れ。
一本一本が、棘のように鋭く、血のように赤く輝いている。
僕は咄嗟に腕を頭上に掲げ、身を縮めて耐える。
矢が肩、背中、太ももに次々と突き刺さる。
焼けるような痛みが、全身を駆け巡る。
膝が、がくりと折れた。
地面に片膝をつき、血が灰色の塵に染み込んでいく。
心さんは、ゆっくりと僕に背を向けた。
──どこに行くの?
あぁ、手を汚しに行くんだね。
ごめん。助けられなくて。
僕は静かに目を閉じた。




