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五話 拒絶

「バイバイ。また学校でね」


 背後から投げかけられた声。靴を履き終えた僕はかかとを整えながら向き直る。一段高いところに立つ心さんは、少しだけ顎を引いて僕を見下ろしながら、控えめに手を振っていた。

 

「うん、またね」


 見上げる視線の先で揺れるその手に、僕も手を振り返し、玄関の扉に手をかけた。


 外に出ると、パステルカラーで彩られた心さんの部屋とは打って変わった別世界が広がっていた。橙色に染まった空。夕暮れの柔らかな暗がりが目に優しい。

 絹のように軽い風が吹き、髪を揺らす。ウィッグが揺れる感覚は、他人のように淡く、よそよそしい。

 深呼吸をする。桃色の残り香が鼻の奥で風にゆらめくたび、心さんの笑顔が、声が、息遣いが、今もすぐ隣にいるかの如く鮮烈に蘇る。


「鼻の下伸ばしてんじゃねぇよ。気色悪りぃ」

「伸ばしてないから」


 嘲るように震える鏡を制しながら、歩みを進める。

 途端、空気が凍りついた。

 錆びた鉄のような。灰色に淀む死の匂いに溶けた、鼻を突く焦げ臭さ。

 運動会で先生が放つ、あの乾いた音の残滓──火薬。


「この感じ……」

「あぁ、間違いねぇ。神獣の気配だ。急ぐぞ」


 僕は駆け出した。

 目的地が近づくにつれ濃密さを増す異臭ががツンと鼻腔を蝕む。巡る世界が警告するように視界の端で歪み始めた。


「そこだ」


 アマテラスの静止に従い、たたらを踏みそうになりながら急ブレーキをかける。危うく通り過ぎるところだった。

 手の甲で額を伝う汗を拭い、顔を上げる。現場は薄暗い路地裏。古びたパイプから滴る水が、静寂の中で不規則に音を立てている。

 視界の端でカサカサと影が蠢いた。ネズミか、あるいはもっと不浄な何かか。想像するだけで背筋が冷えた。

 意を決して、その異界へと繋がっているような

空間に足を踏み入れた。


 鏡をしかと握りしめ、警戒の糸を張り巡らせながら歩みを進める。日を浴びることができずに冷えきったコンクリート。どれだけ気を遣って歩いても、静寂の中では自分の足音が目立つ。

 

「──後ろだ!」


 鏡が熱を帯びた。それと同時。

 鼓膜を弾く火薬の破裂音が路地裏に響き、堰を切ったようように漏れ出す煙の匂いが立ち込めた。

 刹那、ものすごい速度をもった不可視の衝撃が顔の真横を掠めた。僕の周囲を漂う空気を切り裂く熱風が、乱暴に暖簾を捲り上げる如く通り抜ける。ハラリと舞い落ちる数本の人工毛。遅れてやってきたのは、心臓を直接掴まれたかのような死の予感。

 

 ──撃たれた。


 戦場においては永遠とも言えるほどの時間を経て、ようやく気づくことができた。

 二発目を撃ち込まれる前にと、僕は咄嗟に身を翻した。

 そこに立っていたのは、痛々しいほどに傷だらけの男の子。抉れた腹部が、歯形のような形に破けた服から露出している。ダラダラと血が滴り、コンクリートに染みを作るその姿はボロ雑巾のようで、本当にあの人に撃たれたのか、また生きているのかさえを疑った。

 その疑いを否定するように、肩が上下しているのが見えた。

 だが、上下する肩と、右腕の異形がその生存を証明していた。少年の右腕には、人間にはあるはずのない銃口を備えた筒状の武具が、肉を割って備え付けられていた。


 その殺意は、本物だった。


「次は外さねぇ……。死にたくなけりゃ、金を出せ……。」


 口を開いた。時折吐く息の混じる、絞り出すような脅し。

 僕は問いかけるように鏡に目配せをする。


「どうやら、神獣はあいつが先に狩ったようだな」


 つまり、彼もまた僕と同じく「神の生まれ変わり」。視線を少し上にずらし、頭部を見た。そこには、赤茶色の髪が闇に沈んでいた。


「金……それより、大丈夫? すごい怪我だけど……」


 神獣でないなら、ここで僕たちが争う理由はない。


「君、神の生まれ変わりだよね。実は僕もなんだ」


 ウィッグを取り外し、灰色の髪を見せる。 


「チッ……面倒くせぇ。うるせぇな。さっさと有金置いて失せろ。でなきゃ、その薄汚ねぇ髪ごと──」


 少年の脅し文句を、腹の底に響く地響きのような轟音が遮った。

 直後、少年は力なく膝から崩れ落ちる。生命の灯火が消えるように右腕の金属が解け、人間のものへと戻っていた。


「だ、大丈夫!?」

 

 慌てて彼の元へと駆け寄り、しゃがみ込む。

 少年の喉が、ひゅっと乾いた音を立てて鳴った。荒い呼吸の合間、彼の腹部から聞こえてきたのは、地響きなどではない。あまりの空腹に耐えかねて、内臓が悲鳴を上げている切ない音だった。

 戦う意思はまだ瞳に宿っている。しかし、身体がそれに追いついていない。

 抉れた腹部を抱え込み、激痛に堪えるように歯を食いしばっている。額からは脂汗が流れ、その顔色は土気色を通り越して、死人のように青白い。

 神の力を振るいながら、その中身は、今にも餓死しそうなほどに摩耗した一人の子供だった。


「……見んな……っ」


 崩れ落ちた姿勢のまま、彼は僕を睨みつける。震える腕を再び向けようとするが、その指先は目に見えて力なく、空を彷徨った。

 

 僕は肩にかけていたバッグを漁り、一本の小さな魔法瓶を取り出した。


「これ、よかったら……」


 差し出されたそれを、一瞬、汚物を見るような目で睨みつけた。


「……あ、ごめん。嫌だよね……僕の飲みかけなんて。自販機探して──」


 しかし、すぐに身体が思考を追い越したように、僕の手から魔法瓶をひったくると、中身を喉へと流し込んだ。


 僕の申し訳なさそうな声など、彼の耳には届いていなかった。ゴクゴクと喉を鳴らし、浴びるように飲み干す。

 空になった魔法瓶を乱暴に引き剥がすと、彼は手の甲で口元を拭い、短く息を吐いた。


「僕、颯人。君の名前は?」

「……近衛海斗このえかいと


 体に叩きつけられるように返却された魔法瓶を受け取る。

 

「……助かった」


 海斗君はそれだけ言い残すと、膝の震えを無理やり押さえつけ、ふらつく足取りで闇の奥へと立ち去ろうとする。その背中はあまりに危うく、今にも崩れ落ちそうだった。


「ま、待って!」


 呼び止める声に、彼は足を止めない。僕はその背中に向かって、必死に言葉を投げた。


「一人で神獣と戦っていくのは危険だよ。さっきだって死にかけてたし……。だから、協力しよう。二人なら、もっとうまく──」


 言いかけた言葉は、冷酷な嘲笑によって断ち切られた。

 海斗君がゆっくりと振り返る。その瞳には、先ほどよりも鋭い、氷のような拒絶の色が宿っていた。


「協力、だと? 勘違いするな。名乗ったのはあくまで水の礼だ。群れるなんてことは弱者がすること。俺は、俺一人の力ですべてを喰らい尽くす。傷の舐め合いならよそでやれ」


 突き放すような言葉。彼は二度と振り返ることなく、引きずるような足音とともに夜の帳へと消えていった。


───

 これ、気に入ったのかな。


 私が浴室から戻った時、颯人君は部屋の隅で、この猫のクッションを宝物のように抱え、寄り添いあってコンパクトに丸まっていた。

 垂れ下がった耳と、穏やかに弧を描く目尻。その頼りなさげで柔和な造形は、見れば見るほど彼自身の面影を映し出しているようで、胸の奥が疼くほどに愛おしくなる。

 たまらず、彼が去ったあとのその塊を腕の中に引き寄せた。

 柔らかな綿の奥に、彼の体温の「名残」が微かに沈殿している。抱きしめるたび、まだそこに彼が息づいているような錯覚に陥り、私はそっと目を閉じた。


 いつか、本物もこんな風に──なんて。


 抱きしめたクッションを、壊れ物を扱うようにそっと傍らへ横たえた。そこにはまだ、彼を形作っていた熱の粒が微かに明滅している。

 私は吸い寄せられるように、照明の機械的な明るさに包まれた部屋の隅に佇む姿見の前へと立った。

 鏡の中に映る自分は、恋に浮かれた少女の顔をしているだろうか。それとも、呪いに怯える生贄の形をしているだろうか。

 震える指先でトップスの裾をゆっくりと捲り上げる。

 滑らかな肌の白さに、刺青のような薔薇の紋章が浮かんでいた。


「……あぁ……」


 漏れ出たのは、祈りに似た吐息だった。

 先ほどまで毒々しいほどに色づき、私の命を侵食しようとしていた紋章が、今は嘘のように淡く、輪郭をぼかしている。

 彼に直接触れたわけでも、言葉を交わしたわけでもない。

 ただ、彼が抱いていた熱をなぞっただけで、私の体を蝕む呪いの疼きは静まり、甘やかな安堵へと塗り替えられていく。

 鏡の中の薔薇は、まるで彼の優しさに毒を抜かれたかのように、白磁の肌に溶け込もうとしていた。

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