四話 下等上等
俺たち人間は極限の恐怖を感じることを「背筋が凍る」という。
だが、俺は違う。焼けるように熱くなるのだ。
背面のことゆえに正確にはわからないが、まるで煮えたぎる烙印で円を描かれているような感覚。厄介な体質に生まれたものだ。
俺にはわかる。この熱は、死に瀕した者の「生きたい」という叫びだ。
世界のどこかで、人は絶え間なく死んでいる。だが、そのすべてに俺の背が反応するわけではない。
──引き金は、この世界を覆う「闇」。
昨日まで普通に生きていた人間が、最初から存在しなかったかのように消え去る、原因不明の行方不明事件。それはまるで、指先で弾かれた蝋燭の火のように、あまりにも呆気ない幕切れ。
その犯人である異形の怪物が牙を剥くとき。
その光景を近くで目撃すればするほど、俺の背筋は、剥き出しの炭火を押し当てられたように熱く、激しく燃え上がる。
「またかよ……」
かなり、近い。ゴミ箱に空になったゼリー飲料を投げ捨てた。格子状のカゴの中で金属の転げ回る音が無機質に響き渡る。
立ち上がり、駆ける。
背中の熱は、もはや皮膚を焼き切らんばかりの勢いで膨れ上がっている。
この熱量は、数メートル、あるいは壁一枚隔てたすぐ先で「生」が摘み取られようとしている証だ。
角を曲がるたびに空気の湿度が変わる。
街灯の届かない路地裏へ足を踏み入れると、アスファルトから這い出すような不快な冷気が肌を刺した。だが、俺の背筋はそれとは対照的に、真っ赤に熱した鉄棒を押し当てられたようにジリジリと震えている。
──そこだ。
突き当たり、湿ったコンクリートの匂いが充満する袋小路。
視界の端で、陽炎のように揺らめく「黒い影」が、力なく横たわる人影に覆い被さっているのが見えた。
逃げ場のない路地の奥。怪物の輪郭が、闇に溶け込みながらも、獲物を喰らう獣のように醜く歪む。
心臓の鼓動が早まる。それは恐怖ではなく、背中の烙印と共鳴する、抗い難い衝動だった。
怪物はまだ俺に気づいていない──
先手必勝。
右手を前に突き出し、意識を一点に集中させる。
背中の烙印から溢れ出したあの「熱」が、血管を逆流するようにして肩、肘、そして手首へと急速に流れ込んだ。骨が軋み、筋肉が生き物のように蠢きながら再構築されていく。
皮膚を突き破って現れたのは、鈍い銀光を放つ硬質の金属だ。
指先は一本にまとまり、肉を割り、骨を芯とした漆黒の銃身へと変貌を遂げる。掌の肉は強固な機関部へと巻き取られ、指の関節が複雑なボルトやハンマーの形に固定されていった。
もはやそれは、人の腕ではない。
俺の意志を弾丸に変え、死を撒き散らすための「鋼の凶器」だ。
銃身の隙間から、逃げ場を失った熱気が白煙となって立ち上る。
標的は、まだ気づいていない。
俺は、熱に浮かされたまま、心の中で引き金を引き絞った。
──刹那、銃声は潤いを渇望する。
閃光が爆ぜ、解き放たれた弾丸は空気を切り裂いて推進する。
一瞬。銃声を察知し、こちらを見た。眼前に迫る弾丸をギョロリとしたその眼球で睨む。
脳天から噴き出す赤い飛沫。
怪物は後方へと体をのけぞる。
一撃は確実に捉えた。だが、手応えは死には程遠い。
のけぞった怪物は、裂けた脳天から赤黒い体液を撒き散らしながら、苦悶に満ちた咆哮を上げた。その直後、怪物の背後の空間が、まるで薄い硝子を叩き割ったかのように放射状にひび割れる。
──逃がすか。
闇の裂け目。その向こう側から漂うのは、この世のものとは思えない、凍てつくような死の気配。怪物のテリトリー、奴らの「聖域」だ。
怪物は傷口を押さえることもせず、重力に逆らうような不自然な動きでその亀裂へと吸い込まれていく。
「……チッ」
背中の熱は引くどころか、獲物を追い詰めろと叫ぶように激しさを増している。
俺は変貌した右腕を強く握り直し、閉ざされようとする空間の歪みへと迷わず飛び込んだ。
光と闇が混濁する境界を突き抜ける。
足を踏み入れた瞬間、鼓膜を圧迫するような静寂が俺を包んだ。
そこは、灰色の空が低く垂れ込める、滅びた都市の成れの果てだった。
そびえ立つビル群は中ほどから無残に折れ、剥き出しになった鉄筋が、まるで天を呪う痩せこけた指のように突き出している。街灯はへし折れ、アスファルトは巨大な獣に噛み砕かれたかのように粉々に砕け散っていた。
生命の気配は微塵もない。
ただ、風もないのに絶えず「塵」のようなものが雪のように降り積もり、すべてを白濁した虚無の色に染め上げている。
「……ここが、お前の巣か」
背中の熱は、この死に絶えた景色の中で、唯一の生存証明であるかのように激しく脈打っている。
視線を落とせば、瓦礫の山に滴り落ちる黒ずんだ赤の点。逃げた怪物の返り血だ。
瓦礫の山を越え、崩落した祭壇の前で、俺はその異形を視界に捉えた。
それは、これまでに出会ったどの化け物よりも歪で、王者の如き威圧感を放っていた。
胴体は、燃え盛るような炎色の毛並みに覆われた巨大な獅子。しかし、その肩から生えているのは、夜を切り取ったかのような蝙蝠の翼だ。さらに異様なのは、その後方に控える尾だった。節くれだった甲殻に覆われたそれは、獲物を貫くためだけに存在する巨大な蠍の毒針。
だが、何よりも俺の背筋を逆撫でしたのは、その頭部だ。
獣の体に不釣り合いな、あまりにも整いすぎた「人間の男」の顔がそこにあった。
弾丸が抉ったはずの額からは赤黒い血が滴り、端正な顔立ちを無惨に汚している。男の顔は、苦痛よりもむしろ「不快」を露わに歪ませ、裂けた口の端から、三重に並んだサメのような鋭い牙を覗かせた。
「聖なる餐の最中を狙うとは、いささか卑怯ではないか、人間」
人と同じ言葉を、喉の奥で複数の獣が唸るような三重の残響を伴って吐き出す。
怪物は、その強靭な爪で、今まさに喰らおうとしていた「何か」を無造作に放り捨てた。
「綺麗な戦い方を望むなら、彫像にでも挑むんだな」
俺は開戦の合図をするように再び引き金を引き絞る。
「ふっ……面白いッ!」
放たれた弾丸が、静寂の支配する都市に鋭い破裂音を刻む。
しかし、奴は巨体に似合わぬしなやかさで瓦礫を蹴り、重力をあざ笑うかのように跳躍した。空中で蝙蝠の翼がひと打ちされるたび、軌道は不規則に変化し、追従する銃口を翻弄する。
「面倒くせぇ……!」
俺は右腕を固定し、連射を浴びせる。火花が散り、熱せられた銃身から吐き出される鉛の礫が、奴の足元のコンクリートを爆ぜさせる。だが、奴は止まらない。弾丸が描く死の線を紙一重で見切り、着実に、そして致命的な速度で距離を詰めてくる。
ついに、強靭な四肢が俺の目の前のアスファルトを砕いた。
風圧と共に、三列の牙が剥き出しになった。
「食らい尽くしてくれるわッ!」
振り下ろされる巨大な爪。回避は間に合わない。
俺は瞬時に、右腕に溜まった熱を解放した。
「──抜刀」
火花が辺りを照らす。
肉と金属が激しく混ざり合い、再構築される一瞬。重厚な銃身は削ぎ落とされ、その芯から、鋭利な一筋の銀光が突き出した。
流麗な反りを描く、鋼の刃。
右腕と一体化した日本刀が、爪を真っ向から受け止めていた。
この間合いなら、刀の方が専門。
背中の熱が刃に乗り、白く輝く。
俺は力の均衡を崩すように、怪物の爪を撥ね上げた。
わずかに空いた怪物の懐。
勝機はここだと、俺は一気に踏み込み、右腕の白刃をその喉元へ突き出そうとした。
だが、敵は獅子の爪と牙だけではない。
「……ッ!」
背後の空間が不気味にうねったかと思うと、音もなく死角から「それ」が飛来した。
獅子の背から伸びる、しなやかで強靭な蠍の尾。
回避も防御も間に合わない。節くれ立った甲殻の先端にある巨大な針が、俺の背中の烙印、その中心を深く、容赦なく貫いた。
「が、はっ……!」
針が抜けると同時に、血管の奥底へとドロリとした熱い異物が流し込まれる。
それは背中の「熱」とは似て非なる、意識を白濁させるほどの猛毒だった。
内臓が内側から焼けつくような激痛に襲われ、視界が真っ赤に染まる。
喉の奥までせり上がってきた鉄の味が、口端から鮮血となって溢れ出した。
「カ、ハッ……ごほっ……」
力強く握っていたはずの右腕の刃が、砂のように形を失っていく。
毒に冒された神経が悲鳴を上げ、踏ん張ろうとした膝は折れ、俺はなす術もなく冷たいアスファルトの上へと崩れ落ちた。
膝から崩れ落ちた俺の体に巨大な影が覆い被さる。
三列に並んだのこぎり状の牙が剥き出しになり、容赦なく俺の腹部に食らいついた。肉が裂け、骨が砕ける激痛。熱い血潮が口の中に溢れ、獣の顎が獲物を噛み砕く鈍い音が、耳の奥で不気味に響き渡る。
視界が揺れる。
──勝て。何をしてでも勝て。
薄れゆく意識の中、脳裏に声が木霊した。
それは、幼い頃から聞き飽きるほど聞かされた、両親の声だった。
勝つことこそが全て。そのために、俺はあらゆる「卑怯な手」を教え込まれてきた。
ライバルには、弁当に下剤を盛れ。
試験で一位を取るためには、他人の教科書を隠せ。
勝つために、手段を選ぶな──
卑怯者と罵られても、誰も味方してくれなくても、勝てばいいと言われた。
勝てば、愛される。
だから俺は、どんな手を使ってでも勝ってきた。
……そうだ。
俺は、まだ負けてない。
怪物の顎に食い千切られ、ぶら下がる腹部の肉塊に、意識の全てを集中させる。
血飛沫が舞う中、千切れた肉が急速に膨張し、瞬く間に球状の金属塊へと変形していく。
「がぁぁっ!」
口の中に異物が現れ、驚愕と苦悶の叫びを上げる。
変形したのは、手榴弾だった。
安全ピンが引き抜かれる音が、静寂の中で異様に大きく響く。
怪物が異変に気づいたときには、もう遅い。
「──離れろ、クソ野郎」
炸裂。
至近距離での爆発。獅子の顔面が肉片となって吹き飛び、人間の端正な顔が半分以上抉れた。蝙蝠の翼が焼き焦げ、蠍の尾が痙攣しながら俺の体から引き抜かれる。
衝撃で怪物が後退する。
その隙を、俺は見逃さない。
崩れ落ちる体を無理やり起こし、右腕を再び変形させる。今度は銃だ。熱を極限まで圧縮した、黒光りする銃身。毒でぼやける視界の中で、照準は揺るがない。
引き金を引く。
一発目。抉れた顔面に直撃し、残った人間の目玉を潰す。
二発目。獅子の胸を貫き、炎色の毛並みを赤黒く染める。
三発目。四発目。五発目。
怪物が咆哮を上げながら突進してくる。だが、俺は動かない。ただ、引き金を引き続ける。
「死ねよ……死ねよ……死ねよ……!」
何発撃ったか、もうわからない。
怪物が膝をつく。翼が折れ、尾が地面を這う。最後に、人間の顔が俺を見上げた。残った口が、何かを言おうとする。
だが、その前に最後の弾丸が脳天を貫いた。
静寂が戻る。
俺は銃を下ろし、崩れ落ちた。腹の傷口から血が溢れ、毒がまだ体を蝕んでいる。背中の熱だけが、かすかに脈打っていた。
膝をついたまま、俺は天を仰いだ。
灰色の空から、音もなく塵が降り注ぐ。
あんなに俺を縛り付けていた両親の冷徹な眼差しも、歪んだ教えも、今はもう、遠く霞んで消えていく。
勝った。
誰に強いられたわけでもない。自分の命を繋ぐために、俺は俺自身の「醜悪さ」を武器にして、この怪物を屠ったのだ。
急激に、身体から熱が引いていく。
代わりにやってきたのは、底なしの深い泥のような疲労感だった。
指一本動かす力も残っていない。
視界が端からゆっくりと、闇に蝕まれていく。
遠くで、崩れた瓦礫が転がる乾いた音を聞いた気がした。
重たすぎる瞼を閉じれば、心地よいまでの静寂が思考を塗り潰していく。
……少しだけ、眠りたい。
そう願った瞬間、俺の意識はぷつりと深い奈落の底へと吸い込まれていった。




