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三話 出会い

 人生二度目のスタートは、最悪の寝坊から始まった。


「アマテラス! なんで起こしてくれなかったの!」


「俺に目覚まし時計の代わりをさせるな。太陽が昇れば起きるのが道理だろうが」


 ポケットの中の鏡から返ってくる尊大な声に毒づきながら、僕はネクタイを締め上げる。

 ダイニングへ向かうと、テーブルの上には叔母さんが用意してくれた朝食にラップがしてある。

 ゆっくり味わいたいのは山々だが、今の僕には一分一秒が惜しい。


「叔母さん、ごめん。夜、ちゃんと食べるから」


 まだ熱いトーストの端を齧り、カバンを掴む。

 灰色の髪を隠すためのウィッグが、少しだけ頭を締め付けた。


 春の朝は、僕が思っていたよりもずっと「桃色」に満ちていた。

 窓の外を舞う桜の花びら。かつて灰色にしか見えなかった景色が、今は目に痛いほどの色彩を持って僕に迫ってくる。

 だが、その景色を堪能している余裕は、今の僕には微塵もない。

 

 足裏にピッタリと張り付いた新品の靴底を鳴らし、全力で坂道を駆け上がる。心臓がうるさいほど跳ね、肺が春の空気をひりひりと吸い込んだ。

 ようやく辿り着いた校門。だが、そこには期待していた「新生活の喧騒」なんてものはひとかけらも残っていない。静まり返った校舎に、自分の荒い呼吸だけが不気味に響く。


 昇降口を抜け、教室へと続く廊下を走る。各教室の扉は固く閉ざされ、中からは担任らしき教師の声と、時折混ざる生徒たちの笑い声が漏れて聞こえてくる。

 自分のクラス──一年一組の前に着いたときには、入学式後のホームルーム真っ只中であった。

 

 どうしよう。

 扉に手をかけたまま、僕は立ち尽くす。

 今、この扉を開ければ、クラス全員の視線が「遅刻してきた新入生」である僕に集まる。

 ウィッグの奥で嫌な汗がじわりと滲む。


「おい、何を突っ立っている。さっさと開けて堂々と入ればいいだろう。俺の生まれ変わりがこれしきのことで怯えてどうする」

「うるさいな……。わかってるけど、タイミングってものがあるんだよ……」


 ポケットの鏡に向かって小声で毒づいた、その時だった。


「──おい。そこで何をしている」


 背後から飛んできた、低くて容赦のない声。

 心臓が止まるかと思った。ゆっくりと振り返ると、そこには腕を組み、眼鏡の奥で鋭い眼光を光らせる男性教師が立っていた。胸元には「生徒指導 鬼瓦」という、名前からして恐ろしい名札が揺れている。


「えっと、その、今日から入学で……」

「入学式はとっくに終わっている。初日から遅刻か。いい度胸だな、御神颯人」


 なぜ名前を知っているのかと驚く間もなく、鬼瓦先生は手帳に何かを書き込んだ。


「言い訳は後で聞く。後で生徒指導室に来なさい」


 生徒指導室。その不穏な響きに、僕は文字通り絶望した。

 人生二度目のスタート。

 前途多難なんてレベルじゃない。僕は力なく肩を落とし、地獄への招待状を受け取った気分で教室の扉を引いた。


 

「はぁ、最悪……」


 僕が教室に着いた頃、ホームルームは既に大詰めだった。席に滞在した時間は十分にも満たず、僕ができたことと言えば、みんなからの「あいつ、何しに来たんだ……?」という冷ややかな視線を全身で浴びることくらい。

 あの瞬間、僕はこの世の何よりも惨めだった。

 鉛のように重たい足取りで廊下を歩く。

 一方、すれ違う連中はと言えば、初対面のはずなのにもう「親友歴十年です」みたいな顔をして盛り上がっていた。


「一緒に帰ろー!」

「てか、さっきの先生ウケるよね!」


 あちこちで爆発する、リア充予備軍たちの笑い声。

 彼らが纏う「青春の春、真っ盛りです!」というキラキラしたオーラが、寝坊で出遅れた僕には毒に近い。眩しすぎて、直視し続けたら網膜が焼けてしまいそうだ。


「……世界が、世界が眩しすぎる……」


 色のない世界で一人、異次元から迷い込んだかのような疎外感。

 逃げるように視線を床に落とし、僕は「透明人間になりたい」と切実に願いながら、地獄の生徒指導室へと急いだ。


 指導室の重厚な扉が視界に入る。その前に置かれた古びた長椅子に、誰かが座っていた。

 

「……あ」


 思わず声が漏れた。

 そこにいたのは、女子生徒だった。

 僕と同じ真新しい制服。でも、その着こなしはどこか自由で、少しだけ校則の枠からはみ出しているような軽やかさがある。彼女は膝の上で手遊びをしていたが、僕の気配に気づくと、顔を上げてぱっと表情を輝かせた。


「あ! もしかして、君も遅刻? 」


 あまりにも屈託のない声に、毒気を抜かれる。

 惨めな気持ちで縮こまっていた僕の心が、その響きだけで少しだけ軽くなった気がした。


「……うん。君も、なの?」

「そうそう。私は神谷心。よろしくね! 私もホームルームの最後に滑り込もうとひたら、鬼瓦先生に『外で待ってろ』って言われちゃって。仲間がいてよかったー!」


 心さんはケラケラと笑いながら、椅子の隣をポンポンと叩いた。

 誘われるままに座ると、彼女から微かに甘い、花の蕾のような匂いがした。


「鬼瓦先生、怖いよね。でも自業自得かな。私、朝はどうしても時間がかかっちゃって」


 彼女はそう言って、丁寧に整えられた黒髪にそっと触れた。

 その指先がどこか名残惜しそうに髪をなぞるのを見て、僕は反射的に自分の頭──ウィッグの感触を確かめてしまう。


「君も、何か理由があったの?」


 覗き込むような彼女の瞳は、真っ直ぐで、綺麗だった。

 僕の「灰色」を見透かされているような気がして、僕は慌てて視線を落とした。


「……ただの寝坊だよ。初日から、最低だよね」

「いいじゃん、人間味があって! 完璧なスタートより、ちょっと失敗してるくらいの方が、後から振り返ったとき面白いよ」


 そう言って僕にいたずらっぽくウインクしてみせた。

 

「なかなか面白い小娘だな。お前もこのくらい図太く生きればどうだ?」


 ポケットを引っ叩き、震えを収めた。


「──コホン」


 不意に、頭上から巨大な岩が落ちてきたような威圧感のある咳払いが響いた。

 見上げると、そこには腕を組み、仁王立ちで僕らを見下ろす鬼瓦先生の姿。


「ひっ……!」


 僕と心さんは、磁石の同じ極が反発するように、揃って長椅子の端へと飛び退いた。


「御神に、神谷か。二人とも、揃いも揃って初日から……」


 先生の眼鏡の奥で、鋭い眼光がキラリと光る。

 終わった。

 これから一時間は、この廊下で「中学校生活の心得」について、血の気が引くような説教を浴びるんだ。僕は固く目をつぶり、嵐が過ぎ去るのを待つ体勢に入った。


 しかし──


「……まあ、いい。新しい環境で緊張して、寝付けなかったんだろう」

「えっ?」


 予想外に低い、穏やかな声。

 恐る恐る目を開けると、鬼瓦先生は手帳をポケットに仕舞い、どこか遠くを見るような、少しだけ優しい目をしていた。


「今日は特別な日だ。一度だけは見逃してやる。だが、明日は一分でも遅れたら──わかってるな?」

「は、はいっ!」

「ありがとうございますっ!」

「よし、今日はもう帰れ」


 先生はそれだけ言って、長いコートを翻して去っていった。

 カツカツと響く足音が遠ざかるまで、僕らは息を止めて見送った。そして、完全に気配が消えた瞬間──。


「……死ぬかと思ったぁ……」


 心さんが、魂が口から出そうな勢いで深いため息をつき、膝から崩れ落ちた。


「……僕も。案外、優しい先生なのかな」

「かもね。でも、明日は絶対起きようね」


 さっきまでの緊張が嘘のように解けて、二人で顔を見合わせ、自然と小さな笑いがこぼれた。

 廊下の窓から差し込む春の光が、少しだけ僕らの背中を温めてくれている気がした。


「あ、そうだ。颯人君、この後って暇だったりする?」


 立ち上がり、スカートの埃をぱっぱと払った心さんが、上目遣いに僕を覗き込んできた。


「えっ……。うん。特に予定はないけど」

「じゃあさ、これから私の家に来ない? 見せたいものがあるんだ!」


 さらりと言われた言葉の内容を理解するのに、数秒かかった。

 ……家。今、家って言った……?


「いや、流石にそれは……。まだ会ったばかりだし、男が女の子の家に行くのは……」


 急激に顔が熱くなるのを感じて、僕はあどけないふりをして視線を泳がせた。いくらなんでも展開が早すぎる。


「おい、何を顔を赤くして狼狽えている。誘われたのなら行けばいいだろ。これも何かの縁だ──」


 ポケットの中で鏡がニヤニヤと笑っているような気がして、思わず引っ叩いた。

 しかし、心さんは僕の躊躇いなんてどこ吹く風で、さらに一歩距離を詰めてくる。


「大丈夫だよ、変な意味じゃないから! 颯人君になら……ううん、颯人君に『だけ』は見せておきたいものがあるの。絶対、びっくりすると思うよ?」


 その時の彼女の瞳は、さっきまでの明るさとは少し違う、切実で真剣な色を湛えていた。


「……わかった。そこまで言うなら」

「やったぁ! じゃあ行こう。私の家、ここからすぐ近くだから」


 彼女は僕の手首を軽く掴むと、スキップでもしそうな足取りで歩き出した。

 見せたいものって、一体何なんだろう。

 不安と好奇心が混ざり合った複雑な気持ちを抱えながら、僕は春の陽光の中、風のような彼女の背中を追いかけた。



「お邪魔します……」


 招き入れられた心の部屋は、想像以上に「女の子」という空気に満ちていた。

 淡いパステルカラーで統一されたインテリア、棚に並ぶ可愛らしいぬいぐるみ、そして部屋全体に漂う、あの校舎で嗅いだものと同じ花の蕾のような甘い匂い。

 男子禁制の聖域に足を踏み入れてしまったような、言いようのない背徳感と緊張が背中を走る。

 僕は借りてきた猫のように、部屋の隅で所在なく立ち尽くした。


「あ、颯人君、適当に座ってて! ちょっとだけ、シャワー浴びてくるから」

「えっ、シャワー!?」

「うん、朝からバタバタしてて気持ち悪かったんだよね。すぐ戻るから、ゆっくりしてて!」


 僕の返事を待たず、心さんは着替えを持って脱衣所へと消えていった。

 一人残された僕は、行き場を失った視線を必死に天井や床に泳がせる。

 ……シャワーって。初対面の男子を部屋に残して、無防備すぎないだろうか。

 

「心臓の音がうるさいぞ。少しは落ち着いたらどうだ」

「……黙っててよ。こっちはそれどころじゃないんだから」


 ポケットの中の鏡を小声で制しながら、僕はなんとかクッションの上に腰を下ろした。

 数分後。水音が止まり、扉が開く音がした。


「ふぅー、さっぱりしたぁ」


 戻ってきた心さんを見て、僕は思わず息を呑んだ。

 湯上がりで少し上気した肌。ゆったりとしたショートパンツに、薄手のTシャツという、あまりにもリラックスしすぎた姿。濡れた鎖骨や、細い手足が露わになっていて、僕は慌てて視線を逸らした。


「流石にその格好は……」

「え? あはは、ごめんごめん! でも、それより見てほしいのはこっち」


 心さんは少し照れくさそうに笑いながら、頭に巻いていたタオルを解いた。

 その瞬間、僕の思考が真っ白に染まった。

 タオルの下から現れたのは、さっきまでの黒髪ではない。

 夕焼けを溶かし込んだような、あるいは春の訪れを告げる桜の花びらを凝縮したような──鮮やかで、透き通るような「桃色」の髪だった。


「これ……地毛なんだ。染めても染めても、水に濡れるとすぐこの色に戻っちゃうの。変、だよね」


 心さんは湿った桃色の毛先を指で弄りながら、どこか遠くを見るような瞳で僕を見つめた。


「颯人君になら……見せてもいいって思ったの」


 部屋を支配していた甘い匂いに、湿った熱気が混ざり合う。

 目の前に広がるその色は、僕が知るどんな景色よりも、残酷なまでに美しかった。


「ねぇ、颯人君のも……見たいな」


 心さんは濡れた桃色の髪を揺らしながら、僕のすぐ目の前まで顔を近づけてきた。

 その瞳には、隠し事を見透かしたような悪戯っぽさと、同じ境遇の者を探し求めるような切実さが混ざり合っている。


「……わ、わかった」


 僕は逃げ場を失い、ゆっくりと右手を頭にやった。

 ずっと僕を守り、同時に僕を縛り付けてきた偽物の黒髪。その縁に指をかけ、静かに持ち上げる。

 

 カサリ、と軽い音を立ててウィッグが外れた瞬間、行き場を失っていた「灰色」が、春の午後の光の中に溢れ出した。

 焼け跡の灰のような、あるいは夜明け前の霞のような、くすんだ色。


「……これ、僕の本当の髪」


 僕は顔を伏せた。身を硬くする僕の視界に、桃色の影が重なった。


「綺麗……」


 予想外の言葉に顔を上げると、心さんがうっとりとした表情で僕の髪を見つめていた。

 彼女の細い指が、おずおずと僕の灰色の毛先に触れる。


「颯人君も、この髪で……たくさん、苦労してきたんじゃない?」


 髪を撫でる指先は、驚くほど柔らかくて温かかった。

 その温もりが、僕がこれまで抱えてきた孤独や、世界からの拒絶を、優しく溶かしていくような気がした。

 心さんは僕の耳元に顔を寄せると、吐息が触れるほどの距離で、甘く、でも力強く囁いた。


「私たち──『仲間』だね」


 その言葉が、僕の胸の奥に一番欲しかった形ではまった。

 一人じゃない。

 桃色と灰色。

 異質な二つの色が、夕暮れ前の部屋で静かに溶け合い、僕の世界に初めて「自分以外の色」が刻まれた。


***


 ──またかよ。


 近衛海斗このえ かいとは小さく舌打ちをした。

 混じり気のない乾いた音。行き場のない怒りを孕んだ音が、世界へと吐き出す精一杯の悪態だった。


 ふわりと腰を上げる。蜜のように甘い色恋が繰り広げられる舞台の裏側で。

 たった一人、静かに立ち上がった。

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