二話 和解
「遅かったじゃない、颯人」
叔母さんの声は、いつもの酒臭い掠れ声とは違った。
底冷えするほど澄んでいて、まるで別の誰かが喉を借りているようだった。
「叔母……さん……?」
僕は二、三歩、後ずさった。
足裏に伝わる床の冷たさが、急に鋭い針のように感じられる。
普通じゃない。
全身の毛が逆立つ。皮膚の下を無数の虫が這い回るような、吐き気を伴う悍ましい気配が、本能を直接突き刺してくる。
さっきの魔狼など比じゃない。体が痺れ、膝が笑い始めていた。
ポケットから取り出した鏡が熱を帯びて赤く脈打つ。
「まずい。あの女、『契約』しちまった」
アマテラスの声が、鏡を通じて焦燥を込めて響いた。
いつもより低く、掠れて、まるで歯を食いしばっているようだ。
「契約って……何──」
「ねぇ、颯人」
叔母さんが崩れかけた体をよろめかせながら立ち上がる。
項垂れた髪の隙間から、彼女は小さく──本当に小さく、幸せそうに笑っていた。
「美琴に会える……やっと、美琴に会えるの」
床を這っていた黒い霧が、叔母さんの足元に吸い寄せられるように集まる。
焦げ臭い匂いが一気に濃くなり、鼻腔の奥を焼いた。
世界が、再び灰色に塗り替えられていく。
「だから──颯人」
叔母さんの瞳が、虚ろなまま僕を捉える。
そこに、憎悪も悲しみも、すでに何も残っていない。
「死んでよ」
「来るぞ、颯人!」
アマテラスの叫びが耳元で炸裂した瞬間──
叔母さんの手が、僕の喉を鷲掴みにした。
「ガッ……あ……っ!」
息が詰まる。
気管が潰れ、視界の端が急速に暗くなる。
床から足が離れ、体が宙に持ち上げられた。
水中深くに沈められるような、冷たく重い圧迫感。僕は叔母さんの手首を握りしめて踠くも、足はプラプラと宙を彷徨うだけの、虚しい抵抗。
叔母さんの顔が、すぐ目の前に迫る。
笑っている。
美琴に会える喜びと、僕を殺せる安堵が、奇妙に混ざり合った笑みで。
「颯人──」
アマテラスの声が、そこで途絶えた。
鏡が手元から滑り落ち、カラン、という乾いた音を立てて床に転がる。
熱が急速に失われ、温もりが消えていく──まるで、神の加護が剥ぎ取られたように。
「あなたのせいよ。姉さんが死んだのも、あの人が他の女のところへ行ったのも、美琴がいなくなったのも──全部、あなたのせい!」
叔母さんの声が、喉から絞り出すように響く。
笑みが歪み、瞳の奥で黒い霧が渦巻いている。彼女の手はまだ僕の首を締め上げ、指先が皮膚に食い込み、息を奪う。
視界が揺らぎ、肺が焼けるように痛む。
「お前みたいな疫病神が、この家にいるからだわ。灰色の髪、灰色の呪い……お前が生まれた瞬間から、すべてが崩れた!」
彼女の言葉が、矢のように胸を刺す。
叔母さんの目から、涙が一筋零れ落ちる──いや、それは涙じゃない。黒い雫、闇の残滓が頰を伝い、床に染み込んでいく。
彼女の体が震え、声が低く呪文のように変わる。
「死ねばいいのに……死んで、美琴を返してよ。お前が消えれば、すべてが元に戻るはず……灰色の怪物が、ようやく消えるはず……」
指の力が強まる。
僕の視界が灰色に滲み、過去の記憶がフラッシュバックする──両親の笑顔、叔母さんの優しかった頃、甘えん坊な美琴の声。
すべてが、叔母さんの呪詛に塗り潰されていく。
全身の力が抜ける。抵抗する力が、急速に失われていく──。
僕、死ぬんだ。そりゃあそうか。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
肺が悲鳴を上げているのに、痛みさえ遠くなる。
視界の端が、灰色の膜で覆われていく。
叔母さんの顔が、ぼやけて──それでも、笑っているのがわかる。
幸せそうに。美琴に会えると信じて。
……いいよ、もう。
抵抗する手を、そっと離した。
叔母さんの手首を握っていた指が、力なく開く。
足が、宙で静かに揺れるだけになる。
僕のせいだ。
全部、僕のせいだ。
生まれたときから、灰色の髪をして。
みんなを不幸にして。
叔母さんの人生を、壊して。
死ねば、終わるんだ。
叔母さんが、美琴に会えるなら。
世界が、少しだけでも──灰色じゃなくなるなら。
ごめんね、叔母さん。
ごめんね、美琴。
ごめんね、父さん、母さん。
ごめんね。ごめんね。
目蓋が、重くなる。
最後に見たのは、叔母さんの瞳の奥で渦巻く黒い霧。
あれが、僕を連れていくんだろうな。
闇の底へ。灰色の大地へ。
もう、いい。
これで、みんな幸せになれる。
息が、止まる。
心臓の音が、遠のく。
世界が、完全に──
灰色に、なった。
……あたたかい。
何か、胸の奥に。
小さな、でも確かな熱が。
いや、もう遅い。
諦めたんだ。
死ぬって、決めたんだ。
なのに、なぜか──涙が零れた。
頰を伝って、叔母さんの手に落ちる。
ごめん。
最後に、わがまま言って。
……生きたかった。
ほんとは、もう少し──
色のある世界を、見てみたかった。
朝焼けの空を。
叔母さんが、昔みたいに笑う顔を。
誰かに、必要だって言われるのを。
でも、もういい。
これで、終わりで──
熱が、強くなった。
胸の奥で、何かが──拒むように、脈打つ。
……いやだ。
小さな、でもはっきりとした声が、頭の奥で響いた。
死にたく、ない。
叔母さんの指が、わずかに震えた気がした。
でも、きっと気のせいだ。
もう、すべてが遠のいて──
闇が、僕を呑み込もうとする。
そのとき、胸の奥の熱が、爆ぜた。
死にたくない。
何もできないまま、死にたくない。
僕のせいかもしれない。
全部、僕の灰色の髪のせいかもしれない。
でも、それでも──
生きて、証明したい。
僕がいることで、世界が少しでも明るくなるって、信じたい。
死んで、逃げるのは、もうやめる。
叔母さんの指が、わずかに緩んだ気がした。
いや、気のせいじゃない。
叔母さんの手が、震えている。
僕は、力を振り絞った。
宙に浮いたままの体を捻り、叔母さんの腕を掴む。
指先に、残った力をすべて込めて。
視界が、灰色から──わずかに、赤く染まる。
怒りじゃない。
生きる意志だ。
息が、戻ってくる。
肺に、火が灯るように。
僕は、叔母さんの瞳をまっすぐ見た。
その奥に、まだ──叔母さんがいる。
「叔母さん……」
掠れた声で、呟いた。
「僕……死なない」
覚悟が、決まった。
この手で、叔母さんを──
この世界を──
灰色から、取り戻す。
体が熱くなる。
神の力じゃない。
僕自身の、熱だ。
斧を振りかざすように、肘を垂直に振り下ろす。
ガッ、と乾いた打撃音。骨がじんと震える。
力が弱まった。僕はすかさず腕を振り払った。
床に着地し、よろめきながらも──立つ。
「ハァッ……ハァッ……」
息が荒い。
首に残る痛みが、生きている証。
まだ、終わらない。
ここからだ。
僕は、拳を握った。
灰色の髪が、風もないのに揺れる。
生きる。
戦う。
叔母さんを、救うために。
僕自身を、救うために──。
「死ね! 死ね!」
叔母さんの叫びが、部屋を切り裂く。
迫り来るその姿が、廃ビルの屋上で見た魔狼と重なった。
空気が張り詰め、皮膚の奥で血が沸き立つような感覚──体が覚えている。あの戦いの記憶が、筋肉に蘇る。
刹那、叔母さんの腕が振り下ろされた。
攻撃というより、癇癪を爆発させたような、命を削る雄叫びの延長。
──避けるのは、容易い。
ふっ、と息を吐き、身を翻す。
灰色の世界が二転、三転。
叔母さんの背後に着地した瞬間、床を蹴った。
躊躇うことなく距離を詰め、右手の拳を繰り出す。
叔母さんが慌てて振り返り、咄嗟に腕を交差させて防御の構えを取る。
拳と腕がぶつかり合い、空気が鈍く震えた。
見れば、叔母さんの顔が苦虫を噛み潰したように歪む──効いている。
右手を引くのと同時、左手を放つ。
利き手とは逆の、威力の落ちる一撃。
叔母さんの防御を崩すには至らないが、わずかに体勢が傾ぐ。
その隙を、逃さない。
僕は低く腰を落とし、勢いのままに右足を振り抜いた。
回し蹴りが、叔母さんの脇腹を捉える。
「ぐっ……!」
叔母さんの体が横に大きく揺れ、防御の腕が開いた。
息を飲む間もなく、僕は踏み込む。
左足を軸に体を回転させ、開いた胴へ──掌底を叩き込んだ。
灼熱の光が掌から迸り、叔母さんの体を直撃する。
衝撃が肉を伝う。骨を震わせ、内側から焼き払うような痛みを伴って。
叔母さんが、短い悲鳴を上げて後ろへ吹き飛んだ。
壁に背中を打ちつけ、床に崩れ落ちる。
部屋に響く鈍い音と、霜のような冷たい霧が一瞬乱れ、叔母さんの口から苦悶の息が漏れた。
僕は息を荒げ、足下に転がる鏡を拾い上げた。
掌に触れた瞬間、熱が一気に戻る。灼熱の光が鏡面を走り、灰色の部屋をわずかに照らす。
「ふっ、やるじゃねぇか! ようやく自分の力で立ち上がったな!」
アマテラスの声が、いつもの粗暴な調子で響いた。
満足げで、兄貴分のような笑いが混じっている。
僕は鏡を握りしめたまま、叔母さんを見た。
叔母さんが、ゆっくりと立ち上がる。
体が震え、背中が異様に膨らむ。皮膚の下を何かが這い回るように波打ち、灰色の毛皮が裂け目から覗いた。
「もう……後戻り、できないの……」
叔母さんの声が、最後に掠れて漏れる。
その直後、黄金の瞳が完全に獣の輝きに塗り替えられた。
自我が、闇に呑み込まれる音。
叔母さんの体が、爆ぜるように変貌した。
腕が異常に長く伸び、指が黒い爪に変わる。
背中から巨大な狼の影が実体化し、部屋全体を冷たい霧が覆う。
「フェンリル──北欧の終末を告げる狼だ」
「ガオオオオオオオッ!!」
咆哮が壁を震わせ、ガラスが粉々に砕け散る。
巨大な前肢が振り下ろされ、僕は咄嗟に横に跳んだ。床が抉れ、破片が飛び散る。
壁に背中を押し付けられ、逃げ場を失う。
狼の牙が迫り、息が凍るような冷気が頰を撫でた。
死ぬ。
そう思った瞬間──
狼の前肢が、わずかに止まった。
いや、止められた。
叔母さんの細い手が、狼の巨大な爪を内側から押さえ、必死に震えていた。
「…………颯……人……」
掠れた、でも確かに叔母さんの声。
黄金の瞳の奥に、ほんの一瞬──人間の色が戻った。
「今だ! あの女の手を取れ!」
アマテラスの叫びが、耳元で炸裂する。
僕は、迷わなかった。
フェンリルの牙が振り下ろされる寸前、僕は飛び出した。
狼の前肢を掻い潜り、叔母さんの体に飛びつくように──その手を、強く握った。
叔母さんの手は、冷たくて、震えていた。
でも、確かに、そこに叔母さんがいた。
「颯人、ごめんね。私はあなたまで失いたくない」
──雨の匂いがした。
漆黒が忙しなく行き交う両親の葬儀。
雨が降っていた。細かくて、冷たい雨。
傘の海の中で、一人、ぼんやりと立っていた。
灰色の髪が額に張り付き、誰も近寄ってこない。
「疫病神」「あの子のせいで」──囁き声が雨音に混じって耳に届く。
その時、雨粒の群れが途絶えた。誰かが傘を傾けてくれた。
叔母さんだった。
彼女は僕の隣に立ち、自分の肩が濡れることなんて気にせず、自分の傘を大きく寄せてくれた。
「颯人……」
静かに僕の名前を呼んだ。震えている。きっと、悲しいんだ。でも、それを感じさせないほどに優しくて、心地よい。
「寂しいよね。お父さんもお母さんもいなくなっちゃって……。でも、大丈夫。私がいるから」
ゆっくりと膝を折り、僕に目線を合わせる。
濡れた頬を指先でそっと拭ってくれた。
「これからは、叔母さんが颯人のお母さんになる。一緒にご飯食べて、一緒に遊んで、一緒に寝て──絶対、一人にしないから」
いつから歪んでしまったのだろう。
旦那さんが消えてから。
美琴がいなくなってから。
叔母さんは酒に溺れるようになって──。
──全部、僕のせいだと思ってた。
今なら、わかる。
叔母さんは、ずっと戦っていたんだ。
僕を憎むことで、自分を保とうとしていたんだ。
闇に呑まれる前に、最後の抵抗をしていたんだ。
握った手が、熱くなった。
僕の熱が、叔母さんに伝わる。
叔母さんの震えが、少しずつ収まっていく。
「叔母さん……」
声が震えた。
涙が零れて、叔母さんの手に落ちる。
「僕、叔母さんが大好きだよ。昔から、ずっと」
叔母さんの瞳が、黄金から──人間の色に戻りかけた。
フェンリルの咆哮が、苦痛に歪む。
「颯人……逃げて……私、もう……」
「嫌だ」
僕は首を振った。
「叔母さんを、一人にしない。絶対に」
ポケットの中の鏡が、激しく熱を帯びる。
アマテラスの声が、静かに響いた。
「……お前らしいな。なら、貸してやるよ。この俺の光を」
熱が、胸から腕へ、手へ、そして叔母さんへ流れ込む。
僕自身の意志と、神の力が重なる。
叔母さんの体を覆っていた黒い霧が、悲鳴を上げるように蒸気となって立ち上る。
フェンリルの影が、叔母さんの背中から引き剥がされるように暴れ狂う。
「ガアアアアアッ!!」
巨大な狼の姿が、闇の残滓を撒き散らしながら実体化しようとする。
でも、もう遅い。
僕の手のひらから、眩い光が迸った。
太陽の光。
岩戸を開いた、あの神話の光。
光は叔母さんの体を優しく包み込み、フェンリルの影を焼き払う。
狼は最後の咆哮を上げて、灰となって霧散した。
部屋に、焦げ臭い匂いだけが残る。
叔母さんが、膝から崩れ落ちた。
「叔母さん!」
僕は慌てて抱きかかえる。
叔母さんの体は、熱にうなされるように震えていた。
でも、瞳は──人間の、叔母さんの瞳に戻っていた。
「……颯人……?」
弱々しい、でも確かに叔母さんの声。
「生きてる……私、まだ生きてる……?」
僕は頷いた。
言葉にならなくて、ただ強く抱きしめた。
叔母さんの手が、ゆっくりと僕の背中に回る。
昔みたいに、優しく抱き返してくれた。
「……ごめんね、颯人」
叔母さんの声が、涙に濁る。
「叔母さんが、悪かった。全部、叔母さんが弱かったから……あなたを傷つけて、憎んで……美琴のことまで、あなたのせいにして……」
「違うよ」
僕は首を振った。
「僕も、叔母さんを一人にしてた。逃げてばかりで、ごめんね」
叔母さんが、泣き出した。
子供みたいに、声を上げて。
僕も、泣いた。
部屋の中に、朝の光が差し込み始める。
カーテンの隙間から、橙色の光が叔母さんの顔を照らす。
灰色の世界が、少しずつ色を取り戻していく。
これから、きっと大変だ。
灰色の呪いはまだ終わっていない。
美琴は、まだ見つかっていない。
でも、もう一人じゃない。
叔母さんと、二人で。
アマテラスと、共に。
灰色の世界を、色を取り戻すために──
僕たちは、生きていく。
家の屋根を突き抜けるように、高い高い空の上。
雲の切れ間を縫って、朝日を浴びる一つの影が、ゆっくりと浮かんでいた。
人とも獣ともつかぬ、黒い外套を纏った姿。
顔は深い闇に覆われ、輪郭すら定かではない。
ただ、両腕を組んで、まるで退屈した観客のように、下界の小さな家を見下ろしている。
影は、かすかに首を振った。
「……あーあ、作戦失敗か」
声は風のように低く、乾いていた。
失望というより、計算違いを悔やむような、事務的な響き。
指先が軽く鳴らされる。
すると、叔母の体から剥がれ落ちたフェンリルの残滓──灰色の煙のようなものが、影の周囲に集まってくる。
影はそれを掌で掻き集め、ぽい、と虚空に投げ捨てた。
煙は瞬く間に霧散し、朝の空に溶けていく。
「北欧の狼があんなに簡単に焼き払われるなんてな。天照大御神の生まれ変わり、予想以上に厄介だ」
影の口元が、闇の中でわずかに歪む。
笑っているのか、それとも苛立っているのか、判別がつかない。
「まあいい。まだ駒はいくらでもある。灰色の呪いは、そう簡単には終わらねぇよ」
影はゆっくりと体を翻した。
朝日を背に受け、輪郭が一瞬だけ、巨大な翼のようなものを広げたように見えた。
次の瞬間、影は雲の彼方へと溶けるように消えていく。
残ったのは、ただの青空だけだった。
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