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十四話 乙女覚醒

「……可愛いお嬢さん。退屈な現実から、僕が連れ出してあげよう」

「だ、誰……?」


 その異形は、淡い霧の中から滑るように現れた。

 肌を大胆に露出させた装束、背中には夜の闇を切り取ったようなコウモリの翼。一目見て、悟った。これは、人じゃない──。


「僕の名前、か。そうだね……みんなは『インキュバス』と呼ぶかな」


 ──インキュバス。

 女性の夢に忍び込み、甘い罠で精神を絡め取る悪魔。


 あれ。なんで、私、こんなこと知ってるの──。

 ズキン、と脳の奥が熱く脈打った。


 教わった記憶も、調べた覚えもない。けれど、その存在が何であるか、どうしてここにいるのか。

 言葉よりも早く、魂に深く刻み込まれた「古い記憶」が警鐘を鳴らし始めていた。


「ふふっ、戸惑っているね。その純白の無垢を穢すのが楽しみだ」


 インキュバスが細長い指をこちらへ向けた瞬間、周囲の花畑がねじれるように崩れ、冷たく静謐な舞踏会場へと変貌した。


「そんなに怯えないで。君のような美しい魂には、相応しい舞台が必要だろう?」


 奴が優雅な動作で一歩踏み出すと、私の意思とは無関係に、足が勝手に動き出した。目に見えない糸で操られているかのように、私の右手は彼の冷たい手に重ねられ、腰には逃げ場を塞ぐような腕が回される。


「……体が、勝手に……!」

「さあ、踊ろうか。永遠に終わらない、夢のワルツを」


 音楽など流れていないはずなのに、頭の奥で不協和音の旋律が鳴り響く。

 強制的に引きずられるようにして、ステップを踏まされる。三拍子のリズムに合わせて体が揺れるたび、私の意識は少しずつ削り取られ、深い霧の中に沈んでいくような感覚に陥った。

 彼の翼が大きく広がり、影となって私を包み込む。

不気味なほど整った顔が耳元に寄せられ、冷ややかな吐息が肌をなでた。


「抗わなくていい。このダンスが終わる頃には、君は自分自身の名前さえ忘れているはずだから」


 意識が遠のき、視界が白く濁っていった。



 絶望的な静寂の中。

 私の胸の奥に眠る、誰にも侵せない「誇り」が熱い波動となって脈打ち始めた。


「いらっしゃい、心ちゃん。待ちわびたわよ」


 不意にワルツの旋律が消え、視界がまばゆい真珠色の光に包まれる。

 光の渦の中心にいたのは、インキュバスの装束など厚着に見えてしまうほど、神々しくも大胆な姿を晒した女性だった。

 同性の私でさえ思わず息を呑み、目を逸らすことすら忘れてしまう。それは人間が到達し得ない、究極の「美」そのものだった。


「だ、誰……? ここは……」

「ここはあなたの魂の神域。そして私はあなた、あなたは私。……そう、かつてこの世界に愛を振りまいた、『アプロディーテー』よ」


 彼女が優雅に歩み寄るたび、あたりには甘い薔薇の香りが立ち込め、インキュバスが放っていた不気味な冷気が霧散していく。

 

「あんな下俗な魔物に、私の魂を弄ばせるなんて。少しばかり、お灸を据えてあげましょうか?」


 彼女が私の手首にそっと触れる。その瞬間、私の体の中に、言葉では言い表せないほどの強大な力が流れ込んできた。

 それは、暴力的な破壊の力ではない。

 触れるものすべてを魅了し、ひれ伏させ、あらゆる悪意を「愛」の名の下に無力化する、絶対的な支配の輝き。


「さあ、目を開けて。あなたの美しさ(ちから)を、あの無礼者に教えてあげなさい」




 インキュバスって言ったっけ。中々の美形だけど、本物の『美』には遠く及ばない。


「おや、どうしたんだい──ガハッ……!」

「変態! 気安く触らないで!」


 私の叫びと同時に、全身から溢れ出した桃色の神気が、荒れ狂う嵐となってインキュバスを吹き飛ばした。

 背中の翼を必死に羽ばたかせ、体勢を立て直した彼は、整った顔を驚愕に歪ませる。


「……何だ、その輝きは。ただの人間が持てる格じゃない……!」


 私は力任せに床を蹴った。自分でも驚くほどの速さ。

 アプロディーテーの力が私の四肢に熱を宿し、世界がスローモーションのように停滞して見える。


「よせ……っ、来るな!」


 彼が焦ったように影の触手を伸ばしてくるが、私はそれを踊るようなステップで軽やかに躱す。

 先ほどまでの無様な足取りじゃない。これは、私自身の意思で踏む、私だけのステップ

 最短距離で懐に飛び込み、無防備な胸元へ掌を叩きつける。


「これでも、喰らえ──!」

「グ、アアアァッ!?」


 放たれたのは、拳による衝撃ではなく、愛と美を司る女神の「拒絶」の光。

 触れた箇所から不浄な魔力が弾け飛び、インキュバスの体はボロボロと崩れ始めた。夢を支配する傲慢な力は、本物の神性の前では薄氷のように脆い。


「野蛮なお嬢様だ……。まさか、眠れる獅子ならぬ、眠れる女神だったとはね……!」


 消えゆく寸前、インキュバスの整った顔が、嫉妬と憎悪に歪んだ。

 彼の体が、崩れかけた欠片を無理矢理かき集めるようにして、最後の悪足掻きとばかりに半狂乱で私に飛びかかってくる。


「っ……しつこい!」


 思わず身構えた瞬間、耳元に、先ほど聞いたばかりの優雅で力強い声が響いた。


「この私、アプロディーテーの前で愛を冒涜する悪意は許さない」


 その声に呼応するように、私の左手に、純白の輝きを放つ美しい弓が顕現した。

 そして、右手には、先端が真珠色の光を宿した矢が。

 

 私の背後には、淡い光を纏ったアプロディーテーの幻影が重なり合う。

 彼女は私の両腕を優しく包み込むように支え、弓を引く正しい角度、矢をつがえる完璧な動作へと導いてくれた。

 心と体が、まるで一つになったかのように、自然と動く。


「射貫くのよ、心ちゃん。その悪しき欲望を、真実の愛の愛で」


 アプロディーテーの声が、私の内に秘められたすべてを引き出す。

 狙うは、眼前に迫るインキュバスの中心。

 躊躇ためらいも、恐れもなかった。

 

 ──今、放つ。


 ヒュン、と空気を切り裂く澄んだ音と共に、真珠色の矢が放たれた。

 それは一直線に、迷いなくインキュバスの胸元へと吸い込まれていく。

 彼の醜悪に歪んだ顔が、驚愕に見開かれた。


「ぐ、ぐぅ……ッ!?」


 矢は、まるで最初からそこにあったかのように、彼の体に何の抵抗もなく突き刺さる。

 肉を貫くはずの痛みはない。

 だが、インキュバスの瞳に宿っていた傲慢な輝きが、急速に色を失っていくのが見て取れた。


「こ、これは……何だ……体が……熱い……っ」


 矢が突き刺さった箇所から、桃色の光が脈動し始める。

 インキュバスは苦悶に身悶え、その場に膝をついた。


「ハァ……ハァ……っ、この、熱は……まさか……」


 彼の体から、甘く、それでいて致命的な香りが立ち上る。

 私の背後のアプロディーテーの幻影が、静かに、そして厳かに言葉を紡いだ。


「真実の愛を知らぬ愚かな魂よ。その身に刻みなさい。この矢こそ──」

「恋のラブ・シック


 アプロディーテーの声と重なるように、私の唇が、自然と残りの言葉を紡ぎ出す。


「身を焦がす熱情の業火ごうかよ!」


 瞬間、インキュバスの全身から桃色の炎が燃え上がった。

 それは物理的な熱さではなく、魂そのものを焼き尽くすかのような、狂おしいまでの情念の炎。

 彼の苦悶の叫びは、甘い香りと共に虚空に溶け、やがて何もかもが、塵一つ残さず浄化されていった。

 インキュバスがいた場所には、ただ、淡い薔薇の花びらがひらひらと舞い落ちるだけだった。




 燃え上がる桃色の炎が視界を埋め尽くし、すべてが白光の中に消えていく。

 遠のく意識の向こうで、アプロディーテーの優雅な微笑みが揺れた気がした。


「はっ……!」


 勢いよく顔を上げると、そこにあったのは真珠色の神域でも、豪華な舞踏会場でもなかった。

 西日に照らされた、見慣れた教室の光景。鼻を突くのは薔薇の香気ではなく、埃っぽいチョークの匂いだ。


 ……倒した、の……?


 まだ熱を帯びているような手のひらを見つめ、呆然と自失する。

 夢だったのだろうか。けれど、胸の奥に残るあの凛とした誇りは、決して幻ではない。

 私はゆっくりと現実の感覚を取り戻そうとして──


「──神谷さん、夢の続きは放課後にしてくれないか」

「ふぇっ……!?」


 頭上に降ってきた低い声と同時に、パサリ、と乾いた衝撃が頭頂部を打った。

 見上げれば、そこには丸めた教科書を手に、眼鏡の奥の目を光らせた歴史の先生が立っていた。


「授業中にこれほど幸せそうな寝顔を晒されると、私の講義の立場がないんだがね」

「す、すみませんっ!」


 慌てて背筋を伸ばし、ノートにペンを走らせるふりをする。

 クラスメイトのクスクスという笑い声が耳に痛い。

 顔が火が出るほど熱い。怪異と戦うよりもずっと、心臓がバクバクといってる。

 歴史の授業は、まだあと十五分も残っていた。

 

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