十三話 霧中
意識の底で、目を開く。どこか現実離れした浮遊感に平衡感覚を失いそうになる。これが、「夢中」というものか。
重力さえもが曖昧な、歪んだ学校の廊下がそこにあった。
窓の外には紫色の渦が巻き、壁は生き物のように波打っている。
これが、海斗君の夢……。
「……あはは、いい声。もっと聞かせて、完璧な『勝者』くん」
淫らな高笑いが、歪んだ空間に響き渡る。
その声の主を探して角を曲がった瞬間、僕は息を呑んだ。
「……っ、ふざけやがって……」
廊下の中央、どす黒い霧に囲まれて、海斗君が膝をついていた。
片手で床を強く叩き、もう片方の手で胸元を固く握りしめている。いつも不遜に、誰よりも高く立っていたはずの彼が、今はひどく小さく見えた。
「無駄よ。あなたの勝利はすべて偽物。本当は誰よりも臆病で、狡猾で……最低な人間だって知られたら、あの子だってあなたのそばから消えてしまうわ」
海斗君の周りには、泥のような影が幾重にもまとわりつき、彼の体を地面へと引きずり込もうとしている。
それがあいつの攻撃──精神の最も暗い部分を抉り出す刃。
「海斗君!」
僕は叫びながら、その影の群れへと駆け出した。
海斗君の背中が、一瞬だけびくりと跳ねる。
「……颯、人……? なんで、ここに……」
絶望と屈辱の入り混じった、聞いたこともないような弱々しい声。
彼は顔を上げることさえできず、ただ必死に自分を抱きかかえて震えていた。
「あら、噂をすれば。あなたが一番見られたくなかった『光』が、自ら泥の中に飛び込んできてくれたわよ?」
サキュバスが耳障りな笑い声を上げると、海斗君を縛る影がさらに色濃く、鋭い棘となって彼を突き刺そうと動いた。
「颯人……来るな……!」
絶望に顔を歪める海斗君の前に、僕は滑り込むように割り込んだ。
「海斗君を苦しめた分、きっちり返させてもらう!」
力任せに床を蹴って距離を詰め、渾身の拳を突き出した──はずだった。
手応えがない。空気を切る感覚さえなく、目の前のサキュバスの姿が、陽炎のように揺らめいて霧散した。
「──無駄よ。ここは誰の領域だと思っているの?」
思考の隙間を縫うように、甘ったるい声が頭の芯へ直接響く。
直後、逃げ場のない衝撃が僕を襲った。
「ガハッ……!」
腹部に、鉄塊で殴られたような鈍い痛みが駆け巡る。
肺から空気が引きずり出され、視界が火花を散らした。いつの間にか背後に回っていた彼女の「影の脚」が、僕を容赦なく吹き飛ばしたのだ。
僕は転げ回った末に床にひれ伏した。
夢の中だというのに、しっかりと、痛い。きっと、これは夢であって、夢じゃない。あのサキュバスの支配下であり、『聖域』だ。
「あなたにも見せてあげるわ。『虚像と泥に塗れた栄光』を!」
サキュバスが、あざ笑うように細い指先を合わせる。
乾いた残響が「カッ」と歪んだ空間に弾けた。
それが、すべての終焉を告げる冷酷な合図だった。
足元の床が、まるで底なしの沼のように崩れ落ち、僕は抗う術もなく暗転する視界へと飲み込まれていく。
微かな光さえも届かない、永遠に続くかのような静寂。
泥濘のような闇の底へと、僕の意識は音もなく沈下していった。
───
「颯人……!」
「黙って見てなさい!」
液状化した床が底なし沼のように俺の半身を引き摺り込む。身動き一つ取れない俺の胸元に、血液のように赤いハイヒールが容赦なく衝突した。
「ガハッ……」
「さぁ、お楽しみの時間よ。あの子に、あなたが裸よりも見られたくない過去を見せてあげるわ」
「や……めろ……っ……」
肺を泥が詰まったような息苦しさが満たす。
本当の俺を知ったら、颯人はなんて言うだろうか。
勝利を掠め取るために手段を選ばず、他人の善意すら踏み躙ってきたこの醜悪な中身を暴かれたら。
『これ、よかったら……』
あの日、差し出された水筒。俺は、あれ以上に美味い液体を未だに知らない。
喉を焼くような渇きの中で唯一、俺の乾いた心に染み渡った潤い。
『……あ、ごめん。嫌だよね……僕の飲みかけなんて。自販機探して──』
嘘も偽りも、裏も何もない。太陽のような真実の優しさだけがそこにあった。
皮肉なものだ。俺が喉から手が出るほど欲しかった「勝利」を捨ててまで守りたいと思ったのは、俺が最も持たざる「純白」だった。
その光に、俺の影を見せるな。
軽蔑に染まったあいつの顔を見るくらいなら、ここでこのまま、心ごと喰い破られた方がまだマシだ。
クソが──。
「──ったく。低俗なド三流神獣に好き放題されやがって」
鼓膜を叩く声に、俺の思考が凍りつく。
「颯人……?」
いや、違う。あの腑抜けは、あんな粗暴な口調で話さない。
俯いていたその顔が、ゆっくりと持ち上がる。瞳に宿るのは、颯人の穏やかな光ではない。すべてを焼き尽くし、跪かせるような──太陽の、傲慢なまでの黄金色。
「安心しろ。『こいつ』は何も見てねぇよ」
それに、響きが違う。
魂を内側から包み込むような熱を帯び、偽りのない自信に満ちている。同じ構造の声帯から発せられていることが信じられないほど、その言葉には絶対的な「格」が宿っていた。
「おい、そこの有象無象。俺の生まれ変わりを泥遊びに巻き込んだ罪、その安い命で贖わせてやる」
「チッ、目障りな光だこと……。何が何だかわからないけど、二人まとめて夢の糧にしてあげるわ!」
「夢を支配しているつもりか? ──片腹痛いわ」
颯人、いや、颯人の体を借りた何者かが、俺を背に一歩踏み出す。その足元から波紋状に広がる光が、ドロドロに歪んでいた校舎を「正しき形」へと上書きしていく。
「な、何よこれ、私の領域が……消えていく……!?」
「領域だと? 貴様のような下卑た淫魔が、この俺の前で『世界』を語るなど、千万年早いわ!」
右手を無造作に掲げた。
そこには武器などない。ただ、凝縮された「太陽の熱」が、直視できないほどの輝きを持って球体を成している。
「あ、あああああッ!」
サキュバスが発狂したように、残されたすべての影を一点に集め、巨大な槍として撃ち出した。だが、あいつはそれを避けることもしない。
「伏して拝め。八咫の焔に焼かれ、灰塵に帰すがいい」
指先から放たれた一筋の閃光。
それは槍を、サキュバスを、そして彼女が作り上げた悪夢の空を、一瞬にして刺し貫いた。
「嘘……こんな、出鱈目な……っ」
サキュバスの体が、内側から漏れ出す光によってひび割れていく。
あいつが最期に見たのは、颯人の柔らかな顔立ちに宿る、神としての絶対的な傲慢さと、慈悲の欠片もない冷徹な眼差しだった。
「消え失せろ。主の眠りを妨げた報いだ」
パァン、と乾いた音がして、世界が砕け散る。
絶叫すら届かない速度で悪夢は浄化され、真っ白な光へと収束していった。
───
真っ白な光に包まれ、急激な浮遊感に襲われる。
次に意識が浮上したとき、僕の鼻を突いたのは、夢の中の腐った果実の臭いではなく、ツンとした保健室の消毒液の匂いだった。
「ん……っ……」
重い瞼を押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、至近距離にある白いワイシャツの胸元。そして、僕の体をがっしりと拘束している、熱を帯びた腕。
「…………は?」
頭上から、低く、地を這うような声が聞こえた。
心臓が跳ね上がる。見上げれば、そこには今まさに覚醒したばかりの海斗君の顔があった。
寝起きのせいで少し潤んだ瞳が、腕の中に収まっている僕を捉え、点のように収縮していく。
「お、お前……っ、ここで何してやがるッ!!」
「わっ、わわっ!?」
次の瞬間、僕は凄まじい力で突き飛ばされ、ベッドから転げ落ちそうになった。
海斗君は飛び起き、信じられないものを見たかのように自分の両手を見つめ、それから顔を真っ赤にして僕を指差した。
「なんで……なんでお前が俺のベッドに潜り込んでんだ!? この、ド変態ボロ雑巾! 殺されたいのか!?」
「ち、違うんだよ海斗君! 訳があるんだって! 君が凄いうなされてて、アマテラ……その、偉い人が『添い寝して夢に入れ』って言うから……っ」
「添い……っ、ふざけるな! 吐き気のするようなこと言いやがって!」
海斗君は怒鳴り散らしているけれど、その耳の先までリンゴのように真っ赤だ。
必死に乱れた制服を整えようとしているが、指先が微かに震えている。
「大体、お前……! 夢の中で、何か見たか!? 俺の……俺の過去とか、変なもん、覗いてねぇだろうな!?」
鋭い眼光。でも、その奥には隠しきれない怯えと、酷い羞恥心が混ざっている。
僕は床に尻もちをついたまま、必死に首を振った。
「何も見てないよ! 気がついたら闇の中にいて、そのあとすぐ意識を乗っ取られちゃったから……。海斗君、サキュバスは倒したんだよね?」
「……っ、当たり前だ! 俺を誰だと思ってる」
僕が「何も見ていない」と言った瞬間、海斗君は目に見えて安堵したように肩の力を抜いた。
けれど、すぐにまた顔を背け、忌々しげに舌打ちをする。
「……二度と、俺の邪魔をするな。次やったら、その軟弱な首を叩き折ってやるからな」
ぶっきらぼうに吐き捨てられた言葉。
でも、その横顔はまだ赤いままだ。
僕は、夢の中で彼が僕を抱き寄せて「颯人」と呼んだときの、あの切実な熱を思い出して、自分まで顔が熱くなるのを感じていた。
***
異様に静かな私の周り。静寂を乱すように予鈴が鳴る。颯人君も海斗君も、もうすぐ昼休みが終わるというのに、一体どこに行ってしまったのだろう。
四限目の授業中に忽然と消えた海斗君。昼休みになると、後を追うように颯人君までもどこかへ行ってしまった。
ちらほらと空席ができた教室を見渡す。今日、異様に早退する人多い。先生は「季節外れの風邪かな」って言っていた。颯人君たちも体調を崩してしまったのかもしれない。
心配だな──。先生はガラリとした教室に訝しげな表情を浮かべながら入場した。
お昼ご飯後の歴史。ほぼ麻酔と言っても差し支えない。お医者さんが聞いたら激怒するかもしれないけど。
「今日は教科書三十ページ……」
歴史の先生の、低く抑揚のない声が、まるで遠い異国の呪文のように聞こえ始める。
三十ページ。白黒の図説に、びっしりと並んだ年号。普段なら形だけでも真面目にノートを取る私だけれど、今日ばかりは「心配」という名の重石が心にのしかかって、文字が滑って頭に入ってこない。
颯人君……大丈夫かな。本当に風邪だったら、あとで連絡してみよう……
そんなことを考えながら、頬杖をついた。
窓から差し込む午後の日差しが、私の机をじんわりと温める。
……いけない。寝ちゃダメだ。
心の中で自分を叱咤するけれど、先生の声はどんどん遠のき、代わりに心地よい、甘い霧のようなものが私の意識を包み込んでいく。
「教科書……三十ページ、の──」
先生の声が、プツンと途切れた。
静かすぎる。
さっきまでの教室の気配が嘘のように消え、私はどこか柔らかい、雲のような場所に横たわっている感覚に陥った。
あ……れ……私、寝ちゃった……?
抗おうとすればするほど、体は泥のように沈んでいく。
まるで、誰かが私の耳元で、優しく「おやすみ」と囁いているみたいに。
瞼の裏に広がるのは、教室の風景ではない。
どこまでも続く、淡い紫色の花畑と、そこに佇む「誰か」の影。
それは颯人君でも海斗君でもない、どこか妖艶で、見る者の魂を吸い寄せるような危険な香りを纏った存在だった。
「……可愛いお嬢さん。退屈な現実から、僕が連れ出してあげよう」
その声が響いた瞬間、私の意識は完全に「現実」という名の岸辺から切り離された。




