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十一話 出来合いの溺愛

「雪花……君……?」


 雪花君から放たれた。

 服についた塵を払うような仕草。雪花君が美に取り憑かれた日から異様に増えた、あの仕草によく似ている。

 あぁ、私って、塵も同然なんだ。

 

 瞬きをした一瞬の間、私は小石のように転がった。

 ぐらりと臓物が内側を自由に駆け巡る感覚。何度も体を打ったにも関わらず痛みは訪れなくて、ただ、虚しさだけが心を覆った。

 凍てついた地面が冷酷に肌を突き刺す。そこには鏡のような輝きは欠片も残っていない。墨を垂らしたような、それでいて「黒」と呼ぶことさえ憚られる、薄汚い濁り。

 それが雪花君が雪花君でなくなっていることを恐ろしいほど示しているように思えて、私は雪花君を見上げた。


「あ……が……」

 

 醜い獣が絞り上げられているような声。気高さも美しさもなくて、ただ、本能のままに張り上げているよう。皮肉で悲痛な心の叫び。雪花君から発せられたものだとは到底信じられなかった。

 顔を見た。そこに雪花君の残滓が残っていると縋りつくように。

 青白く、震えた唇。血走った瞳、焦点を失った黒目は眼球の中をカサカサと彷徨う。

 真実と嘘の間で歪んだ顔に言葉を失う。

 

 直後、弾力を帯びた何かを乱雑に引きちぎったような音が全身にこだました。雪花君の胸元から赤黒い液体が飛沫したのを見て、肉が裂けた音なのだと、理解を超えた何かが停止した脳を蹴り飛ばした。


 開花した。

 雪花君を苗床にした巨大な花。水に溶け出した油のような穢れた虹色の花弁。花茎か血管か、もはや判別のつかないストローが脈打っている。

 力なく倒れる雪花君は棺桶で眠る死人のように見えた。

 

「チッ……」


 舌打ちとともに、乾いた銃声が一定のリズムを刻む。

 直撃した弾丸は気の抜けた金属音ともに落ちる。先ほどまで私と雪花君を襲っていた脅威は子犬のように無力だった。


「見るなぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 その絶叫は、もはや人の喉が紡げる音ではなかった。

 何千、何万という怨嗟を煮詰めて、無理やり一つの空瓶に詰め込んだような、壊れた不協和音。

 雪花君の胸から咲いた虹色の花が、狂ったように脈動を速める。


 ──ハラリ、と。


 穢れた虹色の花弁が、雪のように舞い落ちた。

 それは、かつての彼が誇っていた雪中花の美しさとは似ても似つかない、どろりと重たい絶望の剥片。

 地面に触れた花弁は水面に溶け、そこから這い上がるようにして「形」を成していく。


 何、これ……。


 声にならない震えが私の喉を支配する。

 花弁から生まれたのは、無数の顔のない人の形をした泥人形だった。

 それらは皆、雪花君と同じ、あの白銀の髪だけを不自然に靡かせている。けれど、その顔があるべき場所には、ぽっかりと黒い穴が空いているだけ。

 鏡の中に映る「醜い自分」を否定し続けた彼が、自身の欠落を埋めるために作り出した、悍ましい自画像の群れ。


 人形たちが、一斉に動き出した。

 関節を無視した不気味な動きで、地を這い、壁を伝い、私たち三人を包囲する。

 一体が私の足首を掴んだ。その指先からは、焼け付くような自己嫌悪の情念が伝わってくる。


 銃声が再び響く。

 放たれた弾丸が人形を貫く。しかし、彼らは痛みを感じる様子もなくただ泥のように崩れては、再び花弁を糧にして再生する。

 倒しても、倒しても、雪花君の絶望が続く限り、この呪いは止まらない。


「あ……ああぁ……」


 視界の端で、苗床となった雪花君が、痙攣するように指を動かしているのが見えた。

 巨大な花に養分を吸い取られ、枯れ木のようになっていく彼の姿。

 あんなに綺麗だった髪が、肌が、今の彼を突き動かしている「醜さへの恐怖」によって侵食されていく。


「詠鼓さん!」


 颯人君の一撃で、人の形を失って無力化する人影。

 私を庇うように立ち塞がる颯人君の背中を見た。


 クズだ。私──。


 思考の淵から漏れ出した独白は、形を成さないまま、冷え切った地面に吸い込まれて消えた。

 雪花君を愛していると、彼を守りたいと、そう信じていたはずだった。

 けれど、私の指先に残っているのは、彼の温もりではなく、無機質なカッターナイフの冷たさと、彼を絶望の深淵へと突き飛ばした「共犯者」としての震えだけ。


 この人を殺せば、もう一度必要としてくれるって思ってた。

 そんなエゴに簡単に突き動かされた。

 なのに今、こうして救われてる。


「……っ……っ……」


 ありがとう。

 ごめんね。


 言わなきゃ、自分の言葉で。


 なんで、なんで出ないの──。


「颯人! ここは俺に任せて、その女連れて逃げろ!」


 海斗君の怒号が、泥人形たちの不気味なノイズを切り裂いた。

 彼の両腕の銃口は赤く加熱し、硝煙が立ち込めている。それでも彼は一歩も退かず、無限に湧き出す絶望を真正面から食い止めていた。


「……わかった!」


 颯人君が迷いを断ち切るように短く応じる。

 彼は地面にへたり込んでいた私の細い腕を、壊れ物を扱うような、けれど拒絶を許さない強さで掴み上げた。


「走って!」


 強引に引き寄せられ、私の体は強張ったまま宙に浮く。

 死を覚悟し、すべてを諦めて石のように固まっていた私の肉体に、颯人君の体温が「生」の脈動として流れ込んできた。


「あ……」


 混乱する足をもつれさせながら、私は彼の背中を追う。

 背後からは、絶え間ない銃声と、肉を抉るような不気味な湿った音が響き続けている。一人で、あの異形の群れを食い止めているのだ。


 私のために。


 視界が激しく上下する。

 横を走る颯人君の横顔には、必死に恐怖を抑え込み、前だけを見据える強い意志が宿っていた。


 なぜ、そこまでしてくれるの。

 どうして、私なんかのために命を懸けるの。

 その問いが、喉の奥でせき止められていた熱い塊を、さらに激しく突き上げる。

 自分勝手な沈黙という殻の中で、傷つくことから逃げていた自分が、情けなくて、惨めで、たまらなくなった。


 ──このままじゃ、ダメだ。


 逃げる足が、一歩ごとに重くなる。

 このまま守られているだけでは、雪花君は、あの闇に飲み込まれたまま永遠に失われてしまう。

 その時、私の中で何かが、音を立てて弾けた。


 喉の奥で、せき止められていた感情が熱い塊となってせり上がる。

 言いたい。伝えなきゃいけない。

 私の身勝手な刃を受け止めてくれた背中に。

 鏡の破片のように砕け散った、あの子の心に。

 長年、私の喉を縛り付けていたのは、父の暴力でも、母の不在でもなかった。

 「自分の言葉が誰かを壊す」という恐怖が作り上げた、自分自身への呪い。

 私は、傷つくのが怖くて、自分の声を暗い檻に閉じ込めて鍵をかけた。

 けれど、目の前でボロボロになりながら私を守る少年の背中が、その鍵を焼き切っていく。

 偽りの声ではない、私の魂が震えている。

 肺に冷たい空気が流れ込み、震える声帯が、数年ぶりに命を宿した。


「……ぁ……あ……」


 それは、ひび割れた大地から芽吹く産声のように。

 あるいは、長い冬を耐え忍んだ氷が、春の陽光に溶け出す音のように。

 濁り、掠れ、けれどもしっかりと「私」を芯に宿した震えが、静寂の檻を突き破った。


「わ、た……しは……」


 涙が、温かい雫となって地面に落ちる。

 自分の口から漏れ出た振動が、自分の体に伝わる。その奇跡に、視界が滲む。


 私は、もう逃げない。自分の言葉で、世界と向き合う。


「私は……どうなっても、いいから……っ」


 声が、翼を得て広がっていく。

 偽りのない、剥き出しの心が、言葉となって空気を震わせた。


「雪花君を、助けて……! お願い、颯人君……雪花君を、助けて!」


 その一声は、絶望の花を散らす風となった。

 私の「声」が届いた瞬間、暴走する虹色の影が、一瞬だけ動きを止めた。

 暗闇に支配された雪花君の耳に、数年ぶりに届いた私の、本当の肉声。


「──それが、詠鼓さんの本当の声」

「え?」


 身勝手な私の鼓膜を揺すったのは、拍子抜けするほどに優しい声。

 驚いて顔を上げると、颯人君は走りながら、けれどもしっかりと私の瞳を射抜いていた。その瞳には、私を責める色なんて一欠片もなくて、ただ温かな確信だけが宿っている。


「絶対に助けよう。雪花君を」


 颯人君が私の手を握る力に、ぐっと熱がこもる。


「雪花君を救えるのは、詠鼓さんしかいないんだ。その声で……作り物の声じゃない、今の詠鼓さんの本当の声で、伝えるんだ! 彼がずっと欲しかった言葉を、君の手で届けて!」


 胸の奥が、熱い。

 颯人君の言葉が、私の凍りついた勇気を溶かしていく。

 そうだ。雪花君が恐れていたのは「美しくない自分」が拒絶されること。誰にも見てもらえないこと。

 だったら、今の私の、この掠れた「本当の声」で叫ばなきゃいけない。

 どんなに醜くなっても、どんなに無価値だと思い込んでも、私はここにいると。私は、ありのままの君を見ていたんだと。


「……うん……っ。私、伝える。雪花君に……!」


 私はもう、俯かなかった。

 流れる涙を拭う暇もなく、私は自分の足で力強く地面を蹴った。

 前方にそびえ立つ、巨大で悍ましい虹色の花。

 その中心で、今も自分を呪い続けている少年へ向かって。


 そうはさせまいと、再び影の群れが立ちはだかる。


「突っ切るよ!」


 颯人君が手鏡を高く掲げた。直後、鏡面が太陽の欠片を溶かし込んだような神々しい閃光を放ち、光の粒子が凝縮して一振りの鋭い剣へと変貌を遂げる。

 天照の神気を纏った刃は、立ち塞がる「顔のない影」たちの絶望を容赦なく焼き切り、道を切り開いていく。


「詠鼓さん、僕から離れないで!」


 颯人君が光の剣を振るうたび、泥のような人の形が蒸発するように消えていく。私はその背中を必死に追い、雪花君を苗床に咲き誇る、あの忌まわしい虹色の花へと肉薄した。

 近づくにつれ、不気味な脈動が地面から伝わってくる。雪花君の体は、花の根元で無数の触手のような茎に絡め取られ、もはや人間としての輪郭を失いかけていた。


「雪花君!!」


 私は全力で、喉の奥にあるすべての熱を込めて叫んだ。

 灰色の絶望が渦巻く暴風の中、私の「本当の声」が、突き刺さるようなノイズを貫いていく。


「見て、雪花君! 私はここにいるよ! 私の本当の声を……聴いて!」


 巨大な花弁が激しくのたうち、雪花君の顔だった場所が、こちらを向いた。けれど、その瞳には依然として深い虚無が澱み、自分自身の醜さを呪う闇が溢れ出している。


「……見……る……な……。僕……汚……い……」


 雪花君の唇から漏れ出たのは、自身の存在を否定する最期の叫び。

 私は怯まなかった。颯人君が切り開いてくれた「光の道」を駆け抜け、私は雪花君を拘束する、泥まみれの冷たい腕を真正面から掴み取った。


「汚くない! 汚くなんてないよ、雪花君!」


 汚濁した虹色の花弁が私を弾き飛ばそうと荒れ狂う。けれど、私はその指を、爪が剥がれるほどの力で握りしめた。


「鏡に映る君がどんな姿でも、私は、隣にいてくれた時間を信じてる! 私の隣で、一緒に景色を見てくれた……あの雪花君が、『ありのままの雪花君』が、私は大好きなんだから!!」


 その瞬間、雪花君を覆っていた黒い「灰燼」の殻に、ピキリと鮮烈な亀裂が走った。

 私の叫びは、彼の美醜のこだわりを突き抜け、その奥にある、ただ一人で怯えていた「少年の心」へと届いたのだ。


「お願い、戻ってきて……。世界で一番、普通の男の子の……雪花君に、戻ってきて!」


 私の頬を、熱い涙が伝い、彼の冷え切った手に落ちる。

 その雫が触れた場所から、浄化の光が波紋のように広がり始めた。


***


 あぁ、まただ。

 視界が歪む。虹色の濁流に飲み込まれながら、僕は僕であったはずの残骸をかき集めていた。

 詠鼓の叫びが、遠い海の底から聞こえる泡の音のように鼓膜を叩く。

 「汚くない」なんて、嘘だ。そんなはずがない。

 だって、僕は知っている。

 この世には、呪わしいほどに明確な「美しさの境界線」があることを。


 始まりは、あの眩しすぎる家だった。

 母は、日本中がその名を知る大女優、成美撫子。

 彼女が歩けば道は光り、彼女が微笑めば世界は色づいた。そして僕の兄は、その母の「最高傑作」だった。

 流麗な銀髪、彫刻のように整った鼻筋。兄さんがそこに立っているだけで、家の空気は格式高い舞台へと変わった。


「兄さんを見なさい。あんなに気高く、美しいでしょう?」


 母の言葉は、いつも氷のように冷たく、けれど正論として僕を刺した。

 鏡を見るのが怖かった。兄さんの横に並ぶ僕は、あまりにも「普通」だった。

 母が向ける視線は、兄さんに対しては熱烈な「賛辞」であり、僕に対しては、読み飛ばされた台本の余白のような「無関心」だった。

 美しくなければ、ここにはいられない。

 美しくなければ、母さんに愛してもらえない。

 その歪んだ強迫観念が、僕の幼い心に毒のように回っていった。

 けれど、神様は残酷だ。

 美しさを求めていた僕から、美しさの象徴だった家族を、一夜にして奪い去った。

 暗い雨の日。大女優も、完璧な長男も、一瞬にして冷たい物言わぬ塊に変わった。


 残されたのは、愛されるための「理由」を失った、平凡で、冴えない僕だけ。

 施設に預けられた僕の世界は、完全に色を失った。

 誰も僕を特別だとは思わない。誰も僕に期待しない。

 灰色の塀に囲まれた庭で、僕はただの「可哀想な孤児」として埋没していた。

 そんな時だった。


「……君、なんで喋らないの?」


施設の片隅、古びたベンチで膝を抱えていた少女。

木霊詠鼓。

 彼女は、周りの子供たちが騒ぐ声を拒絶するように、透明な殻に閉じこもっていた。

 誰とも目を合わせず、ただ静かに、そこにある風景の一部になりすましている。

 その孤立した姿が、当時の僕には、鏡の中にいた僕自身のように見えたんだ。

 「声」を失った彼女と、「愛される資格うつくしさ」を失った僕。


「不便だね。……でも、静かでいいかも」


 僕が隣に座っても、彼女は逃げなかった。

 ただ、驚いたように大きな瞳を瞬かせ、僕の手元の砂利をじっと見つめていた。

 言葉なんていらなかった。

 彼女がノートに書く拙い文字や、時折見せる小さな頷き。

 それだけで、僕の凍りついていた時間は少しずつ溶けていった。


 あぁ、そうだった。

 本当は、あのままでよかったんだ。

 鏡の中に「成美撫子の息子」を必死に探さなくても、詠鼓の瞳に映る僕は、ただの僕でいられたはずだったのに。

 それなのに、僕は──

 あの甘い毒のような誘いに、魂を売ってしまったんだ。


「……詠鼓……ごめん……ごめん……」


 回想の断片が、今の僕の視界と混ざり合う。

 泥にまみれ、異形となった僕の腕を、彼女がまだ離さずにいてくれる。

 平凡で、醜くて、救いようのない僕を、彼女だけが、その「本当の声」で呼び続けていた。


***


 虹色の花が、硝子の砕けるような音を立てて霧散していく。

 どろりとした闇が光に浄化され、鏡面の世界がゆっくりと元の校舎裏の風景へと溶け戻っていった。

 そこに残されたのは、銀髪でもなければ、人を陶酔させる美貌でもない。

 少し色素の薄い茶髪に、どこにでもいるような、けれど優しそうな目元をした一人の少年だった。


「……あ……」


 雪花君は、自分の手のひらをじっと見つめていた。メッキが剥がれ、さらけ出された「平凡な自分」。けれど、その瞳からは、先ほどまでの狂気じみた焦燥は消え、雨上がりの空のような静かな色が宿っていた。


「……雪花君」


 詠鼓さんが、震える足で彼に歩み寄る。

 雪花君は、一瞬だけ自嘲気味に笑い、それから深く、深く僕らの方へ頭を下げた。


「……ごめん。本当に、取り返しのつかないことをした」


 掠れた声。それは、無理に作った気高さのない、彼自身の本当の声だった。


「僕の弱さが……君たちを傷つけ、学校中を巻き込んだ。……御神君、本当に、すまなかった」


 彼が流した涙は、泥に汚れた地面を濡らした。

 あんなに美しさに固執していた彼が、今は自分の醜さも、犯した罪も、すべてを背負ってそこに立っている。その姿は、どんな幻覚の美少年よりも、僕にはずっと人間らしく、強く見えた。


「そして、君もありがとう──」


 雪花君が言いかけた時、隣で腕を組んでいた海斗君が、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「……チッ」


 海斗君は、変貌させていた両腕をいつの間にか元に戻し、ポケットに手を突っ込んだまま、顔を逸らして吐き捨てた。


「俺は、お前を助けた覚えなんてねぇ。……ただ、こいつが死ぬと後味が悪ぃから、ついでに掃除しただけだ。感謝なんてされる筋合いはねぇよ」


 相変わらず、可愛げのない言い草だ。

 けれど、そう言っている海斗君の耳元が、夕日のせいか、少しだけ赤くなっているのを僕は見逃さなかった。

 彼は彼なりに、雪花君が「こっち側」に戻ってきたことに安堵しているのだと思う。


「……ありがとう。それでも、君たちが僕を止めてくれなければ、僕は本当に僕を失っていた」


 雪花君は、もう一度僕らに向かって小さく微笑んだ。

 そして、隣に寄り添う詠鼓さんの手を、今度はしっかりと、嘘偽りのない自分の手で握りしめる。


「行こう、詠鼓。……まずは、みんなに声を返さないと」


 二人の背中を見送りながら、僕は長く、重たい溜息を吐き出した。

 夕暮れの校舎に、少しずつ、本来の騒がしさが戻り始めている。

 遠くで、声を取り戻した生徒たちの驚きや喜びの叫びが聞こえてきた。


「……さて、僕らも──」


 僕が声をかけようとした時、海斗君の背中は既に小さくなっていた。




 夕闇が本格的に校舎を塗りつぶし、点々と灯り始めた街灯が、騒乱の跡をぼんやりと照らし出していた。

 そんな喧騒を、校舎の屋上にある給水塔のさらに上、誰も見向きもしない高台から見下ろす一つの影があった。


「あーあ。結局、ありのままの自分を受け入れることを選んじゃったか」


 煤けた黒い外套が、夜風に吹かれてパタパタと不吉な音を立てる。奇怪な面の奥で、スサノオは心底退屈そうに喉を鳴らした。

 その視線の先では、平凡な少年に戻った雪花が、詠鼓に支えられながら歩いている。

 かつての輝きはない。人々を熱狂させた絶対的な「美」も、世界を欺く「声」も、すべては消え失せた。


「せっかく最高に綺麗な舞台を用意してあげたのに。そのまま自分を焼き尽くして、もっと盛大に壊れてくれれば、最高に美しい『神話』になったのになぁ」


 手すりの上に器用に腰掛け、ぶらぶらと足を揺らした。その仕草は無邪気な少女のようでありながら、発せられる言葉には、凍てつくような虚無が宿っている。


「でも、まぁいいか。今回は、あいつ──『毘沙門天』の乱入が計算外だったしね」


 颯人の隣を歩く海斗の背中を、獲物を定めるような冷ややかな目で見つめる。


「アマテラスの光と、それを守る鋼の壁。……うん、やっぱりこうでなくっちゃ面白くない」


 美琴は立ち上がり、背後から染み出してきた闇の中へと、ゆっくりと体を沈めていく。

「次は、どんな『欲望』を形にしてあげようかな。楽しみにしてるよ、颯人くん」

 風が吹き抜けた瞬間、そこにはもう、誰もいなかった。

 ただ、甘ったるい水仙の香りと、彼女が残した冷笑の残像だけが、夜の空気の中に不気味に溶け残っていた。

第三章「あるものねだり」最後までお付き合いいただきありがとうございました!

美しさに囚われた少年・雪花と、声を失った少女・詠鼓。

スサノオの甘い誘惑によって狂わされた二人が、颯人の光と詠鼓自身の「本当の声」によって救われる結末となりました。

個人的にも、海斗が毒づきながらも颯人と背中を合わせる共闘シーンや、詠鼓が呪縛を解いて叫ぶシーンは書いていて熱が入りました。

最後には黒幕であるスサノオの不穏な影も見え隠れしていましたが……。

続く第四章では、さらに加速する「神の生まれ変わり」たちの運命、そして颯人の周囲に現れる新たな波乱を描いていく予定です。


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それでは、次章でまたお会いしましょう。

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