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十話 他己陶酔

「学校のやつらの声を返せ」

「わかりました──」


 力なく項垂れた詠鼓さんが、消え入りそうな声で応じようとした、その時だった。


「待ちたまえ」


 凛とした、ガラスの擦れ合うような透明な声が僕らを制した。

 どこからともなく、むせ返るほどに甘い水仙の香りが立ち込める。校舎裏の湿った空気が一瞬で華やぎ、夕闇を撥ね退けるような輝きを纏って、彼が現れた。

 モデルがランウェイを歩くような、無駄のない優雅な足取り。


「雪花君……」


 その完璧すぎる造形に、ため息を漏らすことさえ忘れて彼の名を呼んだ。


「誰だ、お前。……チッ、吐き気のするツラしてやがる」


 海斗君は、銃口を向けたまま冷淡に吐き捨てた。雪花君はそれを気にする風もなく、陶酔したような笑みを浮かべる。


「あいにく、君のような無粋な人間と知り合うほど落ちぶれてはいないのさ。僕が用があるのは──」


 雪花君の視線が、僕を射抜く。その瞳の奥には、美しさに似合わぬどろりとした飢餓感が潜んでいた。


「なぜ、お前らは揃いも揃って颯人の命を狙う。こいつにそんな価値はないだろ」

「決まっているだろう? 僕がこの至高の美貌を保つため……その『代価』が必要なのさ」


 雪花君は、自らの頬を愛おしげに撫でた。


「さて。正々堂々一対一と行きたいところだが、せっかくだ。二人まとめてかかってきなよ。観客は多いほうがいい」

「舐められたもんだぜ。……おい颯人、足引っ張んなよ。守りきれる自信はねぇぞ」


 海斗君の言葉に、僕は小さく頷き、天照の熱を指先に宿す。


「見せてあげよう。僕の中に眠る、『ナルキッソス』の力を」


 彼が空中に手をかざすと、虚空から純白の水仙が一輪、音もなく顕現した。彼はその花びらへ、恋人に触れるような手つきで口づけを落とし、低く呟いた。


「──雪中花ナルシス


 刹那。

 雪花君の足元から波紋が広がり、校舎裏の風景が、まるで溶け出すように消失していく。

 現れたのは、鏡面のように澄んだ水面がどこまでも続く、音のない世界。足元には自分の姿が残酷なほどくっきりと映り込み、空にはただ一輪、巨大な水仙が月のように浮かんでいる。

 僕、海斗君、そして蹲る詠鼓さんまでもが、逃げ場のない「明鏡止水」の檻へと引き込まれていた。


「詠鼓さん、大丈夫!? 今すぐ安全なところに──」

「……颯人、あんな女に構ってる場合か。前を見ろ、来るぞ」


 海斗君の鋭い警告。

 波紋ひとつ立たない水面の向こう、雪花君の姿が陽炎のように揺らぎ始めた。


 鏡面の世界──雪中花の領域は、音さえも吸い込まれるような静寂に満ちていた。

 足元に広がる水面は、僕らの困惑した表情を無慈悲なほど鮮明に映し出し、空に浮かぶ巨大な水仙は、冷ややかな視線のように僕らを見下ろしている。


「どこを見ているんだい? 僕はここだよ」


 雪花君の声が、四方八方から同時に響いた。

 次の瞬間、静止していた水面が激しく波打つ。僕と海斗君を取り囲むように、十人、二十人もの「雪花」が、水底からせり上がるようにして姿を現した。


「冗談だろ……」


 海斗君が苛立ちを隠さず、左腕の銃口を最も近くにいた雪花君に向けた。

 火を噴く硝煙。放たれた弾丸は雪花君の眉間を正確に捉えた──はずだった。

 けれど、弾丸は彼の頭部を波紋のように通り抜け、背後の空間へと消えていった。


「チッ……偽物かよ」

「偽物……ふふっ、甘く見ないことだね」


 雪花君たちの嘲笑が重なり合い、不協和音となって耳を突く。

 一人の雪花君が、踊るような足取りで間合いを詰めてきた。海斗君が格闘の間合いで迎え撃とうとした瞬間、その雪花君の姿が霧のように霧散し、直後、別の個体が海斗君の死角から鋭い蹴りを放つ。


「ぐっ……!」


 海斗君の体が数メートル弾き飛ばされ、水面の上を滑る。

 おかしい。

 今、海斗君を蹴ったのは、確かに「実体」を持っていた。けれど、海斗君が反撃のために放った銃撃は、再び空を切り、標的を透過したのだ。


「海斗君! 無闇に撃っちゃダメだ!」

「わかってる! でもどれが本物かさっぱり分からねぇ!」


 雪花君たちは、まるで鏡の中を自在に行き来する惑星のように、複雑な軌道を描いて僕らの周りを舞い踊る。

 右を見れば微笑む雪花君。左を見れば、憐れむような瞳で見つめる雪花君。

 視覚から入る膨大な「美」の情報が、僕の脳を麻痺させていく。

 アマテラスの力が、僕の瞳の奥で熱を帯びている。 暗闇を照らし、真実を射抜くための力。けれど、この輝きに満ちた世界では、その光さえも乱反射し、かえって僕の目を晦ませる。


「どうしたんだい、天照大御神。君の力は、僕のこの『美』という真実を前にして、ひれ伏しているのかい?」


 雪花君の一人が、僕の鼻先まで距離を詰めてきた。

白銀の髪が僕の頬をかすめる。水仙の香りが強烈に鼻を突き、意識が遠のきかける。

 僕は反射的に、熱を込めた拳を叩き込んだ。


 ──手応えがない。


 空振った勢いでバランスを崩した僕の背中を、見えない衝撃が襲った。


「がはっ……」


 水面に打ち付けられ、肺の空気が強制的に吐き出される。

 痛い。この痛みは本物だ。

 実体のある攻撃と、触れることさえできない幻覚。

 雪花君は、この鏡の世界のルールを完全に支配している。


「立て! 狙い撃ちにされるぞ!」


 海斗君が僕の襟首を掴んで強引に引き起こす。彼の頬にも、細い切り傷が走っていた。

 海斗君の荒い呼吸と、僕の心臓の鼓動。そして、無数に増殖した雪花君たちが、優雅に衣を翻す衣擦れの音──。


 衣擦れの音?


 違和感が、僕の脳裏を掠めた。

 目の前には、二十人近い雪花君が、挑発するように口を動かし、踊り、僕らを包囲している。

 けれど、聞こえてくるのは……雪花君の声と、海斗君の怒号。そして、僕自身の呼吸音だけだ。

 これだけの人数が、これほど激しく動き回っているのに。

 水面を蹴る音、服が擦れる音、それらが「一人分」しか聞こえてこない。


「……海斗君。耳を澄ませて」

「あ? 何言ってやがる、それどころじゃ──」

「いいから! 目を閉じて、音だけを追って!」


 海斗君は一瞬、不審げに僕を見たが、僕の瞳に宿る確信の色を見て取ると、舌打ちをしながらも銃を構えたまま薄く目を閉じた。

 視覚を遮断すれば、世界は一変する。

 右から聞こえる雪花君の笑い声。左から聞こえる「美しさ」を自賛する言葉。

 それらはすべて、この世界の空気に反響しているだけで、音源は常に一定の距離を保って移動している「一つ」のものだ。


「……なるほどな。そういうことかよ」


 海斗君の口角が、獰猛に吊り上がった。

 次の瞬間、僕らの背後から「殺してあげるよ」と雪花君の声が響いた。

 同時に、正面から五人の雪花君が襲いかかってくる。

 海斗君は正面の五人を一瞥もせず、真後ろ──誰もいないはずの虚空に向けて、躊躇なく引き金を引いた。


 空気を裂く銃声。

 何もないはずの空間から、短い悲鳴が上がった。

直後、僕らの正面で襲いかかってきていた五人の雪花君が、ガラスが砕けるような音と共に、一斉に霧散する。


「……なぜ、分かった」


 少し離れた水面に、肩を抑えて膝をつく雪花君がいた。

 その周囲には、まだ数人の分身が残っている。けれど、今の銃撃で雪花君の完璧なポーカーフェイスは崩れ、その美貌には明確な「焦燥」が刻まれていた。


「お前の分身は完璧だよ。姿も、表情も、間合いもな。……だけど、詰めが甘いんだよ、美少年様」


 海斗君が、立ち上がろうとする雪花君に銃口を固定する。


「お前の分身は『喋らない』。いや、喋れないんだ。音がしねぇんだよ」


 一拍。冷淡な間を置き、続ける。


「いくら大勢に見せようが、喋っているのは常に一人だけだ。お前がどんなに美しく踊ろうと、その幻覚に『声』を宿すことはできなかったみたいだな」


 僕は、海斗君の隣で確信を持って言い放った。


「雪花君。君が操れるのは、光の屈折……幻覚だけだ。分身に心臓の鼓動も、言葉を紡ぐ喉も持たせることはできない。そうでしょ?」


 雪花君は沈黙した。

 その顔には、美しさを否定されたことへの屈辱と、秘密を暴かれた子供のような無防備な表情が浮かんでいた。


「……あはは。……あはははは!」


 雪花君が、狂ったように笑い出した。

 その笑い声は、先ほどまでの優雅な旋律ではなく、どこか壊れた楽器のような、悲痛な響きを帯びていた。


「すごいね、二人とも。僕の『雪中花』の欠陥を、そんなに早く見抜くなんて。……でも、だったら、足りないものを補えばいいだけのことだよ」


 雪花君が、這いつくばっていた詠鼓さんに視線を向けた。


「詠鼓。……君の出番だよ」


 その瞬間、僕の背筋に氷のような寒気が走った。

 そうだ。この場にはもう一人、「声」を操る者がいる。

 雪花君の背後に、影の中から滲み出るようにして、詠鼓さんが立ち上がった。

 彼女の目は、もはや僕らを見ていない。ただ、愛する人の欠けを埋めるためだけの、壊れた部品のような献身を宿して。

 静寂に包まれていた鏡の世界に、不気味な「重奏」が響き始めた。

 消えかかっていた分身たちの喉が、あり得ない角度で震え出す。


 第一ラウンドの終わり。

 そして、本当の地獄のような「合唱」が、始まろうとしていた。


「雪花君。私、頑張るよ」


 詠鼓さんのその一言を合図に、世界の密度が急上昇した。


子騙し(エーコー)


 放たれた神の力が、鼓膜を震わせる。

 それは情報の津波だった。数秒前まで「一人分」しかなかった音の出処が、瞬時に爆発的に増殖する。

 水面を叩く無数の足音。衣擦れの音。そして、何十人もの雪花君が一斉に、異なるトーンで嘲笑を吐き出した。


「さあ、見失わないでおくれよ」


 一人の分身が右から語りかけ、別の分身が左から囁く。

 雪花君の「視覚的幻覚」に、詠鼓さんが奪った「他者の声」が命を吹き込んだのだ。鏡の世界は、もはや静止画のギャラリーではない。

 一人一人が人格を持ち、意志を持って襲いくる悪夢の舞踏会場へと変貌していた。


「クソっ、本当に全部の個体から音がしてやがる!」


 海斗君が苛立ち混じりに放った銃弾は、笑い声を上げる分身の胸を虚しく透過した。

 実体は一つ。だが、その一つの実体が「音」の迷彩を纏い、無数の幻覚の中に完全に溶け込んでいる。僕らの五感は、もはや正常な判断を放棄し始めていた。


 こうなったら……。


「海斗君、この領域の隅から隅までを銃弾で埋め尽くせる?」


 僕の叫びに、海斗君が目を見開く。


「こんな狭い空間でそんなことしてみろ、お前にも当たるに決まってんだろ」

「僕を信じて。全部、避け切って見せる」


 僕の視線と、海斗君の視線が真っ向からぶつかった。

 一瞬の沈黙。海斗君は低く、野獣のような唸り声を上げると、自嘲気味に口角を上げた。


「……どうなっても知らねぇからな。地獄に行くなら一人で行けよ」


 海斗君の両腕が、鉄の軋む音を立てて変貌していく。

 二条の巨大な回転式多銃身型機関銃ガトリングガンそれは「歩く兵器」としての彼の真価だった。

 

「アマテラス、避けきれそう?」


 僕は意識の深淵、魂の奥底に座す「太陽」へ問いかける。


「──朝飯前だ」


 意識が急速に遠ざかる。

 それと引き換えに、僕の視界は白銀の輝きに塗りつぶされた。数秒間だけ、僕の体は僕のものではなくなる。


「──吹き飛べッ!」


 海斗君の叫びと共に、銃口が火を噴いた。

 凄まじい轟音。数千発の弾丸が、全方位に向けて文字通り「空間を塗りつぶす」ように掃射される。回避不能の鉄の雨。

 その嵐のただ中で。

 アマテラスの体は、踊るようにして弾丸の隙間をすり抜けた。

 世界が極限まで引き延ばされたスローモーションへと変わる。

 僕の頬をかすめる弾丸の熱。水面を抉る衝撃波。それらすべてが、八咫鏡の反射のように、僕の肉体を一ミリの狂いもなく回避していく。

 雪花君が「信じられない」といった表情で硬直しているのが見える。

 数秒前まで僕らを翻弄していた美少年たちの幻覚が、海斗君の無慈悲な弾幕によって次々と、紙屑のように撃ち抜かれ、霧散していく。


「馬鹿な……僕の、僕の完璧な世界が……!」


 偽りの花園が、鉄の嵐によって更地に変えられていく。

 そして、弾丸の雨が止む寸前。

 無傷で立ち尽くす僕の目の前には、肩を激しく上下させ、逃げ場を失った「唯一の実体」が、惨めに立ち尽くしていた。


「どうやら分身も無限じゃねぇようだな」


 硝煙を吐き出す銃口を向けたまま、海斗君が冷たく言い放った。

 周囲に散らばっていた無数の「雪花」はすべて消え去り、静まり返った鏡面の世界に残されたのは、肩を大きく上下させ、屈辱に顔を歪める本物の雪花君だけだった。


「……あ、あぁ……!」


 雪花君の瞳が、激しく泳ぐ。

 海斗君の放った鉄の嵐は、彼のプライドそのものをズタズタに引き裂いていた。一度「偽物」だと見破られれば、美しさはただの虚飾に成り下がる。


「終わりだ。お前のその薄汚ぇメッキ、全部剥がしてやるよ」


 海斗君が容赦のない一歩を踏み出す。その圧倒的な強者の重圧に、雪花君の理性がついに悲鳴を上げた。


「嫌だ……嫌だ、嫌だ! 僕は、僕は綺麗なままでいなきゃいけないんだ! あの惨めな、誰からも見向きもされない僕に戻るくらいなら……!」


 雪花君は背後に這いつくばっていた詠鼓さんへと、豹変したような速さで手を伸ばした。彼女が握っていたカッターナイフを力任せに奪い取り、そのまま彼女の細い喉元に刃を押し当てる。


「雪花君……?」


 驚きに目を見開く詠鼓さんを、雪花君は震える腕で羽交い締めにし、僕らに向かって叫んだ。


「来るな! 動けば、この女を殺すぞ!」

「お前……自分を助けようとした奴を盾にするのかよ。どこまで腐ってやがる」


 海斗君の瞳に、軽蔑を超えた怒りが宿る。けれど、雪花君はもうまともな対話ができる状態ではなかった。


「うるさい! 僕は、僕は 輝いていなきゃいけないんだ! なぁ、詠鼓……君だってそう思うだろう? 僕が醜くなったら、君も僕を捨てるんだろ!? そうなんだろう!?」


 狂乱する声。その時、鏡の世界の空気が、これまでにないほど不吉に震え始めた。


「……あ」


 雪花君の指先から、銀色の輝きがポロポロと剥がれ落ちていく。

 鏡の中に映る彼の姿が、歪み、溶け始めた。透き通るような白銀の髪はくすんだ色に変じ、整った顔立ちは、どこにでもいる、あまりにも平凡な少年のそれへと巻き戻されていく。


「やめろ……見るな! 僕は美しいんだ……僕は……僕はぁぁ!!」


 その瞬間だった。

 雪花君の胸の奥から、心臓を握りつぶすような、どす黒い負の神気が噴き出した。

 悲鳴さえも飲み込むほどの絶望と、自分自身への嫌悪。極限まで高まった精神的苦痛が、神の生まれ変わりの肉体を内側から破壊し始める。


 ──『灰燼かいじん』。


 鏡面の世界が、バリバリと音を立てて砕け散った。

 雪花君の背後から現れたのは、光を吸い込む漆黒の影。

 彼が守りたかった「美」への執着は、すべてを無に帰す暴走の炎へと変貌し、周囲の空間を侵食していく。


「雪花君……!」


 詠鼓さんの悲痛な叫びも、もはや今の彼には届かない。

 瞳から光を失い、どろりとした闇を纏った雪花君が、壊れた人形のように首を傾げた。


「……あぁ、そうだ。すべて消えればいいんだ。僕を醜いと笑う世界なんて……全部、灰になればいい……」


 人質に取っていた詠鼓さんをゴミのように放り出し、雪花君を中心に、世界を終わらせるための黒い波動が広がっていく。

 僕と海斗君の前に立ちはだかったのは、かつての美少年ではなく、ただ「消えたい」と願う魂が形を成した、異形の暴走者だった。

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