一話 邂逅
深夜のニュース番組。山奥で人知れず流れる清水のような無関心。
薄く広い画面、そして滑らかに動く映像。箱型から進化を遂げ、現代の不安を映し出している。
独り語りするアナウンサーの機械的な声。まるで、血が通ってない。氷の破片で空気を切り裂いているかのように冷えきっている。椅子に座る彼女は一体どんな色のトップスを着ているのだろう。僕にはわからない。
テレビから視線を動かす。ソファも絨毯もテーブルも、全てが色を忘れた砂絵のように白黒時々灰色。
色は光だ。光を失った今、僕の世界に彩りはない。
『御神美琴さん十二歳、行方不明。捜索隊が──』
耳元で鳴り響く鈍い警鐘が鼓膜を震わす。痛みに突き動かされるように、リモコンの電源をボタンを押し潰した。だめ。それ以上は言わせない。
あなたのせいで人が不幸になりました。
そう、世界そのものに罪状を読み上げられている気がしたから。
闇に溶けた画面を眺める。さっきまで喋っていたアナウンサーの姿はない。そこには、返り血を浴びたように汚れた怪物が呆然と佇んでいるだけだ。
僕が殺した。あぁ、そうだ。全部僕のせい。
「──酒くさ」
鼻の下を人差し指で擦った。
僕の引き取り手である叔母さんが、ビール缶に囲まれながら机に伏している。不規則な呼吸が夜半の静寂を引き裂いて響く。
乱れた髪、はだけたシャツ。腕枕から垣間見える顔には中途半端に剥がれた化粧。目の下には深い隈ができている。
「お前さえいなければ……あの人は、あの子は……」
爪が食い込んだ手のひら。滴る血が小さな島を作っている。歪に閉ざされた瞼に浮かんでいるだろう景色を想像した。
夢の中でまで僕を殴らないで。
言えるわけがない。彼女もまたこの疫病神の被害者なのだから。
僕は玄関のドアノブに手を掛けた。
夜風が僕に対する世界中の軽蔑と憎悪を運んでくる。ひとりでに顔が歪んだ。匂いが一層濃くなった。
『灰を被った呪いの子。生きてはいけない邪悪な子』
うるさい。臭い。黙れ。言われなくてもわかってるから。
フードを深く被り、逃げるように走り出す。剥がれかかった靴底がペタペタと音を立てる。嫌な音。僕はここにいるよって咽び泣く子どもみたいな音。
明かりの消えた街。点々と佇む街頭がスポットライトのように、照らしたり突き放したりする。
巡る灰色の世界。流れ着いたのは、取り壊し予定の廃病院。通学で前を通るたびに思っていた。死ぬならここだな、と。
善意に委ねられた意味のないテープがだらしなく垂れ下がる入り口。
僕は潜り抜けた。なんてことはない。何人もの人を不幸にしてきた罪に比べれば。むしろ称賛されるべきだ。世界を好転させる一歩を踏み出したのだから。
月明かりに照らされた部分の埃が可視化されている。それだけで咳が込み上げてきて、思わず息を止めた。
上を目指して階段を登る。霊でも出そうな雰囲気。今この瞬間に呪殺されてもおかしくない。そう考えると、ちょっとだけ笑えた。
屋上への扉を開け放った。今日の瞬間最大風速を記録した。
空に手が届きそう。僕の人生のような真っ暗闇がどこまでも続く。僕は思わず躍り出た。
すっぽりとフードが脱げ、露わになった髪が風に靡く。灰を被ったこの髪が。
生まれた時から、焼け跡のような灰色の髪。月明かりに照らされてもなお、お世辞にも美しいとは言えない。
握った手が痛むほどに冷気を帯びた、身の丈ほどの鉄柵をよじ登る。
かろうじてかかとが乗る程度の隙間に立ち、後ろ手で柵に捕まる。そして、色のないの世界を見渡した。
不安と混沌の匂い。
僕が生まれ落ちた年、世界の崩壊が始まった。
元から存在していなかったが如く突然、人が姿を消す。そんな事件が増えた。
それは、父さんも母さんも、叔母さんの最愛の人さえも奪った。
僕の身近な人から灰を被る。やがて、世界へと広がる。
人は呼んだ。「灰色の呪い」と。
罪を清算する時が来た。
もう、十分だ。世界をこれ以上汚さないためには、自分を消すしかない。
下界の喧騒が、遠くから聞こえてくる。クラクションの音、エンジンの唸り。だが、すべてがぼんやりと霞む。心臓の鼓動だけが、激しく鳴り響く。
最後の深呼吸。
肺に満ちた夜気が、腐った鉄の味がした。
あぁ、これが僕が最後に味わう世界の味なんだ。
世界が、ゆっくりと傾く。
足元がふいに遠のいた。
もう、後戻りはできない。
僕は飛び出した。
風が耳元で咆哮する。
時間が溶け始めた。体が浮き、灰色の髪が水の中を泳ぐように後ろへ激しくなびく。ビルが後退し、夜空が広がる。
落ちる。落ちる。落ちる。
地面が迫る。道路の灰色の帯、アスファルトの冷たい輝き。車のライトが、点滅する星屑のように瞬く。
灰色の呪いが、灰色の大地に還る。
固く目を閉ざした。なのに、瞼の裏に──
『──颯人』
母さんが笑った日の茜色。
父さんが肩車してくれた空の、どこまでも深い青。
初めて色が溢れた。初めて世界が美しく見えた。
「ごめんなさい」
いつまで待っても痛みが来ない。覚悟が肩透かしをくらう。代わりに、眩い光が全身を焼き尽くすように包んだ。
「──ったく、この俺の生まれ変わりだってのに情けねぇな」
初めて聞く声。粗暴な口調なのに、干したての洗濯物のような、ぽかぽかするいい匂い。
淡く、目を開ける。白だ。白が飛び込んできた。
痛みも冷たさも音も何もかもが焼き払われた白。
僕は浮いている。あるいは沈んでいる。
どちらでもいい。
ただ、熱い。全身が太陽の表面に投げ込まれたように熱い。
その熱の中心に、誰かがいた。
いや、「誰か」ではない。
そこに「在る」だけで空気が震えて、僕の魂が土下座しそうになる。
「──よく来たな、御神颯人」
声ではない。でも確かに伝わってきた。
名前を呼ばれた瞬間、涙が零れた。
呼ばれてはいけない名前が、許された気がした。
視界が畝り、歪む。
燃える岩戸。泣きじゃくる神々。闇に閉ざされた大地。
そして、岩戸が開いた瞬間
世界を焼き尽くすほどの光。
あの光が、今、僕の目の前にあった。
──あなたが。
神は微笑んだ。
太陽が、静かに笑った。
「お前は、俺だ。灰色の歴史に終止符を打つ光になれ。颯人」
僕は泣きながら頷いた。
初めて、自分の存在が許された気がした。
「……ガハッ……! ハァッ……ハァッ……」
夢がゆっくりと終わりを告げるように光が収束した。僕は冷たさが突き刺さるコンクリートの上で天を仰ぎ、陸に打ち上げられた魚のように体をビクビクと痙攣させている。
肩が上下する感覚。はち切れそうなほどに高鳴る鼓動。それらが生きてることを実感させる。
飛び降りた事実を虚構へと押しやり、本来味わうはずだった苦しみの残滓を錯覚した。
「生き……てる……」
夢……?
抱いた疑念を取り払うように、右の手のひらが熱くなった。
見れば、手のひらに光が集約している。やがて、その光の集合は一枚の鏡を成した。円形で、古びた銅の縁。表面には何も映らない。ただ、熱い。小さな太陽を握りしめているように。
「あー、あー、聞こえるか? 颯人」
「うわっ……」
鏡が光り、中から粗暴でどこか懐かしい声が響き渡る。思わず取り落としそうになったのを慌てて握り直す。
冷たいアスファルトに座り込んだまま、息を荒げながらそれを見つめた。
「えっと、さっきの……」
「あぁ。お前の前世、天照大御神だ」
声がクスッと笑い、言葉を紡ぐ。
「ったく、情けねぇ顔してんな。泣き腫らした目が赤いぜ」
表面が淡く揺れた。何も映ってないはずなのに、太陽のかけらが浮かんでいるように見えた。
神様ってこんなフランクなのか。いや、そうじゃない。
頭がぐちゃぐちゃだ。神様? 前世? 全てが夢と現実の間で揺れている。
「全然理解が追いつかないんだけど……」
僕は鏡を握りしめ、深く息を吐いた。
「ま、無理もない。お前みたいなガキに、いきなり神の歴史を押し付けりゃな。簡単に済ませるぞ──遙か昔、神々は戦争をおっ始めた。天界の連中と、闇の勢力との激突だ。結果、神々はほとんど滅びた」
声は一拍置いた。
「俺たちは力を潜ませ、魂を人間に転生させて待つしかなかった。それがお前、俺の生まれ変わり。この世界を覆う『灰色の呪い』は、あの戦争の延長戦みたいなもんだ。闇の勢力、神獣どもが人間を食らい、力を肥やしている。だからお前は──」
言葉が途切れる。
焼けるような熱さが、手のひらを突き刺す。鏡の縁から漏れる光が、白から毒々しい赤へと変わった。脈打つ熱源を必死に握りしめていると、粗暴だったはずの声が、数千年の時を重ねたような重みを持って響いた。
「──ちっ。遅かったか」
「え?」
次の瞬間、屋上の扉が破裂したような音を立てて開いた。黒い影が、夜の帳から染み出した墨のように屋上に流れ込み、月明かりを喰らい尽くす。
「ガアアアアア……!」
それは、色を失った灰色の毛皮と、光を反射しない漆黒の瞳を持つ、巨大な狼だった。腐った鉄と、わずかに焦げた肉のような臭気が噴き出している。
「何……あれ……」
恐怖で体が動かない。飛び降りようとした時の覚悟は、本能的な恐怖の前で脆くも崩れ去った。
「下級神獣、魔狼。ちょうどお前に宿る『権能』について説明しようと思ってたところだ。百聞は一見に如かず。戦うぞ、颯人!」
天照の声は、鏡の中で極度の焦燥を帯びていた。
魔狼は、獲物を見定めた獣の獰猛さで、その漆黒の瞳を颯人に向けた。巨大な体が音もなく地面を蹴り、恐ろしい速度で迫る。
「戦うって……どうやって……」
「ガアッ!」
けたたましく迫り来る唸り声。しかし、足は縫い付けられたように動かない。体が震えて、まるで鉛になったみたいだ。
『灰を被った呪いの子』
『お前さえいなければ……』
叔母の呪詛、世界からの軽蔑。それらが、この怪物の存在と重なる。
行方不明事件、無差別殺人事件。全部自分のせいだと思っていた。
──逃げたら、また誰かが消える。世界がまた汚れる。
その時、理不尽なまでの怒りが、恐怖を焼き払った。
『お前は、俺だ──』
アンタは、僕なんだろ。
わかる。手に取るようにわかる。この体に宿る神の力──反射的に、胸の高さで鏡を掲げた。
「貸す……! この体を! アンタに!」
その瞬間、鏡が太陽のように光を放ち、僕の全身を覆った。
「あっつ……」
全身が内側から沸騰するような灼熱に襲われる。握りしめた鏡が手のひらを焦がし、その光が灰色の髪を燃えるような輝きに変えた。
そして、体が勝手に動いた。
魔狼の鋭い爪が振り下ろされる直前、僕の肉体は信じられない速度で横へ跳躍した。流れるような回避。それは、僕自身の動きでは断じてなかった。
「ったく。人任せ、いや、神任せかよ──だが」
荒々しい、しかし威厳のある声が、颯人の口から響いた。
「上出来だ!」
着地し、すぐさま姿勢を正す。
声質は同じなのに、口調が、人格が完全に天照大神に切り替わっている。
「闇の残滓風情が。この俺の生まれ変わりに手を出すたぁ、いい度胸だ!」
一瞬の躊躇もなく、手のひらで魔狼の胸を貫いた。獣の拍動が、血液が、生きていた証が、生々しく肌に伝わってくる。
「ガウッ……!」
勢いよく引き抜く。風穴から闇が漏れ出し、狼狽える魔狼。
「オラァッ!」
夜の静寂を切り裂く、灼熱の打撃音。魔狼は苦悶の叫びを上げる間もなく、夜空へと吹き飛ばされ、そして霧散した。
「ふぅ……お疲れさん」
数秒の時間が永遠のように感じられた後、光が急激に収束した。鏡の熱が消え、体は鉛のように重くなる。
「……ガハッ……!」
血の臭いがツンと鼻を突き刺し、すぐさま鉄の味が込み上げてくる。口から血を吐き出し、膝から崩れ落ちる。手のひらは鏡の縁の形に赤く焼け、激しく脈打っていた。また、体中の関節が外れそうなほどに悲鳴を上げている。
「お前の体は、まだ俺の力に耐えられねぇ。無理に使えば、すぐに体が潰れる。肝に銘じておけ」
天照の声が鏡の中で遠のくように消え、僕はただ息を荒げて地面にへたり込んだ。手のひらの鏡は今やただの冷たい金属の塊で、さっきまでの熱は幻だったかのように跡形もなく失せていた。体中が痛みで悲鳴を上げ、筋肉の一本一本が引き裂かれたように震えている。吐いた血の鉄臭いが鼻腔にこびりつき、吐き気が込み上げてくる。
「これが、神の力の代償……」
独り言のように呟きながら、ゆっくりと立ち上がろうとする。膝がガクガクと笑い、やっとの思いで体を支えられた。
世界はまだ灰色。でも今はそれが少し違う意味でぼやけている。疲労と痛みのせいだ。
鏡をポケットに押し込み、屋上から離れる。もう飛び降りる気なんて、これっぽっちも残っていない。生きる意味が、突然与えられたような気がする──いや、強引に押し付けられたのかもしれない。
でも、それでいい。少なくとも、今は。
息を整え、よろよろと足を進める。開け放たれたままの扉の向こうの闇が、僕を飲み込もうとしている。そこから階段へ。壁に手を伝い、まるで掴まり立ちする子供のように体を預けながら、一段ずつ下りていく。
不思議だ。下っているはずなのに、僕の人生は上に向かっている気がする。死の淵から引き戻され、天国からゆっくりと地上に降り立っていく──そんな感覚。
最後の一段を踏み締め、埃っぽいロビーを抜ける。立ち入り禁止のテープを再び潜った。
外の空気を目一杯吸い込み、空を見上げる。東の空が薄らと明るみを帯び始め、朝と夜の狭間で揺らぐ雲が広がっていた。
もうこんな時間か。一体どれだけの時間をここで過ごしたのだろう。
剥がれた靴底の音が軽い。死へ向かうだけだったはず時間が、かけがえのないものに変わった。
ズボンのポケットを弄る。柔い温もりがそばにいるよって寄り添うみたいに手に触れる。それを手のひらに乗せ、顔の前に持っていった。
「天照……大御神……さん?」
「アマテラスでいい。それで、なんの用だ?」
「そっか、アマテラス。──ありがとう」
表情を顔に出すのが嫌いだった。頬にできた傷が、息をするたびに疼くから。でも、今はその痛み名前さえ風に溶けている。
「颯人。空、見てみろ」
イタズラっぽい笑みを含んだアマテラスは「ほら」と急かすように促す。導かれるように、空を見上げた。
僕は息を呑んだ。息を呑む音さえ、奪われた。
橙、藍そして青。いや、それだけじゃない。僕の語彙じゃ言い表せない名も知らぬ中間の色。無数に咲き乱れ、混ざり、滲む。まるで宇宙のように果てなき階調を成している。
「……綺麗だね」
アマテラスが、鏡の中で小さく息を吐くような音を立てた。まるで、遠い神話の時代から吹き抜ける風のように。
「綺麗、か。実に人間らしい。だが、お前が心を取り戻し始めてる証だ」
僕は空から視線を外せなかった。雲の隙間から差し込む朝の光が、灰色の街並みを優しく染め始めている。橙が金に変わり、藍が薄い紫に滲む。世界が、ゆっくりと息を吹き返しているみたいだ。
「お前は俺の生まれ変わり。灰色の呪いを終わらせる光だ。闇の残滓どもを焼き払え。生きて、戦え。それがお前の役目──いや、運命だ」
アマテラスの声が、鏡の表面を淡く揺らした。熱が再び手のひらを温め、痛みが少し和らぐ。さっきの戦いの余韻が、体に刻み込まれている。でも、それは苦痛じゃなかった。証明だ。僕がここにいる、生きている証明。
「わかった」
言葉が自然に出た。頷く代わりに、鏡をポケットに戻す。温もりが、胸の奥まで染み込んでくる。
剥がれた靴底が、アスファルトを軽く叩く。家へ向かう道。夜の闇が薄れ、街が目覚め始める。クラクションの音、人の気配。すべてが、昨日までとは違う色を帯びている。
灰色の髪が朝風に揺れた。月明かりの下では醜く見えたそれが、今は太陽の光を反射して、かすかに輝く。呪いじゃなく、光の証。
僕は歩き続ける。世界を救うなんて、大それたことじゃない。ただ、生きる。一歩ずつ、前へ。
空は果てしなく広がっていた。僕の新しい始まりのように。
家までの道は、思ったより短かった。朝の光が街を優しく照らし始め、僕の足は自然と速くなっていた。灰色の世界が少しずつ色を取り戻すように。
ドアを開けると、部屋の中はまだ夜の残り香を纏っていた。カーテンが閉め切られ、薄暗い。ビール缶の山は変わらず、叔母さんはソファに座ったまま、ぼんやりとテレビの暗い画面を見つめている。
でも、何かが違う。
彼女の影が、床に異様に長く伸びている。いや、影じゃない。黒い霧のようなものが、叔母さんの体からゆっくりと這い出て、部屋の隅に溜まっていく。灰色の呪いの気配──いや、もっと濃い、闇の残滓だ。さっき屋上で戦った魔狼に似た、腐った鉄の臭いが微かに漂う。
叔母さんの目は虚ろで、瞳の奥に小さな黒い点が揺れている。まるで、何かに食い荒らされかけているみたいに。
僕が入ってきた気配に、ようやく顔を上げた。
「遅かったじゃない、颯人」




