ノンストップエクスプレス パッキー・マクファーランド(1888-1936)
マクファーランドは白人の人気ボクサーだったにもかかわらず、強力なプロモーターの傘下に入らなかったこともあって、無冠に終わった極めて稀な例と言えよう。それでもどこのリングでも引っ張りだこだったため、世界チャンピオン顔負けの収入があったのだから大したものだ。しかも婚約を機に愛する女性のためにリングを去るというところも恰好良すぎる。金や地位に執着しないところも彼の人気の秘密だったのだろう。
アプトン・シンクレアの出世作である『ジャングル』は、シカゴのユニオンストックヤードで暮らす労働者たちの惨めな絶望の日々を描いた、一種の社会主義小説である。この小説が刊行された一九〇六年のストックヤードでは、多くの移民が精肉関係の工場で働いていたが、資本家による無慈悲な搾取はとどまるところを知らず、貧困と退廃が渦巻く物騒極まりない世界が存在していた。
アイルランド移民の子孫であるマクファーランドは、荒んだ環境で幼少時代を過ごしながらも品行方正で温厚な少年に成長していったが、ここで無難に生き抜くには暴力は避けて通れないものであり、彼もまた売られた喧嘩を拒むわけにはゆかなかった。
アメリカ人としては小柄ながら天性の反射神経とパンチ力のおかげで喧嘩に負けることはなかったが、いつの間にか勤務先の工場の休み時間ともなると、ギャラリーが取り囲む中で殴り合いを演じるのが日課になっていたという。
そのうち殴り合いすなわちボクシングこそ天職であると悟ったマクファーランドは一九〇四年、十五歳でプロボクサーとなり、シンクレアの小説でストックヤードが世間の注目を浴び始めた頃には“ストックヤードのアイドル”としてシカゴ中で大変な人気者になっていた。
マクファーランドは二十世紀初頭のボクシング界では稀に見るパーフェクトボクサーだった。
鋭いジャブと華麗なフットワーク、頭脳的な試合運びと非の打ち所がなく、同時代の中量級最高のリングマスター、ジョー・ガンスやベニー・レナードに勝るとも劣らないと評価されていたほどだ。
これほどの逸材でありながら、今日その名を知る人が少ないのは、ひとえに世界チャンピオンになれなかったことに尽きる。
一般にコンビネーションブローの効用を世に知らしめたのはベニー・レナードと言われているが、八歳年長のマクファーランドも実戦で用いていた。
レナードが「ゲットーの魔術師」の異名どおり、スピードとフェイントを交えあらゆる角度からパンチを繰り出してくるのに対し、マクファーランドはやや動きが直線的で防御面で劣るぶん、返しのパンチを浴びる危険性もあったが、キャリア初期に三度ものKO負けがあるレナードよりはるかに打たれ強く、単発でも相手をグロッギーに陥れるだけのパンチ力も有していた。
つまり、レナードは非力さと打たれ弱さをカバーするために変幻自在のコンビネーションに磨きをかけ、打たせずに打つボクシングを完成させたが、全てのバランスが取れているマクファーランドは穴の少なさこそが最大の長所だったと言えるかも知れない。
いくら防御の達人といっても、全てのパンチを避けるわけにはゆかず、クリーンヒットでなくとも強打者の一撃はしばしば試合の流れを変えるものだ。裏を返せばKOパンチを持たないボクサーの終盤の逆転劇はほとんど期待できない。
ボクサーとしてのスキルはほぼ互角でありながらマクファーランドとレナードの勝率が大幅に異なっているのは、そのあたりが大きく影響していることは間違いない。フェザー級屈指の名王者ウィリー・ペップが、マクファーランドの進化形と呼ばれるのは、デビューからの六十二連勝に象徴されるように、タフな技巧派でこれといった弱点がないため、格下には絶対に取りこぼさなかった点が似ているからである。
マクファーランドのパーフェクトなボクシングはファンを魅了したが、そつがなさ過ぎるがゆえに試合経過を文章にするとありきたりの賛辞のようになってしまうため、ボクシングライターはその凄さを説明するのに苦労したという。それだけに「無冠の帝王」の座に甘んじた数多くの悲劇のヒーローの中でもマクファーランドこそ最強だったという意見は今や定説と化しているようだ。
恐るべきはその戦績で、一〇六勝一敗(五〇KO)六引分とするものから七〇勝〇敗(五〇KO)五引分とするものまで研究者による統計の結果は様々だが、一九〇五年から一九一六年までは無敗というところだけは一致している。
第二次大戦前のボクサーは概して試合数が多く、百試合を越えるキャリアを持つ者もざらにいる反面、ローカルファイトの試合記録が散逸しており、世界チャンピオン経験者でさえ正確な戦績が把握されているとは言い難い。古い新聞や雑誌から見落とされていた試合が発見されるたびに戦績が書き換えられてゆくのはそのためだが、せっかくの“発掘物”にしても、単なる試合結果の記載だけで公式戦なのか地方興行の草試合なのか判明しないことも珍しくない。
ましてやローカルファイトが多いマクファーランドの場合は、当時よく見られたKO以外は無判定という条件付きの試合も多数こなしており、勝敗が公式記録なのかどうか判別が困難なものもある。ゆえにニュースペーパー・ディシジョンの可能性が高いものまで含んだ戦績と公式戦として疑問の余地があるものを省いた統計では数字が大きく異なっているのである。
中でも最大の問題は一九〇四年七月十三日、ダスティ・ミラーに喫した六回判定負けを公式記録と見なすか、ニュースペーパー・ディシジョンと見なすかで研究者の間でも意見が異なることであろう。もしこの敗北を無判定試合とすると、少なくとも無敗の七〇連勝となりフロイド・メイウェザー・ジュニアの五〇戦全勝という不倒記録を大幅に上回る。
仮にニュースペーパー・ディシジョンの勝敗を全て公式記録に含めると、WBC世界ライト級チャンピオン、ペドロ・カラスコと並ぶ九十二連勝となり、現在はこれをボクシング界の最長連勝記録として公認する団体が多い(第三位がシュガー・レイ・ロビンソンとフリオ・セサール・チャベスの八十九連勝)。
連勝記録というのは、無理にKOを狙わずポイントをリードした状態で形勢が不利になればアウトボックスして逃げ切れるオールラウンダーでなければ継続してゆくことは難しい。KO決着に執着し過ぎるとペース配分を誤ったり、焦って大振りになったところにカウンターを狙われたりする可能性が高くなるからだ。
「倒し屋」として無敵ぶりを発揮していたジョージ・フォアマン、マイク・タイソン、ウィルフレド・ゴメス、カルロス・サラテが連勝をストップされたのはいずれも予期せぬKO負けだったように、歴史に残るような強打者といえども、オーバーペースや減量苦に起因するスタミナ切れに陥ると意外なほどの脆さを見せてしまう。
その点、マクファーランドはロビンソンやチャベスのように倒しにゆくことを前提に連勝記録を伸ばしていったところに価値がある。しかもロビンソンとチャベスはカウントアウトされたことこそないものの、TKO負けは経験しているのに対し、マクファーランドはストップ負けのピンチとも無縁だった。
一九七〇年代のウェルター級の名王者ブルーノ・アルカリは選手生活の晩年も衰えを見せることなく六十二連勝中のまま引退したが、キャリア初期の二度の敗北がいずれもTKO負けだったため、「難攻不落」というほどの印象はなかった。
マクファーランドは接戦や一方的にラウンドを支配しながら倒しそこなった試合でさえ余裕の表情で、まるでボクシングを楽しんでいるかのように見えたという。
種々の統計資料でもほぼ数字が一致する一九〇六年までの戦績は、真偽不明の一戦を除けば三十七勝(二十九KO)と素晴らしく、地元のアイドルというのもだてではなかった。屠殺場の血の臭いと工場の煤煙に包まれた暗い世界から光り輝く世界へと羽ばたこうとしている若き英雄はまだ十八歳だった。
一九〇八年二月二十一日、後の世界ライト級チャンピオン、フレディ・ウェルシュとの一戦は世界王座への橋頭堡となる大事な試合だった。
「ウエールズの魔法使い」の異名をとるウエルシュはジャブの名手として名高く、対戦相手を寄せつけないアウトボクシングを身上としていたが、マクファーランドは素早いコンビネーションブローで堅いガードを突き破り判定勝利をもぎ取った。
両者の素晴らしいテクニックの応酬に興奮した大勢のファンの後押しもあって、リターンマッチ、ラバーマッチも実現したが、二度とも引き分けでマクファーランドの勝ち越しとなっている。
タフな試合が続くマクファーランドは、二ヶ月後にはジミー・ブリットを六回TKOで下し、世界をぐっと手繰り寄せた。ブリットは同年七月に世界王座に就くバトリング・ネルソンと一勝一敗一引分と五分の星を残しているほか、ヤング・コーベット二世に勝ち、テリー・マクガバンと引き分けているほどの強豪だったのだ。
一九〇九年はマクファーランドにとって最大の試練の年だった。
九月十九日のレイ・ブロンソン戦は初回にプロ入り初のダウンを奪われたマクファーランドが四回にダウンを奪い返してなんとか逆転勝利を収めたものの、十一月八日のサイクロン・ジョニー・トンプソン戦は同郷人のレフェリー、ジョー・コフィーによる露骨な身贔屓判定に救われている。
ダウンを奪われたうえ、左目は腫れあがり口元から出血までしているマクファーランドは、レフェリーから右手を上げられた時でさえ「俺勝ったの?」ときょとんとしていた。
小柄でタフなテクニシャンであるトンプソンは、マクファーランドが下がりながら放つカウンターのアッパーを再三浴びながらも攻撃の手を緩めず、乱打戦に持ち込んだことで有利に試合を運んだと言えるかもしれない。最終十ラウンドは両者ともに目尻から出血し、疲労困憊となってめっきりと手数が減ったためKO決着とはいかなかったが、高度な技術を持つ二人が派手な肉弾戦を演じた好試合だった。
拾いものの勝利に「これで俺がネルソンをスクラップにするのを邪魔する最後の障壁を取っぱらったぞ」と息巻くマクファーランドだったが、その機会は訪れなかった。
実はマクファーランドとネルソンは一度スパーリングで拳をまみえたことがあった。
世界チャンピオンになったネルソンがショーに出演するためにシカゴを訪れた時にマクファーランドのリクエストに応じて行われたものだが、「さっさと片付けてやるさ」と自信満々にコーナーを飛び出し
ていったネルソンの方がぼろ雑巾のように打ちまくられてしまった。
タフの権化のようなネルソンがわずか一ラウンドでグロッギーに追い込まれたばかりか、二ラウンド途中で自らタイムキーパーにストップをかけたほど二人の力量差は誰の目にも明らかだった。
ローカルヒーローとたかをくくっていたマクファーランドの強さに驚いたネルソンは、ドレッシングルームに駆け込むやマネージャーのビリー・ノーランをつかまえてこう言ったという。
「ビリー、マクファーランドの小僧に契約書にサインさせてこい。俺たちがあいつのマネジメントをやるんだ。そうすれば同じジムメイトだから戦わなくてもすむからな」
もちろん、ネルソンに勝ってタイトルを奪う自信があるマクファーランドはサインしなかった。
そしてマクファーランドの運命もこの時決まったのだ。
頑なにタイトル戦を拒み続けるネルソンに業を煮やしたマクファーランドは、ニューヨークのアストリアホテル前で口論となり、殴り合い寸前ということもあったが、その強さを思い知らされているネルソンは絶対に挑発に乗らなかった。
もしマクファーランドが契約書にサインしていれば、ネルソンが大物プロモーター、テクス・リカードの秘蔵ッ子ということを考えると、少なくともネルソンのタイトル喪失後にはリカードの力でマクファーランドのタイトル戦をお膳立てすることは十分可能だったはずだ。
一九一二年十月二十五日のジミー・ダフィー戦では「ロックフォードの公爵」の異名を取る長身の強打者を複数紙によるニュースペーパー・ディシジョンで下し、ライト級で最も世界に近い男が自身であることを改めてアピールした(当時はダフィーも無冠の帝王と呼ばれていた)が、マクファーランド陣営はプロモーション能力に乏しく、ネルソンを破ったアド・ウォルガストからも敬遠されたため、もはや八方塞りだった。
チャンピオンが対戦を恐れる男には、強すぎる以外にもう一つ大きな欠点があった。ウエイトである。
一七〇センチのマクファーランドはライト級では標準的体型であり、ウエルター級まで幅広く闘ったが、ベストウエイトは今日でいうところのスーパーライト級(かつてのJ・ウエルター級)だった。
世界戦以外は選手双方の同意によるキャッチウエイトで行えるため、マクファーランドは通常はスーパーライト級でリングに上がり、ライト級で試合をした経験がほとんどなかったのだ。
つまりライト級リミットまで落とすのが厳しいため、急遽世界戦が決まっても期間内に減量できるかどうかがわからず、契約しにくかったこともチャンピオンサイドから避けられた要因の一つだったという説もある(J・ウエルター級の世界タイトルが新設されたのは彼の引退後である)。
十代の頃はまだしも、身体が出来上がった二十代半ばともなるとライト級では厳しくなり、ダフィー戦もスーパーライト級のキャッチウエイトだった。
ウエルター級に上げても、技巧派サウスポーとして知られる後の名チャンピオン、ジャック・ブリットンにニュースペーパー・ディシジョンによる二勝一引分と勝ち越しており、ウェルター級でも十分に通用することを証明した矢先の一九一四年一月二十五日、突如マクファーランド引退のニュースが新聞各紙で大々的に報道された。
「リングマスターが勝利を最後に恋のために引退」
見出しはだいたい似たり寄ったりだったが、要するにすでに二十五万ドルの資産を蓄えているマクファーランドは婚約を機にボクシングから足を洗うと宣言したのだ。
世界戦の経験もない彼に一流チャンピオン並みの資産があったのは、現役中から株式投資で財を築いていたからである。この時点で多くのファンからライト級の実質的チャンピオンと認識されていたばかりか、ライト級歴代最強という声もあったマクファーランドは逃げ惑うチャンピオンを追いかけることよりも幸福な家庭を築く方に意識が向いてしまっていたのだろう。
引退声明直前の試合(一九一三年十二月八日)では、技巧派で鳴るブリットンにファンから「もう止めさせろ」と野次が飛ぶほど一方的にパンチを浴びせながら微笑みを浮かべていたというから、この時すでに最後の試合を存分に楽しもうという気持ちがあったのかもしれない。
しかし、唐突な引退でファンを失望させたことに対するお詫びのつもりか、約二年のブランクを経てマクファーランドは改めて引退試合を行うことになった(一九一五年九月十一日)。それも強豪中の強豪マイク・ギボンズが相手である。
ギボンズというとジャック・デンプシーと世界戦をフルラウンド闘ったトミー・ギボンズ(弟)が有名だが、兄の方も無冠で終わったとはいえアル・マッコイ、ジャック・ディロン、テッド・キッド・ルイス、ハリー・グレブといった新旧の世界王者を破ったこともある実力派アウトボクサーである。そして彼もまた第一次大戦中が全盛期だったというアンラッキーボクサーだっただけに、両者のファイトは最強のウエルター級を証明する絶好の機会と見られていたが、互いに相手の技巧に敬意を表しすぎて退屈な試合になったのは残念だった。
このことが心残りだったのだろう。両者は一九一八年四月二十六日にエキジビションで対戦している。
そしてこれが無敵の中量級パッキー・マクファーランドの正真正銘最後の試合となった。
第一次大戦後のマクファーランドは二つの銀行の頭取を務めるかたわら、イリノイ州スポーツクラブのコミッショナーとして地域の若者たちの育成にも力を注ぐ地元の名士になっていた。
かつての戦わざるライバルだったバトリング・ネルソンやベニー・レナードが晩年は素寒貧だったのとは好対照である。
人生において何をやっても無敵だった男も病には勝てず、四十六歳の働き盛りにインフルエンザをこじらせて急逝した。
マクファーランドはある意味、”無敗人生”を歩んでいたが、まさかインフルエンザが命取りになるなんて人間の運命などわからないものだ。四十六歳までうだつが上がらなくても、それからあと三十年、そこそこに幸せな方が、人生の満足感はあるかもしれない。逆に何をやっても上手くいっていたのに、中途半端なところで人生のステージを降りることになるほうが、悔しさや空しさは計り知れないような気がする。




