第31話 レグレット村が滅んだ日
本作で恐らくは唯一となる残酷な表現があります
レグレット村は、ごく普通の農村だった。小麦を中心に畑で育てながら、近くの森で鳥や小動物を狩って肉も手に入る。
川がそう遠くない位置にあるので、川魚の入手も可能だった。大きな農場を作る程の余裕はないので、畜産方面はやや小規模だ。
特に環境が厳しい地域でもないので収入には困らず、1年を通してほぼ温暖なので大きな病気も流行らない。
王都等の都市部と比べれば貧相ではあるけれど、大陸全体で見れば貧乏とは言えない。そんな当たり障りのない平凡な村だった。
そんな村で暮らしていたのがかつてのズークだ。当時はまだ6歳で、何も知らない普通の少年だった。
「あらズーク、今日も元気ね」
「うん、ミーシャ姉ちゃんも元気?」
「ええ、私も元気だよ」
この国ではそう珍しくもない茶色の髪を腰まで伸ばした少女に、いつもの様に会話を交わすズーク。
彼女の名前はミーシャと言い、16歳のごく普通の村娘だ。少女から女性へと変わっていく途中にあり、可愛らしさと美しさが同居していた。
この村は比較的に容姿が優れた者が多く、髪色こそ平凡な茶髪だがミーシャの容姿は王都でも通用するレベルだ。
女性らしい丸みのある顔立ちだが、鼻筋は通っている。眦の下がった少し垂れた目が、優しい女性というイメージに繋がっていた。
目の色が碧なのは母親譲りだが、パワフルな所は狩人をやっている父親譲り。
「今日も手伝うよ」
「あら、他の子と遊ばなくて良いの?」
「それは後で良いよ。今は姉ちゃんを手伝う」
この頃のズークはミーシャに幼いながらに憧れており、こうして暇があればミーシャと一緒に小麦畑で働いていた。
昨年に大きくなったらミーシャ姉ちゃんと結婚すると宣言し、こうして通い詰めているのが微笑ましいと大人は皆思っていた。
真面目に働いているのだから、禁止する理由もないのでズークの両親も好きにさせていた。
これがここ1年ぐらいの当たり前で、この村の日常に過ぎなかった。そう、全てが変わってしまったこの日までは。
ミーシャの家が所有する畑が森に近い位置にあった事と、友達と遊ぶのを後回しにした事がズークの明暗を分けた。
「皆―――! 大変だーーー!」
「な、何?」
「何だろうね、ミーシャ姉ちゃん?」
王都から定期的に来ていた行商人の若い男性が、大声を上げながらレグレット村に戻って来た。
護衛の冒険者達と共に、少し前に出て行った筈なのに。村人達が困惑している状況で、行商人の男は捲し立てる。
彼が言うには見た事も無い大きな狼の姿をしたモンスターが、この村の近くで暴れているらしい。
冒険者達が逃がしてくれたが、あれはどう考えても普通ではないと叫んでいる。
そんな話をしている間にも、おぞましい咆哮がそう遠くない位置から聞こえた。
この辺りでは誰も聞いた事のない鳴き声であり、ただ事ではないと全員が感じていた。
「ミーシャとズークは今すぐ森に隠れな!」
「で、でもネリーさん」
「良いからここはワシらに任せておけ!」
隣の畑を所有しているオルグとネリーの老夫婦が、ミーシャとズークに隠れる様に指示した。
後ろ髪を引かれる思いを抱えながら、幼いズークの為だとミーシャはズークを連れて近くの森を目指す。
そうやって動き始めた瞬間だった。巨大な獣の咆哮が、村の入り口で響き渡る。
そこには暗闇を見ているかの様な、真っ黒い体毛を持つ巨狼が立っていた。
体の大きさは5メートル程もあり、口元と爪の先からは血で赤黒く染まっていた。真っ赤に染まった二つの眼が、村人達の方を見ていた。
「う、うわああああああ!?」
「皆逃げるんだ!!」
「ひ、ひいいいいいいい!?」
明らかにこの辺りの生き物ではなかった。こんな大きさのモンスターが出た話など、ここ十数年誰も聞いた事が無い。
大人の男性達が時間を稼ぐ為に、農具等を持って立ち向かう。だが冒険者でも止められなかった相手に敵う筈も無い。
一瞬にして数人が、人間からただの肉塊に変わる。先に動き出していたズークとミーシャ以外に、まともに逃げられた者は居なかった。
巨狼は非常に賢いらしく、すぐ獲物を食べずに先ず殺す事を選んでいた。恐ろしく大きく鋭い爪で、巨狼は次々と村人を葬って行く。
「と、父ちゃ」
「駄目よズーク! 静かにして!」
「ぅ……」
今まさに、立ち向かおうとしたミーシャの父とズークの父が無残に殺された。
父の死に悲しみながらも、ミーシャは気丈にズークの口元を抑える。
2人は涙を流しながら、レグレット村の住人達がただ斬殺され、齧られる光景を見るしか出来ない。
嵐が過ぎ去るのを待ち続けた2人だったが、村に居た全員を殺した後に巨狼の動きが止まった。
森にまで届く生臭い血の臭いが漂っているのに、何故か鼻を鳴らしている。
ふとした動きで生物としての勘が働き、ミーシャは急いで森の奥へとズークを連れていく。
この僅かな行動の早さが無ければ、2人共死んでいただろう。巨大な何かが森の木々をなぎ倒す音が、2人の後方から聞こえて来た。
走り抜けた2人の目の前にあるのは、ただの崖があるだけの場所。
迫る木々破壊する音と、恐ろしい獣の咆哮。一瞬だけ悩んだミーシャは、とある決断を下す。
「ズーク、貴方は生きて」
「えっ姉ちゃん? 何を」
「ごめんね」
ミーシャがそう呟くと、崖らからズークだけが突き落とされた。突然の事に驚きながらも、空中で後方を見るズーク。
その反転した視界には、ミーシャの背後に迫る巨大な漆黒の顎が迫っている。
次の瞬間には大きな口が閉じられ、噛み千切られたミーシャの右腕だけが宙を舞っていた。
声にならない絶叫を上げるズークだったが、数秒後には川の流れに飲み込まれてしまう。
ミーシャが自らを犠牲にした事で、川に落ちたズークまでも巨狼は追おうとしなかった。
たった一匹のちっぽけな獲物の為に、そこまでする必要を感じなかったからだ。
しかしそのちっぽけだった相手が、16年後に命のやり取りをする強敵となって舞い戻る。
幾ら頭が良いとは言っても野生に生きるモンスター。復讐の鬼となった人間の執念までは、図り切れなかったのだ。
クズにも悲しき過去があり




