逃走劇
「アニー、あっちまで行ってみてもいい?」
「どの辺りですか?」
「あの、森の中」
「あそこは流石に侯爵様たちと離れすぎてしまうからダメですよ」
「そっか。流石に森の中にナマズはいないよね」
「ヴィクス様…………ナマズを探しているんですね?」
「……そうだよ? 何か気になるところ、と思って」
「それで、森の中が気になるんですね?」
少し、真剣な顔をしてアニーが細かく確認する。
そして、何か後ろの騎士に合図をして、少しここで待とうと提案する。
「何か、他に気になるものがあれば教えてください。ナマズが跳ねたとか、カエルがいたとか」
辺りを見回しながら、アニーがそっと僕の手を掴み直す。
父上の言ったように、『何か』を見ようと念じながら見ていると、どうもあの森の方向に視線が向いてしまうんだけど。
少し、騎士たちの動きが変わったような気がして、森から視線を外す。
父上のところに何か報告に行っている騎士もいる。
「何かあったの?」
「そのようです。一旦拠点まで戻りましょう」
アニーが僕を抱いて岩を飛び降りた。
次の瞬間、一斉に声が上がった。
「アナベル! 逃げろ! 走れ!」
「振り返るな! とにかく拠点、いや基地まで走れ!」
「ヴィトリーク様が狙いだ!」
何が起きたのか。
アニーに抱かれて後ろが見える僕の視界の端。
気になっていた、目が合うような感覚が戻ってくる。というか近づいてくる。
バシャっと水飛沫が上がって、森の中から何かが飛び出してきた。
月熊。ここまで降りてくることはほとんどないはずの、山の岩場で暮らす熊だ。
首の後ろの毛が白い、大きな熊。白い毛が体の角度によって三日月に見えたり満月に見えたりするので、月熊。
それが、一直線にこっちを目指して走ってくる。
「メスか……子どもがいるかもしれない」
「ヤバいな」
騎士が二人、僕とアニーの護衛について、後ろとの距離を確認しつつ走る。
今日二度目の『美味しそう』判定、ってこと!?
騎士たちの言葉で何が追ってきているのか察したらしいアニーは僕をギュッと抱きしめてさらにスピードを上げた。
しかし熊は、それよりさらに速い。
どんどん姿が大きくなってくる。
騎士たちが足止めしようと火の玉を投げたり、土の障壁を作ったりしているのに、全く速度は落ちない。
「クマ……はやい……」
「大丈夫ですよ、ヴィクス様……私の命に変えても、守りますから」
アニーの声は落ち着いているが、『命に変えても』の事態であることは変えようがないらしい。
後方からは熊を追いながら父上や姉上が攻撃しているのが見える。
父上は風魔法が多いけれど、熊の毛皮がそれを防いでしまうのか、雷の魔法もうるさそうに体を震わせる程度。
父上の魔法でも効いてないなんて……クマはそんなに強いのか……。
何か、何かできたらいいのに。
攻撃でもいい、アニーを助ける身体強化でもいい。
熊を足止めしたり、眠らせる魔法でもいい。
魔力が感じられるようにならないと、魔法を使うのは危険と父上が言っていたけど。
今なんとかしたいのに、何もできないのが悔しい。
必死で熊を睨みつけてみるけれど、効果があるわけではないのはわかっていた。
熊の咆哮、何かが揺れる。
衝撃波みたいなものが、水面を揺らしている。
「アニー! 何か来る! クマが何かしてる!」
「!! …………っクソが」
「……アニー……?」
普段のアニーから出てくるとは思えない悪態が小さく聞こえて、思わず聞き返した瞬間、アニーはクルッと体を反転させてレイピアを一振りする。
空中で、何かが弾け飛んだ。
水草……?
いつのまにか、あたりの水草が生き物のように伸びて、アニーを捕まえようと向かってきている。
「ヴィトリーク様を頼む!」
「まかせろ!」
騎士の一人が追い抜き様に僕を受け取って、アニーはその場に残った。
どんどん離れていくアニー。熊との距離はつまっていく。
「やだやだ! アニー、危ないよ!」
「大丈夫です、ヴィトリーク様。あいつは俺たちの隊長だったんですから」
僕を落ち着かせようと、騎士が言葉をかけてくれているけれど、そんなことは問題じゃない。
すでに何人もクマに弾き飛ばされたり爪で切り裂かれたりして倒れている。
それなのにさらにあの熊は魔法を使っている。
そんなのと戦うなんて……。
「あの熊は、ここで仕留めてしまわないといけないんです。周りにこれだけ人がいて、その中でヴィトリーク様を狙ったってことは……あの熊は人を食ったことがある。人間が食えると知ってるから、子どもで弱いとわかっているヴィトリーク様を狙っています。仕留めてしまわないと……すぐに近くの村を襲います」
ヒュッと喉が鳴った。
野生動物は群をなす人間を襲うことはあまりないと聞いていたけれど。
餌だと思っているから、襲ってきたのか。
それ、余計に危ないってことでは?
今怪我をしている人の誰かに、狙いを変えることもあるのでは?
突進してくる熊の目の前で、アニーの周りに、何かが発生する。
足元の沼から水がたちのぼり、凍りついていく。
——んんん?
——今の、今のがもしかして『魔力』???
アニーの周りに陽炎のような何かが広がった気がした。
慌てて周りを確認する。
父上の方にも、姉上の周りにも。
騎士たちにも。
何か……不定形の波のような。
別にそれで見えるものが歪んだりしているわけではないのに、人や魔法を包む陽炎やシャボン玉のような何かがあちこちにある。
熊にも……大きな陽炎が纏わりついている。
——これ、見えたんじゃない?
魔力がわかったって、ことじゃない?
慌てて自分の手を見てみるが……そこにはみんなのような陽炎は感じられない。
…………ええー……この流れなら自分の魔力もわかるかと思ったのに。
見えるだけで使えないとか……役に立たないことに変わりないじゃないか!!
アニーが氷の槍やレイピアを駆使して熊と交戦しているのがどんどん遠ざかる。
父上たちも加勢して、僕だけが熊から引き離される。
…………いや、熊って、あんなデカい……?
走っている間に近づいてくる姿から想像していた以上の大きさがある。
後足で立ち上がった熊は、そんなに小柄なわけではないアニーの二倍以上の大きさがあった。
その振り上げられた前足が、騎士たちを弾き飛ばして、思わず目を閉じる。
『せめて、バフをつけられたら。みんなの怪我も減るかもしれないのに』
カエルにだって使える身体強化。
僕も使えればよかったのに。
足が速くなったり、怪我をしにくくなったり、攻撃力が上がったり。
目を閉じてそう願いながら、僕を抱いて走ってくれている騎士にしがみつく。
「ヴィトリーク様……?」
「えっ? なに?」
「今……何かしましたか?」
何か?
いや、何もできないことに絶望していただけ……。
「ううん? 何も……」
「…………みんなが怪我をしないように、お祈りしてみてもらえますか?」
「……おいのり……?」
今、今まさにお祈りしてたんだけど……何かあったの?
「沼の中にいるみんなが、怪我をしませんように、って」
何かを試したい雰囲気の騎士に頷いて、もう一度目を閉じる。
『沼の中にいる騎士や家族が、怪我をしないように。速く動けたり、攻撃力が上がったり、熊を倒せますように』
頭の中に、沼の映像と騎士や父上たちの姿が浮かんでくる。
その一人一人を覆うシャボン玉の影みたいなものをイメージしながら。
「……気のせい……か」
タッと騎士はまた走り出して
僕はやっぱり何もできないということのようだ。
魔力は、見えるようになったというのに……。




