沼地の主
沼地は、ヴィクスの想像以上に広大だった。
山あいのなだらかな土地に広がる沼は、向こう側が霞んでいた。
「雨が降るとここは湖のようになるからその時には動物や魚ももっと増えるよ」
父上が教えてくれながら、釣竿を渡してくれる。
湖になったら、きっと綺麗だろう。
山の緑が水面に映る景色を想像して、楽しみになる。
騎士たちはもう沼に入って銛でカエルを突いたり、大きな釣竿でナマズを釣っている。
ナマズはルアー釣りで、糸の先には虫を模した疑似餌が見えた。
「人のいる方に投げてはいけないよ? 後ろにも人がいないかよく確かめて」
「はい!」
僕も小さめの釣竿を持って、少し先の方で待っている騎士たちの方へ向かう。
「キツネが出てくるまではお父さんたちもカエルを狩っているからね。何かあったら呼びなさい」
釣りは自分との対話……なんて話がどこかにあった気がする。
「今年のナマズやけに多いですね」
「個体も小さい」
「主ができたのでは?」
「前のを狩ったのは六年前でしたか」
「あれはなかなか大変だった」
騎士たちとアニーの和やかな雑談が聞こえてくる。
通常のナマズの姿さえ、二九歳の記憶にもない。
小さいのか……と思いながら、一番近くで釣っているアニーの釣り上げるナマズを眺める。
二リットルのペットボトルくらいのサイズのナマズならそれくらいかな、と思えるなぁ。
アニーも騎士たちも何匹もナマズを釣り上げているけれど、僕のカゴは空っぽのまま、二時間が経つ。
騎士たちが仕留めた後の動かないナマズを回収してくるだけというのは、流石に飽きた。
そんなことを考えていたら、アニーのカゴはもういっぱいなのに気がついた。
「アニー、カゴを変える? 僕のカゴを使っていいよ。僕はアニーのカゴを向こうに運ぶから」
「……そうですね。お願いしてもいいですか? 竿は私が見ておきます」
沼の中を歩くのもだいぶ慣れてきて、ゆっくりなら転ぶこともない。
浮きのついたカゴを支えにしつつ、カゴを交換して、みんなの邪魔にならないよう迂回して戻ろうと方向を変える。
その最中ふと、足元に水の流れを感じた。
「泉があるのかな?」
沼とはいえ川があるから水は流れるけれど、足を取られそうになるくらいの流れがある。
流れの先には、水草が積もった大きめの足場ができていた。
ぱちゃぱちゃと音を立てながら、水はその足場の下へ吸い込まれていく。
あの水草の山、登れそうだなぁ。
ナマズも釣れないし、あそこで休憩していてもいいかなぁ。
そう思ってカゴを引きながら一歩だけ水草の山に近づいた、そのとき。
その『足場』と目が合った。
……目?
……ビーチボールくらいありそうな……カエルの……?
「ヴィトリーク様! 危険です!! 早くそこを離れてください!」
「……え」
呼ばれて振り向いたのと、僕の下に穴が空いたのはほぼ同時。
「……えっ」
すぽんと落とし穴のように足元が無くなった僕は、そのまま穴に落下する。
「主が出たぞ!」
「ヴィトリーク様っ!!」
誰かが叫ぶ声を最後に、水というか泥の中に沈む。
目を閉じて、息を止める。必死に手足を動かしてみるけれど、小さな袋の中に閉じ込められたようでうまく動けない。
触れる範囲にはゴツゴツしている部分と、何かヌルッとしてよく伸びる部分があるのがわかった。
ゴツゴツした硬い部分を手がかりに蹴り付けたり背伸びしたりしてみるものの、効果はなさそうだった。
何が起きた?
泥の中に……目があって。その目に気がついた瞬間に、急に足元が無くなった。
主? ヌシが出たって言ってた……。
飲み込まれた!?
つまり僕は今『大きなカエルのお腹の中』?!
このままでは消化されてしまうのではということに気がついて、息を止めたままとにかく足が届く部分を蹴り付ける。
引っ張っていたカゴから手を離したことを後悔しながら。
紐がついたカゴがあればそれを手繰って外の方向がわかったかもしれないのに。
苦しい、閉じた瞼の裏がチカチカ光る。
でも、このままでは食べられてしまう。
短剣でもいいから持っておけばよかった。
せめて、魔法が使えたら。
魔法ってどうやって使うんだ。
魔力ってどんなもの? 何をしたら使える?
苦しさに思わず口が開いてしまって、泥が流れ込む。
なんとか飲み込まずに済んだけれど、息ができないことに変わりはない。
誰か……誰か! 誰でもいい、何でもいい。
何かしないと、ここから出ないと。
暴れていたせいなのか、それともカエルが動いたのか。
滑ったりひっくり返ったりしていてもう上がどちらかもわからない。
何か振動を感じることもあるけれど、自分が暴れ続けるほうが優先だ。
ここから出せ、と念じながら必死に手がかりを探す。
急に、ぐっと空間が狭くなる。
押し込まれるような動きに抗って手足を突っ張ったとき。
鳴き声……?
これもしかしてカエルの鳴き声……?
牛の鳴き声よりさらに低い音が、まるでお寺の鐘の真下にいるくらいの大きさで響く。
不思議なことに、その音が響くと少しだけ、苦しさが軽くなる。
——まさか、治癒魔法?
もう一度、鳴き声が聞こえてくるのを待つ。
声が響くと、やはり少しだけ苦しさが薄れる。
『回復』している。
カエルも魔法を使える。しかも回復できる。
何だか魔法も使えず、ただ飲み込まれて暴れるしかない自分にものすごく悔しさが湧いてくる。
でも、今急に魔法が使えるようになる、なんて夢みたいな話に賭けている暇はない。
魔法が使えないなら、暴れてなんとかするしかないじゃないか!




