いい子にはなれない
父上の魔法と巨大な蜂の衝撃で、夕方に今日泊まる予定の宿に入るまで僕は興奮状態だった。
「父上、すごかったんですね」
「ヴィクス、あなた父上が大公閣下の右腕と呼ばれているの、知らなかったの?」
し、知らないけど……確かに知らなかったけど。
姉上……そんな『バカにしたんじゃないわよ!』みたいな焦り方しないで欲しい。
そういうところが——落ち着かないんだ。
「……閣下の方が、年下ですよね?」
「そうよ? 当たり前じゃない」
何がおかしいのかというような姉上の表情。
僕は『年下の閣下の右腕』として有名になる前に『父上が有名』になる気がしただけだから!
「閣下の下に着くまでは、父上が皇帝陛下の騎士団長だったんだから」
——怒涛の初耳情報、再び。
父上といい、姉上といい……五歳児を信用し過ぎじゃない? うちの家族。
——どうしてそんな『大人たちの話も聞こえてくるし、知ってるよね』みたいな気軽さで情報を伝えてくるのか。
「そ……うでした、ね」
当然知っていました、という顔をなんとか取り繕う。
父上があれだけ強そうなら、有名だというのは納得したけれど。
『皇帝陛下の騎士団長』は予想のはるか上だった。
だって、現騎士団長様は、『ローレンツたちの剣の師匠』だというのに……!
ふと、僕の背筋に冷たいものが流れる。
——僕、ローレンツの遊び相手を引き受ける時、何を約束した……?
「何、どうしたの? やっぱり疲れてたの?」
思わず下を向いた僕に姉上が顔色を変えて飛びついてくる。
「熱がある? それとも、気持ち悪い?」
「大丈夫……で、す。お腹空いたなって、今気がついて」
姉上が安心した顔になって、『もうすぐ夕食だから』と頭を撫でてくれる。
——居心地の悪さが、増すばかり。
姉上の優しさも怖いのに、とんでもない約束をしていたことまで知ってしまった。
しかも姉上はすでに『別の魔法の先生』が付いている。
——父上が僕に『魔法を教えてくれる』のも……『姉上には内緒』の可能性が高い。
背筋が冷えるどころか、胃が痛くなり始める。
本当に……『遊び相手を引き受けさせるだけ』になんてことを約束してるんだ父上は!
——お菓子で釣るとか……他に何かあるだろう!
青くなったり白くなったりの僕に姉上は『本当に大丈夫?』と不安そうにしている。
「シャーロット様ー、ヴィクス様ー。お待たせしました、お夕食ですよー」
「あっ! よかったわね、ヴィクス。行きましょう」
アニーの声に姉上が嬉しそうに扉を開ける。
この村の特産品だという……キンカのタルト……食べられる気分じゃないなぁ。
と、思っていたことも、あった。
五歳児の胃袋は、そうではなかった。
小粒のブドウほどの大きさの甘酸っぱい柑橘。
カスタードの中に埋まったキンカは皮に飴がけがパリッと、噛めばとれたての瑞々しい果汁が滴る。
「まだ食べるの?」
「ヴィクスはお昼があまり食べられなかったからねぇ」
姉上は呆れ顔、父上は嬉しそうだ。
ハッと気がつけば、みんなは食後のお茶を前にしている。
お宿の主人が『タルトの残りは明日、馬車の中で』と包んでくれて、僕もようやく食後のお茶に手をつけた。
部屋に戻りながら父上が、一人一部屋用意できずすまないと謝っている。
僕たちが追加されたことで護衛も増えたしアニーもついてきてくれた。
その分の部屋まではこのお宿にはなかったんだろう。
父上はやっぱりお宿でも仕事があるそうで、僕たちは明日に備えて寝るようにと言いつつ父上は部屋に向かった。
けれど寝るにはまだ少し早い時間。
姉上が手を繋いでくれて、部屋に戻る前に少し散歩することになった。
もう夜の村の中は真っ暗かと思っていたら、酒場は開いているし、祭りが近いとかで広場にも明るく火が灯っていた。
「少しは体を動かしてから寝た方が、良く眠れるのよ。今日はずっと移動だったんだから尚更ね」
僕を気遣ってゆっくり歩きながら、姉上がそんなことを話す。
相槌を打つくらいしか、話すことはない今なら、聞いても叱られないような気がして。
「……姉上……どうして、そんなに『いいこ』になろうとするんですか?」
急に僕を助けようとしたり、優しくなったり……。
手を繋いで、散歩に誘ってくれるなんて事も……僕には不審でしかない。
このままどこかに置き去りにされてもいいように、つい必死に道を確認してしまう。
それなのに姉上は宿から離れすぎないように、宿の目印は何か、逸れたらどこに向かえということまで教えてくれている。
「僕は……今の姉上は、前よりもっと……怖いです」
姉上の顔に絶望の色が広がった。
その中に僅かな『安堵』の色を乗せて。
静かな、数秒間。
遠くの酒場のざわめきが、途切れる。
「私が……『いい子』でいる理由は……あなたなの」
今度はこっちが驚愕する番だった。
——改心した理由が、僕?
あれだけ虐げておいて、僕のために『いい子』になった?
「わけが……わからないです。だって、姉上は今姉上じゃないみたいです。それが僕のせいだって言われても……」
「……夢を、見ただけ」
「ゆめ?」
「そう。夢よ。あれは全部夢なの」
断定して、姉上はお祭り用のランタンに視線を固定している。
「ヴィクスが、私のことを信じられないの……わかってる。でも……私は、『いい子』でいたいと思ったの。いい子にならなきゃいけなかったの」
話しかけているというより、僕に言いたいことを独り言として喋っているような。
「わたしね……死んだの。夢の中で、なんだけど。とても……怖かったの。私は大人になって……酷いことばかりして、わがままばかり言って……みんなに……恨まれて、誰にも……助けてもらえなかった」
震えを無理に抑えるような、そんな掠れた小さな声。
「だから、夢じゃない私は『あんな人にはならないでいよう』って、『優しい人』になるって、その夢から覚めた時に……決めたの」
「そうすれば……あの夢は現実にならないって……願っているの」
「夢……って。そんなに、怖い夢だったんですか? 夢なんでしょう?」
「ええ……夢よ。とてもリアルで、とても恐ろしい『夢』だったの」
静かな表情の姉上は、とてもそれを『夢だと思っている』ようには見えなかった。
『信じたくないから夢だと言い張っている』と聞こえる。
だけど。
「そんなの……そんなの姉上の勝手なわがままじゃないか! 全然変わってない!」
悲鳴のような、言葉が五年間の記憶から溢れ出した。
「僕は……そういう勝手でわがままばっかりの姉上しか知らないのに。急に『優しくする』『いい子になる』『謝りたい』って……それが全部『僕のせい』って! 全部姉上の都合じゃないですか!」
思わず、なじるような言葉になってしまった。
だって、だってそんなの本当に勝手じゃないか。
悪夢が本当になるのが怖いからって『僕のため』に優しくなるなんて『道理が通ってない』としか思えない。
「それに、その夢と僕は何も関係ない! 僕のせいになんてしないでよ!」
初めて、僕は姉上に食ってかかった。
なのに姉上の顔は、驚きから何かを見つけたような嬉しそうな顔になる。
「私……すごく苦しかった。お父様も心配させてしまった。……ヴィクスだって優しい私は気持ち悪かったのね?」
何か、姉の中で変化が起きたことがわかった。
「わたしの『いい子』は……いい子じゃなかった」
広場のランタンに照らされた姉の目に、見慣れた強気な輝きが戻っている。
だから——。
「『いい子』は今日でやめるわ」
姉上が力強く笑みを浮かべて宣言した。
見慣れた『これからお前をいじめてやるからな』の笑みなのに。
僕の胸には安堵が広がっていく。
何が起きたのか、理解できないのに。
そこにいるのは『シャーロット』だと理解できてしまった。
——変わったかもしれない、また変わるのかもしれない。
——でも姉上は、ちゃんと『シャーロット』だった。
——勝手にいい子を目指しておいて、やっぱりいい子はやめる。相変わらず勝手で横暴な宣言だ。
「あなたをいじめたりは二度としない。でも『聖女様みたいないい子』は、私には無理だった!」
重い荷物を放り出したかのように、晴々とした顔の姉上。
いつも怯えながら見ていた表情なのに、不思議と怖くは感じなかった。
箱に収まらない積み木を無理矢理押し込んでいたような違和感は消えた。
でも、あるべきところに収まったのは、同じ形をした全く違うもののように。
僕の気持ちを置き去りにして、また姉上は変わってしまった。




