目覚めたら車輪の下
目覚めた時、全身が息をするのも辛いほどの痛みを訴えていた。どう考えても『何かあった』はずだ。
自分が乳母のアニーと馬車に乗って帰宅中であったことは覚えている。
今はただ、真っ暗で、何も見えない。
——トンネルの中だったから、電気が消えてしまえば……『アニー』?
「だ……れか……」
助けを呼んでみるがそもそも声がほとんど出ない。
息をしているのか呻いているのか、その程度の音が出ただけだった。
手を動かそうとしたものの、指先を意識した程度で肩まで激痛が走る。
なんの音も……風の音すらしない。土埃の匂いと、鉄臭い血の味。人の気配もなく、アニーの姿も確認できない。周りには、押し潰されるほどの人がいたはずなのに。
——人がいたわけはない、アニーと二人で馬車に乗っていたのに?
お城からの帰り道。そこで何者かに襲撃を受けて。
——アニー……乳母? そんな王侯貴族の子どもみたいな……。
俺は……俺は会社からたった三時間の帰宅のために通勤ラッシュ真っ最中の電車に乗っていたはずだ。
その電車は、脱線したのかもうめちゃくちゃになっていたはず。
——通勤ラッシュの……でんしゃ?
知っているはずのない単語にハッとする。
馬車も電車も『使ったことがない』のに『知っている』。
記憶が混線したような、『知識』。
馬車に乗って帰宅中——。
通勤ラッシュの満員電車——
二つの記憶が交錯する。
疲れた社畜の俺が帰宅のために乗っていた満員電車。突然大きく揺れて、振り回されるように人に押しつぶされた。
御者が何か叫んだと思った瞬間の突然の揺れ、飛び込んできた岩、俺に両手を伸ばして飛びつこうとするアニーの恐怖に引き攣った顔。
どちらも自分の記憶であると断言できるのに『常識』が噛み合わない。
おかしい、何かがおかしい。頭を打った衝撃で記憶喪失になると言う話は聞くが、『思い出す』なんて……。
どちらが現実なのかわからない。
視線を動かそうとしてみる、動かせる。
頭痛はするが目線だけで確認できる範囲をなんとか見回す。
視界の端の方に光があった。僅かに見える位置に木漏れ日のような月明かりが揺れている。
目が慣れてくれば暗い中にも割れたガラスや馬車の床を突き破った部品などがある。俺の上で、岩から頭を守ってくれたのは、馬車の大きな車輪のようだった。
壁を突き抜けた車軸のようなものに引っかかっている姉のお気に入りの花柄のクッション。微かにこぼれ落ちてくる小石や砂。
ぬるつく座席の感触と、鉄の匂い。
今、わかることは、それだけだった。馬車の事故で大怪我をしているいまが『現実』。
大勢の悲鳴、金属の車体が軋む大きな音、それらが夢の中のことのように遠ざかっていく。
けれど、確かに俺は電車の中にいた……ここがリアルな夢の可能性も捨てきれない……捨てたくない。
あちこちに目を凝らしてはみたものの、目がチカチカして視界の端が黒く滲み始める。
寒気、眩暈、頭痛……。もう目を開けているのも辛い。
ああ、死ぬ……。
——雷かな、遠くから何か……
——馬の蹄の音だ……助けが、きたのかな。
目を閉じた瞬間、意識は闇に溶けてしまった——。
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俺は、居眠りして叱られないために相棒に何かゲームを提案しようとした。
夕食前に馬車に乗った侯爵家の乳母が、大公家の門を叩いたのは、そんな時間。もう月が明るくなる時刻だった。
何かを乗せた裸馬が駆けてくる。何が起きたのかと緊張しながら興奮した馬をなんとか押し留め、その背にしがみついた女性を助けおろす。
ひとりでここまで駆けてきたのだろうか。
無惨に汚れたドレス、血の滲む手足。何かが起きたことは間違いようもない姿の女性は、助けてくれとしがみついた。
「馬車が! 道が崩れて岩に押しつぶされています!」
侯爵家の長男が乗った馬車だ。皇子の遊び相手を探していた皇帝に面会させるために、大公閣下が呼んだ子ども。
「まだ、まだ生きていました! 助けてください!」
とにかく大公に伝えなくては。
目配せをして相棒を報せに向かわせ、玄関前まで女性を担ぎ込む。
ポーチまでたどり着くと、侍女頭が扉を開けて待っていた。
「ひとまずこちらへ」
貴族の乳母と言えば、貴族の令嬢または夫人だ。この姿のまま玄関前で待たせるわけにはいかない。
「着替えを用意いたします。それから、傷の治療も。許可は下りています」
女性の医療騎士が侍女頭のそばで一礼する。
「それよりも、早く救助を……!」
「どのあたりか正確に覚えていますか」
報せに向かった相棒と執事を連れて、足早に女性に向かいながら閣下が問いかける。
「地図を……」
求める声とほぼ同時に差し出された地図の上、女性は泥で汚れ爪の割れた指先で道を辿る。
この辺り、と示したのは大きな崖も川もなく、地盤が緩むようなところでもない森の中だった。
最近大雨が降って危険な状態、というわけでもない。
「ここ?」
思わず問いかけてしまうと、彼女はしっかりと頷いた。
「御者が倒れて……すぐに、道の左側の斜面が崩れました。事故では……ありません」
言い切った彼女の目は大公閣下をまっすぐに見つめている。怒りにも似た、強い光。閣下が一瞬驚きの表情をうかべ、眉間に深い皺を刻んだ。
「……すぐに騎士を向かわせろ。魔法の使えるもの、救助のための土魔法や風魔法を使えるものを。ポーションもあるだけ使え」
現地で治療にあたれるように医療騎士も複数人が選ばれ、馬を出しに駆けていく。
「わたしも、わたしも戻ります!」
「案内をしてくれるだけでいいです。あの馬は怪我をしていた……俺がお連れしましょう」
閣下が頷いたのを確認し、厩にむかう。裸馬に乗れる令嬢ならば早駆けでも大丈夫だろう。
馬を走らせて示された地点が見えてくると、確かに不自然に崩れ落ちた崖がある、大きな岩の多い場所だが、この崩れ方は、普通ではない。
「ヴィクスさまっ!」
馬を飛び降り、ドレスを引きちぎらんばかりの勢いで馬車に向かって行く乳母をなんとか止める。
「危険です! 下がっていてください!」
慎重にならざるを得ない作業だ。いつ次の土砂崩れが起きるかもわからない。
その中で馬車の上でいまにも崩れそうな岩を取り除き、埋まった馬車の部品を切り外して、中が確認できるように。
その辺りの作業は魔法騎士たちの方がやるだろうが、見る限り彼女が脱出したという部分は崩れて埋まってしまっていた。
ジリジリと焦燥感のみが募る少しずつしか進められない作業。
少ししてあっと声が上がったと思うと、現場の指揮をしている小隊長が俺を呼んだ。
「失礼しますね」
乳母を他の騎士に頼んでから切り開かれた馬車に近づくと、クッションや座席と複数の岩に挟まれた状態の少年がいた。
真っ白な顔、血まみれで、もう呼吸もほとんど感じ取れない。
……これは……不味い。
慌てて中に潜り込み、何度も意識を確認するが、反応がない。
触れると体温はまだある。呼吸も、弱いが止まってはいない。だが。
「不味いマズいまずい」
ここで治療できる程度を超えている。
通信で大公邸に指示を仰ぎ、屋敷で治療を行うために、とにかく生かして連れてきてくれとの指示を周知する。
そして、いまにも力尽きてしまいそうな幼い少年に必死に呼びかける。
「聞こえるか! 目を開けろ! 助けに来たぞ!!」
——まるで人形に呼びかけているようだ。
どれほど声を張っても、血塗れの少年に届いているとは、思えなかった。
まだ、息はあるのに……。