一晩のはずが
体感としては一晩ぐっすり眠った、程度の感覚だった。
何かお告げめいた夢や現代の状況を見られた、とかがあれば転生した感もあったと思うのだが。
もう陽が高い部屋でのんびりと目を覚ましただけだ。
(お昼過ぎかな……寝過ぎて体も痛いけど……お腹もすいた)
瞼が浮腫んで開けても開けても落ちてくる。泥のような眠気がもっと寝ていようと誘っているけれど、頭は氷水を浴びたようにスッキリしていてもう起きるべきだと告げている。
同じ姿勢で寝ていたせいか手足が粘土で固められたように重く、動かそうとすると錆びた蝶番のように軋む感覚がある。指先から少しずつ動かしていくと、正座の後の痺れのような感覚が血行の改善と共に広がっていった。
何度も瞬きをしてようやく瞼がきちんと開くようになったので、体を起こしてもらうためにアニーを呼ぼうとしたら、ベッドのすぐ脇に座っていたアニーと目が合った。
幽霊でも見たような顔で固まり、こちらを見つめるアニーと無言のまま数秒見つめ合う。
時が止まったような静寂——。
アニー……寝不足なのかな、クマがある気がする……。
どうしておどろいているのか。尋ねようとした瞬間、アニーは弾かれたように立ち上がり、勢いでひっくり返った椅子が鈍い音を立てて床に転がる。
優雅な貴婦人であるアニーが大きな音を立てたり椅子をひっくり返すところなんて初めて見た。
「アニー、どうしたの?」
思ったよりかなり掠れた声になってしまったせいか、アニーの目にみるみる涙が溜まっていく。
「痛いところはありませんか? 辛くはないですか?」
ベッドに乗り上げんばかりに身を乗り出して、譫言のように「大丈夫ですか」と、繰り返しながら髪や頬を撫でる。まるで僕が生きていることを確かめるように。ついには泣きながら僕を抱きしめた。
たった一晩寝ていた間に、いったい何が起きたのかと思うだろう。
姉の回復魔法で意識を失ってから——『ダウン状態』から——目覚めるまでにかかった日数がなんと『五日間』。
「そんなに……?」
事故の後一週間もベッドの上だったというのに、そこからさらに五日間も眠り続けていたという。
驚いて開いた口が塞がらない、というのはこういうことか。
五日間も意識を失っていたなんて。
驚きすぎてちょっと眩暈がしそうだ。
起き上がるのも先生が来てからだとアニーに止められたし。
浮遊感というか、視線がきちんと定まらないような目眩は実際にある。
一晩寝ただけにしてはおかしいとなんとなく思っていたけれど……。
——ゲームの「ダウン」は『休養』しか選択できなくなるが半日〜一日だったのに……。
そういえば姉はあの時、何を考えて僕に治癒魔法を使ったのだろうか。
『優しくしたい』というのが本心で……『僕のため』だったのなら……倒れた僕を見て一番驚いたのは、姉ではないだろうか。
真意はどうあっても、起こした事はひどく叱責されたはずだ。
……まさかとは思うが……落ち込んではいないだろうか。
そんな考えが次々に頭に浮かぶ。
僕にとっては一晩程度の感覚で過ぎ去った五日間。けれど、いいことも起きていた。
アニーが大慌てで連れてきた医師によると、自然に目を覚ましたということは、治癒力が『いまある怪我を回復させる為に使う量は補えるほど回復した』ということだそうだ。
「峠を越えられましたな! もう大丈夫です!」
ここまで回復できればあとは傷も治癒魔法併用で治療ができるし、ポーションも使用できる量が増えるということだ。
言われてみれば、確かに手足の筋力が落ちたような気がする。
喉も乾いていたからアニーがくれた水もたくさん飲んだけれど、コップを落としそうになって驚いた。
けれど、傷の痛みはずいぶん減っている気がするし、痛み止めを使い続ける間付き纏っていた手足が痺れたような感じもしない。
「ヴィクス様は、自然回復力も高い体を持っておられる」
ふくふくとした笑みで頷きながら、ダートン先生が眼鏡を外して涙を拭う。
廊下を誰かが駆けてくる大きな足音。扉が音を立てて開き、父が議題書と書かれたファイルを抱えたまま部屋に飛び込んできた。
「ヴィクス!」
ベッドの上の僕と目が合うと、父は息を呑んで、その場に縫い付けられたように足を止める。
「目が……覚めたのか……!」
持っていたファイルが手から滑り落ちて床に散らばった。父はそれに気がつかない様子で……扉を閉めるのも忘れてベッドに駆け寄る。普段は穏やかな父がファイルを投げ出すという乱暴さに目を見開いてしまった。
「……よく、戻ってきてくれた……よく頑張ったな」
父は壊れ物に触れるように僕を抱きしめ、声を震わせながら何度も「よく頑張った」と頭を撫でてくれる。背中を優しく叩く手が温かい。
————まるで、また死の淵から帰ってきたかのような喜びようだ。
——馬車の事故から生還してずいぶん経つのに……。
父が会議室を飛び出したせいで後を追ってきたらしい執事のエドワードも、こちらを確認して安堵したように穏やかな笑みを浮かべた。その目には涙を光らせている。
『ダウン状態』どころか『瀕死』だったことを知らされたのはその後だった。
『瀕死』は『体力が残り20%を切って』かつ『治癒力を残り5%以下まで使い切る』と陥る。
——ゲームで起きるのは戦闘中だけど、減った体力の回復手段がなく攻撃を受けないよう祈りながらやり過ごすしかない状態——
……『毒』状態のような継続ダメージがあれば『確定で死ぬ』状態だ。
本当に二度目の死の淵にいたのだから、それは心配もさせただろう。
父とアニー、それにダートン先生がひとしきり涙を拭って、よかった良かったと言い合ってから、姉の姿がないことに気がつく。
「あねうえ……は?」
「自室で謹慎しているよ。知らなかったとはいえ、人の命が危うくなるようなことをしでかしたのだからな」
「本来は三日程のはずだったのですが……シャーロットお嬢様が、ヴィクス様が目を覚ますまでは部屋から出ないと……」
あの、シャーロットが?
自ら謹慎?
では、あの「優しくしたい」という言葉は、本心だったというのだろうか。
いや、僕が倒れたことで怖くなって閉じこもっているだけではないのか?
叱られるのを恐れて先回りして反省したふりを…………。
あまり疑うのも……嫌だけど……。
「シャーロットも、この前熱を出しただろう? お前が苦しんでいるから、楽になるようにと思って魔法を使ったといっていたよ」
「僕にも、そう言ってました」
「お前も起きたことだし、シャーロットも部屋から出てきてもらって、二人に話を聞こうか」
先生に起きていても問題ないかを確認してから、アニーに姉を呼びに行ってもらい、その間に父上は僕の部屋の人払いを済ませる。
シャーロットを待つ少しの間、父は本当に安心した顔で愛おしげに僕の頭を撫でてくれていた。
「お父さんにとっては、ヴィクスもシャーロットも、どちらも大切な子どもなんだよ。アニーを付けて守ってもらうこともしたけれど、それでまたシャーロットにいじめられていたんだろう? シャーロットも最近は落ち着いているから、話し合って改めてくれるといいんだけどな」
部屋を温める暖炉の音が、静かな部屋に響いた。
薪の爆ぜる音……春に向かう季節が、今日は少し冬に戻っている。
——姉の『いい子』は、本当に信じていいのだろうか。




