兄や姉
宗教って何だろう? 人間をやめることだ。
人間をやめるって何? 神になることだ。
神になるのは簡単。義に己れを捧げればいい。
義に捧げるとはすなわち、死を崇拝することだ。
死とは何か? 死は地獄だ。暗黒だ。
ならば宗教によって人は救われないのか?
救われないから宗教に傾倒するのだ。
苦しみしかない人生と死の末路は多くの人にとって他人のものだが、誰しもが最後にはそれに見舞われる可能性がある。
利己的な価値が消滅するほど、何らかの美学に価値を置かざるをえなくなる。
若い兄や姉が幼い弟や妹を守るために死んでいく。
飢えや孤児など稀な現代では、そんな光景は漫画のなかにしかないかもしれないけど、そこには「愛」がある。
家族愛は自然だが愛国や共同体主義は人工的として否定するのが資本主義の風潮だけど、本当かな?
現実には、身近な他者への真剣な共感性とより外部への広範な共感性とは連続している。
だから古典的な倫理学つまり宗教では、最高の愛は隔てがないと言うのだ。
避けられない技術発展がもたらす都市化、一言で言えば資本主義によって、庶民の常識的感性は急速に変化しつづけている。
愛と利はどんどん両立しにくくなっている。親切に善良に生きることは報われなくなり、幸福と両立しにくくなる。個人的で利己的な行動選択が、資本主義秩序における人間の幸福追求のあり方として収斂していく。
そこにおいて、自分や自分達だけは利己的個人に成型されることを拒絶しようとするなら、その人達は人間をやめるしかない。
死を崇拝する美学に傾倒していくしかない。
「人間」のあり方は環境条件の変化によって実は徹底的に変化してきた。
拝金主義、力の現実を追認して道義を真剣に問わないことが、唯一「健全」と見なされる人間像になった。
そういった拝金主義や物質主義と距離をとって生きることも一つだが、それらを全体的に否定まですれば、それはもはや人間の否定だ。
「愛」という最も人間らしい価値を現代において保とうとすれば、人間を否定し人間をやめていくしか道がない。
その道はもちろん世間からはとうてい理解されない。
利によって報われないことの末路は死という暗黒であり、美学だけで形成したその道は孤独だ。
孤独。そしてイマジナリーフレンド。
弟や妹のために死んでいく兄や姉。
二人ぼっちの世界の温もり。
尊敬できる人物像を救いとして生きながらえた先に何がある?
人間に見えた彼らは理想化された神であって、資本主義のもとでは人を不幸にしか導かない。
そうだとして、正義のために損をする人も死んでいく人も今の世界にもたくさんいる。
しかし連帯は常に空想的で、戦いは常に負け戦であり、現実としてもたらされるのは苦しみだけだ。
そんな絶望的な条件下でなお道義を愛好するなら、先天的であれ後天的であれそれがその人の本性なのだろう。
つまり人が宗教を選択するのではない。宗教は一部の人々に運命づけられていて避けられない。
弟や妹のために死んでいく兄や姉にもし感謝してしまえば、ふと気づけば弟や妹のために死んでいく兄や姉に自分自身がなっている。
老人世代が若者世代を経済的に搾取し安価な移民労働力を歓迎するなど当然に論外であり、後輩のための献身こそ人間社会の古来からの姿だったはずだ。
これは「思想」だ。思想のある人々と思想のない人々とが存在する。
貧乏人や病人でも「思想」がある場合があるし、むしろ健康な金持ちには思想のない利己的な俗物が多い。
だから結局、長寿や富裕ではなく敗北や苦痛、ひいては死と絶望を崇拝するということになるのだ。
したがって人間達は宗教を弱者の思想だと言い、宗教者は資本家のために共同体を解体された個人主義を弱者の思想だと言う。
もちろんこの文書における「宗教」とは、この文書内部の定義によるものであって、世間の宗教を無分別に肯定するものではない。