【R】の背後に 後編
マリアはバチカンへ、彼女はそこで教育を受け育てられた。当然、聖書の内容も高名な司祭によって教示を受けたが彼女には必要なかった。なぜなら元より聖書を全て暗記していたからだ。ただし、その内容は現存する聖書とは若干の差異があった。
ロックフェラー財団も調査員をバチカンに派遣しマリアの研究を続ける。ユダヤの大富豪ロスチャイルド家を後ろ盾に、ローマ教皇庁も過度に干渉せず彼女を見守る。3つのRがマリアの背後に立つ以上、誰が近寄れようか。
マリアがバチカンへ移り住むことは、彼女の存在を隠匿したい3つのRにとって都合が良かった。たとえばアメリカで奇跡を起こす少女がいると噂が広がれば世間は騒ぐだろう、バチカンだとどうなるか。カトリックのプロパガンダだと思われて終わるのだ。しばし時は平穏に流れた。
ある時期を境にマリアのひとりごとが増えた。
誰かと会話しているようだ。初めは統合失調症を疑われたが、実はこれこそが最も恐ろしい奇跡だった。高名な司祭が聖書のとある事例をマリアに説くと、彼女がそれは違うと言い出した。第二バチカン公会議以降、聖書の解釈にも寛容性を持つカトリックだが、奇跡の少女マリアが口にするなら言葉の重さが違う。
司祭が恐る恐る、なぜ違うのかと聞いた。
マリアは答えた。
「■■■■がそのように仰っておられます」
「……そ、それは神ですか」
「いいえ、■■■■です」
「……な、なんだって?」
「神とお呼びしてもいいのかしら?」
「……マリア、マリア、どういうことですか」
「あら、■■■■ったら意地悪ですね」
「……マリア、こたえなさい、マリア」
「直接司祭さまにお伝えすればいいのに」
「……マリア、それはここにいるのですか」
「ええ、司祭さまの真後ろに」
主よ。そう呟いて司祭は気を失った。
注釈)第二バチカン公会議
1962年から3年間にわたって行われたカトリック教会の会議。全世界の司教が集められ壮絶な議論が交わされた。その内容を要約する才知を筆者は持たないが、一神教であるキリスト教、しかも保守的なカトリックが他の宗教を認め、多様な価値観を尊重すると宣言した。是非はともかく大革命である。
◇◇◇
昆虫が人を正確に認識できないように、人類が宇宙を正確に認識できないように、知性のキャパを超えた存在は、ただ「大いなるもの」として認識するしかない。マリアがなぜ奇跡を起こし、誰と交信しているかなど、わかるはずがないのだ。
ロックフェラー財団は研究の方向転換を余儀なくされた。解析不能な奇跡の根源を発見することよりも、マリアを人類と敵対させない方法を探ることに尽力した。例えるなら人類進化の新薬開発を断念し、開きかけたパンドラの箱を閉じる対処療法に専念したのだ。パンデミックとなっては遅い。
観察なくして知見なし。以降マリアの行動は常に監視され、記録されていく。しかし彼女は普段通り振舞った。ストレスを与えないよう配慮されているのもあるが、それ以上にマリアは天真爛漫で、細かいことを気にしないのだ。
財団の調査報告によると
・マリアは無意識に超常の現象を起こす
・マリアの超常は日常生活の範囲に留まる
・マリアは小腹がすくと白いパンを出し食べる
・マリアは水を葡萄ジュースに変える
・マリアは水上を任意で歩く
マリアは誰も傷つけなかった。もちろん傷つける者もいない。3つのRが背後にある彼女に害をなす者など存在し得ないのも事実だが、なにより彼女には悪意というものが全く存在しないのだ。財団の調査では知能指数は平均値、しかし彼女がわざと平均値を出すよう調整しているのは見抜いていた。実際の指数は測定不能。
マリアは誰も助けなかった。財団は彼女が怪我や病気の治療はもちろん、死者の蘇生も可能ではないかと予測している。しかしマリアは一切それを行わない。一度だけ死んだと思わしき小鳥が、彼女の手の上で蘇った事例は確認されている。報告書では飛び立つ小鳥を見つめるマリアの瞳は、冷たかったと記載されている。恐らく戯れか、あるいは力の確認だったのだろう。マリアは平等に優しく、平等に冷たいのだ。
マリアは成人し、バチカンで修道女 (シスター) となった。戸籍上はロスチャイルド家ゆかりの貴族の養女である。
◇◇◇
「そう、スジャータはカレーが好きなのね」
「ええ、シスター・マリア、料理は哲学です」
父がオブザーバーとしてロックフェラー財団に関わるスジャータは、インドの貴族令嬢としてマリアと懇意にしていた。マリアの見識を広げるため選ばれた、いわば作られた友人ともいえるが、貴人の世界はそういうものである。
「ねえ、世界中の貴族令嬢を集めて、料理大会なんて素敵じゃないかしら」
「まあ、素晴らしいですわシスター・マリア」
冬の木漏れ日がテラスを照らし、十字架の意匠が施された椅子に腰かけるマリアのまつ毛を輝かせる。しかし彼女は背中を椅子に預けなかった。マリアは過去の事例を含め、現在に至るまで何かを要求・提案したことはない。それが料理大会? スジャータの背中に寒気が走る。春はまだ遠い。
スジャータは知る、高度な存在に無駄はない。複雑なことも最短で済ませてしまう。神もだ。世界中の神話で神々が最適解としてカタストロフィーを起こしている。ノアの方舟に乗れなかった存在に胸を痛めるスジャータは、マリアの言葉が聞き逃せない。
「貴族令嬢の料理大会、ぜひ開催しましょう、ね」
「すぐに手配いたしますわ、シスター・マリア」
「私も参加いたします、素敵な賞品も用意するわ」
「それは素晴らしい、優勝者は何を手にしますか?」
スジャータは祈る
気紛れであってくれ
戯れであってくれ
しかしスジャータは知る
高度な存在に無駄はない
複雑なことも最短で済ませてしまう
そしてスジャータは絶望する
祈るべき相手が目前に座り
冷たく微笑んでいるのだから
「未来よ」