第一話
遠く、耳の奥底にじわりと響くような、ざわめきにも似た声が聞こえる。
「リチャード様、リチャード様……」
重い瞼をゆっくりと持ち上げると、そこには見知らぬ天井があった。薄暗く、湿気を帯びた空気。視線を巡らせると、困惑と心配を滲ませた瞳が、いくつもこちらを覗き込んでいた。メイド服を着た、若い女性たちだ。
(波の音がする……)
耳を澄ますと、潮騒が微かに聞こえる。ここはどこだ?
「リチャード様、こんなところで横たわっていては危険です。波にさらわれてしまいます」
「今朝、お兄様をお探しになると言って、お城を飛び出されたと伺いましたが……一体、何があったのですか?」
「お体の具合はいかがですか?どこか痛むところは?」
矢継ぎ早に投げかけられる言葉の雨。メイド服を着た幼い顔立ちの少女が、不安げに年長のメイドに声をかけた。
「ルシアさん、リチャード様の従者たちを呼びましょうか?」
「そうね、アリス。そうしてください」
(マリナは?マリナはどこにいるんだ?)
意識が朦朧とする中で、必死に記憶を手繰り寄せる。そうだ、俺はマリナと一緒に船に乗っていた。セントエルモの火に包まれた船。紫色の霧に覆われた海。霧の奥から響き渡る、不気味な咆哮……。そして、波に浚われた。そこまでは覚えている。
「マリナはどこだ?」
掠れた声で問いかけると、メイドたちは顔を見合わせた。
「マリナ様?」
「マリナ様、とは……?」
「リチャード様、大丈夫ですか?お城には、そのようなお名前の方はいらっしゃいません」
彼女たちの言葉に、胸がざわつく。大波が来た時、俺はマリナの手を握り、守り抜くと誓ったはずだ。フェンシングも、将棋も、人並み以上に鍛錬を積んできた。しかし、その努力は報われず、いつも夢は夢で終わっていた。今回こそは、美少女の女流棋士を救い、ヒーローになれるかもしれないと、愚かな希望を抱いた。だが、結果はいつもの通りだ。俺は、何もできなかった。
後悔と自責の念に苛まれながら、よろめきつつも立ち上がる。幸い、身体に目立った外傷はないようだ。
「リチャード様、ご無事のようで何よりです。お城までお送りしましょう」
数人の従者が駆けつけ、俺を気遣わしげに見つめる。
(リチャード?城?一体、何がどうなっているんだ?)
戸惑いを隠せない俺に、ルシアと呼ばれた年長のメイドが優しく語りかける。
「リチャード様、お城へ戻りましょう。王様が、大変ご心配されています。私がご案内いたします」
砂を払い、腰に手を当てると、そこには見慣れない剣が装備されていた。ルシアにリチャードとは誰なのかを尋ねようとしたその時、砂の中から鎌首が持ち上がり、ルシアの白い足首を目掛けて牙を剥いた。
「きゃっ!」
ルシアの悲鳴が上がる。鎌首が彼女に襲いかかろうとした瞬間、俺の体が勝手に動き、剣を抜き放ち、鎌首をめがけて振り下ろしていた。剣は鎌首を真っ二つに切り裂き、砂の上に頭と尻尾が分かれた蛇が横たわった。
「リチャード様、ありがとうございます」
ルシアが、涙を浮かべながら礼を述べる。化粧はしていないが、その顔立ちには気品が漂う。なぜ、体が勝手に動いたのか。不思議に思いながら、ルシアに現在地を尋ねた。
「ここはどこだ?」
「リチャード様、記憶を失われたのですか?額に傷があり、出血しています。早くお城で手当てをしなければ」
ルシアは白い布を取り出し、俺の額に巻き、傷口を押さえ続けた。
「ここは、ローレンツ王が治めるアーカート城の近くです。最近、お城の周辺で不気味な咆哮が聞こえるようになり、皆が恐れています。早くお城へ戻りましょう」
遠くで雷鳴が轟き、昼間だというのに周囲は急速に暗くなっていく。砂浜の奥には、砲台のようなものが見える。
(マリナは無事なのか?喫茶店で彼女が話していた夢が気になる……)
青銅の髪飾りをつけたルシアに、問いかける。
「俺は、本当にリチャードなのか?ハヤトではないのか?」
「リチャード様、ハヤト様もマリナ様も、アーカート城にはいらっしゃいません」
混乱する俺に、ルシアはさらに言葉を重ねた。
「リチャード様、あなたは正真正銘のリチャード・ローレンツ様です。ローレンツ王の次男、第二王子でございます。お兄様のメイ・ローレンツ様は、王位継承者となるはずでしたが、昨日から行方不明になっており、リチャード様は今朝からお兄様をお探しになっていたのです。リチャード様、お兄様は見つかりましたか?」
記憶のない俺は、首を横に振る。
「わからない」
ルシアは、他のメイドたちに声をかけた。
「さあ、リチャード様をお城へお連れしましょう」
(まさか、俺は東京からこの異世界に転生したのか?ハヤトではなく、リチャードとして生まれ変わったのか?ここでも、あの不気味な咆哮が聞こえるとは……)
ルシアがアーカート城と呼んでいた城に戻ると、王冠を被った老人が玉座に座り、俺を待っていた。
「リチャード、メイは見つかったか?」
(この老人が王か)
ルシアが代わりに答える。
「王様、まだ見つかっておりません。リチャード様も、砂浜で意識を失っておられました。額には傷があり、手当てが必要です」
老人は落胆した様子で、しわがれた声で俺に語りかける。
「そうか。しばらく休むといい。体調が戻ったら、私の部屋に来てくれ。一刻の猶予もない状況になりつつある」
その後、俺は城内のリチャードの部屋に案内され、ルシアから手厚い看護を受けた。医師はローレンツ王の治療で手が離せないらしく、ルシアが付きっ切りで世話をしてくれた。特に、薬草をすり潰して塗布し、額の傷を優しく撫でる彼女の指先に、安堵を覚えた。
数日間、寝ては食べるという生活を送り、額の傷は跡形もなく消え、体調も回復した。たった数日で傷が治るなんて、ハヤトとして生きてきた人生ではありえないことだった。老王の言葉が気になり始めたので、ルシアに案内され、彼の部屋を訪ねた。
「リチャード、体調は戻ったか?傷も大丈夫そうだな」
老王は、頭を抱えていた。
「紫色の霧が城を覆い始めている。四百年の時を経て、代々伝わる古文書に記された悪魔の封印が解かれようとしているのだ」
「一刻の猶予もない状況とは、一体何のことですか?」
俺は老王に尋ねた。
「メイがすぐに見つからなければ、リチャード、お前が選ばれし者として、邪悪な存在を封じ込めなければならない。お前がアポフィスの悪魔を封印しなければ、このアーカートの地が、そして人々が滅びてしまうかもしれないのだ」