第44話 マタダム
エレイン王国の跡地。
かつて繁栄を極めたその国は、今では廃墟と化していた。崩れた城壁、風化した石畳、草に覆われた街路――。しかし、ただの荒廃ではなかった。そこには長い歴史と、人々の思いが確かに刻まれていた。
ここが、アウラの選んだ 死に場所 だった。
静かな風が吹き抜ける。時折、遠くで鳥の鳴く声が響く。穏やかで、どこか寂しげな風景の中に、たくさんの人々が集まっていた。
アウラの最後の人生を見届けるために。
商人レナード。かつてアウラに商売の心得を教え、共に旅をした男。今は立派な商会の主となり、その顔にはかすかな寂しさが滲んでいた。
国王ロメオ。かつての敵であり、今は友。その隣には、美しく成長した 妻ヘスティ。彼女は変わらぬ静かな表情のまま、しかしその指先は小さく震えていた。
妻ジョバンナと、夫エルギン。彼らは共にアウラと剣を交え、共に戦った仲間だった。今は平穏な日々を送る彼らも、この瞬間だけは静かに見守っていた。
そして、カルクおじさん。幼い頃のイシアルを見守ってくれていた、数少ない心優しき存在。彼の瞳には、年老いた者特有の深い哀しみが宿っていた。
「本当にいいのか?」
ロメオの問いは、風に乗って響いた。その声には、ほんのわずかに迷いと寂しさ が滲んでいた。
アウラは、静かに微笑んだ。
優しく、穏やかに――。
それは、長い旅路の果てに辿り着いた者だけが見せる、安堵の表情だった。
そして、ゆっくりと 頷いた。
その仕草は、まるで 最期の幕が下りることを受け入れた者のように。
「なぁ、聞いたか。今日らしいな」
「……ああ。マタダムが、死ぬってさ」
乾いた声が、地下牢の暗い空間に響いた。埃っぽい空気の中で、その言葉は異様なほど鮮明に耳に届く。
――マタダムが、死ぬ。
ロザリアの心臓が凍りつく。
その瞬間だった。
轟音とともに、鉄格子が粉々に吹き飛ぶ。牢屋の壁までもが砕け、土埃が舞い上がる。看守たちが悲鳴を上げ、後ずさる。だが、ロザリアは何も見ていなかった。
アウラを探さなければ――。
大地が震え、巨大な扉が轟音とともに吹き飛ぶ。破片が周囲に舞い散る中、ロザリアは叫んだ。
「アウラ!!!!」
その声は、絶叫に近かった。彼女の魂の底からの叫びが、青の空を揺るがした。
だが、その前に立ちはだかる者がいた。
黄金色の髪が陽光を浴びて揺れる。静かな瞳が、しかし強い意志を宿していた。
――イシアル。
彼女は静かに聖剣を構えた。ロザリアを止めるために。
「……止めちゃだめ」
「……は?」
ロザリアの眉が跳ね上がる。
イシアルは、かすかな声で続けた。
「それがアウラの選択……彼の願いだから」
ロザリアの心臓が冷たく締めつけられる。
アウラが、自ら選んだ――?
「そんなの、止めるわよ!!!!」
ロザリアの叫びが、怒りと哀しみを帯びて響いた。嫌だ。嫌だ。嫌だ。そんなこと、認められるはずがない。
「死んでほしくない!!!!!」
ロザリアの体から、怒りにも似た魔力が溢れ出す。
しかし――イシアルはすでに手を打っていた。
空を貫くように、四本の聖剣が大地に突き刺さる。それは、国全体を囲むかのように配置されていた。
瞬間――空間が聖なる光に染まる。巨大な結界が城を包み込み、魔族の力を封じる檻となる。
ロザリアの体が、一瞬にして重くなった。聖剣の力は、彼女の固有スキル《魔王》を無効化する。さらに、魔力の流れを阻害し、肉体の力さえ奪う。
だが――そんなものでは、止まらない。
ロザリアは歯を食いしばり、体中に魔力を巡らせた。瞬く間に皮膚が裂け、内側から黒い紋様が浮かび上がる。人間の皮が剥がれ、魔王ロザリア が姿を現した。
――その名を知る者は、まだ少ない。
「やめて」
イシアルの声が揺れる。
「ここには、あなたのことを知らない人もたくさんいる……」
魔王がここにいると知れれば、国が動揺する。恐怖に駆られた者たちが、暴動を起こすかもしれない。ロザリアを敵と見なし、殺そうとする者が現れるかもしれない。
それでも――ロザリアには、もうそんなことはどうでもよかった。
「そんなの知らないわよ!!!!」
彼女は魔剣を引き抜いた。目の前の光の結界を睨みつけながら、涙の滲む瞳で叫ぶ。
「嫌よ!!!! 死なせないで!!!!」
全身を魔力が駆け巡り、剣が震える。痛みも、理性も、すべてを振り切ってロザリアは吠えた。
「なぜ終わらせないといけないの!!!」
こんな形で、終わらせるなんて――許せない。
「止めるに決まってるでしょ!!!!」
魔剣が結界へと振り下ろされる。ロザリアの悲痛な叫びが、国全体に響き渡った。
「兄なら、一番ロザリアのことをよく分かってるだろ」
アウラは静かに言った。
「俺を止めようと暴れまくる。だから、捕らえて、しばらくの間、地下に監禁してもらったんだろ」
ロメオは目を伏せた。ロザリアがどうするか、最初から分かっていた。
「ですが……最後になるのに……」
ロメオの声はかすかに震えていた。
「それに……イシアルさんも……」
アウラはゆっくりと息を吐いた。
「投獄の件も、ロザリアの足止めの件も、提案してきたのはイシアルの方だ」
その言葉に、ロメオの顔が強張る。まるで全身の力が抜けるように、わずかに肩が落ちる。そして、次の瞬間――彼は、泣きそうな顔で目を潤ませていた。
何も言えないまま、ただ立ち尽くす。
アウラは、その様子を見ながら、ふと心の中で思った。
――本当に、いい兄を持ったな。
足元の大地が、何もない虚無へと変わっていく。無の大地 に、ついにアウラは足を踏み入れた。
空は鈍色に沈み、風すら吹かない。音も、匂いも、命の気配すらない。ここではすべてが無へと還る。
自分の魔力が、じわじわと体を蝕んでいく。
肌が焼けるように熱を持ち、内側から崩れていく感覚。だが、それを痛みとは思わなかった。むしろ、ようやくこの体が「終わる」という現実を受け入れてくれた気がした。
目指す場所はただ一つ――丘の上にある 自爆魔法の核。
ゆっくりと、しかし確実に足を進めるたびに、身体の一部が削られていく。まるで、この世界に自分の存在そのものが溶けていくようだった。
それでも、アウラの意識は鮮明だった。
――長かった。本当に、長かった。
しかし、思い返してみると、不思議なほど一瞬のようにも感じる。生きることは、こんなにも儚かったのか。
ついに、この時が来た。
やっと、夢が叶う。
本当は、こんなことをしなくても寿命でいつか死ぬと分かっていた。それでも、アウラはこの道を選んだ。
「自分の命を、自分の力で終わらせる」
そのためにここまでやってきた。
そうすれば――本気で自分自身を認められる。本気で自分自身を許せる。本気で自分自身を好きになれる気がした。その思いだけを胸に、アウラは 最後の人生を、今度こそ自分の足で歩いた。
「そこをどきなさい! イシアル!!!」
ロザリアの咆哮が、昼の空を裂いた。怒りと哀しみが入り混じった、魂の底からの叫びだった。その声が震える大気を貫く。
しかし、イシアルは一歩も引かない。風にたなびく銀髪を背負い、剣を構えたまま、まっすぐにロザリアを見据えた。
「できない!」
力強い声が響く。
「アウラから託された思いなの! 絶対に! ここを通しはしない! この命に代えてでも!」
その瞬間――ロザリアの足が止まった。剣を握る手がわずかに震える。
――通れない。
その事実が胸を突いた瞬間、ロザリアの膝が崩れた。地面に膝をつき、まるで支えを失ったかのように、力なく沈み込む。
「どうして!! どうして!! どうしてこうなるのよ!!!!」
絶望の涙が、滲む視界を覆った。剣を握る手が震え、ついにその刃を地に落とす。
「好きなの! 愛してるの!!!」
ロザリアは泣き叫ぶ。苦しみを、痛みを、どうしようもない無力感を、ただ声にして吐き出した。
「愛した人が死のうとしてるのに………… 何でそれを止めちゃだめなのよ!!!!!!」
イシアルは、それを聞いていられなかった。何も言えない。言葉が、喉の奥で凍りつく。
――正しいことをしているはずなのに。間違っていないはずなのに。なのに、こんなにもロザリアの涙が痛い。
ロザリアの肩を掴み、必死に抱きしめた。震える彼女の身体が、余りにも小さく、壊れそうに感じた。
「……ねぇ、どうして!!!!」
ロザリアの嗚咽が、彼女の胸に突き刺さる。
「何でだめなの!!! なんでいけないのよ…………」
イシアルは答えられなかった。なぜ、自分はロザリアを止めているのか。本当に、アウラのためだけなのか?それとも……。
――自分が、アウラを止めたいだけなのか?彼が逝ってしまうのが、怖かった。けれど、その感情を認めることはできない。イシアルは、ただ自分自身に言い聞かせた。これは、ロザリアのため。アウラのため。
けれど――本当は、自分の中に残っていた 醜い感情 なのではないか。ただ、アウラを手放したくなかっただけなのではないか。
胸が締めつけられる。自分のしていることが、ひどく偽善的に思えた。
――アウラは、自分の意志で決めた。でも、自分はそれにすがりついているのではないか。
「……ごめん…………ごめんなさい……」
震える声で、誰にも聞こえないほど小さく囁く。その言葉は、誰に向けたものなのかすら分からなかった。
ロザリアに対して?アウラに対して?それとも――自分自身に対して?
わからない。けれど、何かから逃げているような気がした。
罪から、逃げているような気がした。
唇を強く噛みしめる。鋭い痛みが走る。血が滲み、鉄の味が広がる。
うつむいたまま、イシアルの頬を涙が伝う。
――それは、勇者の罪の涙だった。
意識が朦朧としていく。まるで、霧の中を歩いているように、視界がぼやける。しかし、その霞んだ世界の向こうに浮かんでくるのは、どれも暖かな記憶だった。
――楽しい思い出ばかりだ。
笑い合った日々。出会った仲間たちの顔。かつては孤独だったはずなのに、今はこんなにもたくさんの笑顔が蘇る。
アウラは、ふと気がつく。
目の前には、魔法の核があった。
いつの間にか、そこへ辿り着いていた。身体は崩壊の兆しを見せ、指先の感覚すらほとんどない。力が抜け、思うように動かせない四肢を、それでも無理やりに動かす。
最後の一歩を、踏み出すために。
ふらつきながらも、両腕を広げ、魔法の核を抱き込むように包み込んだ。そのまま、ゆっくりと体を折り曲げ、両腕に込めたわずかな力で核を潰す。
砕ける音が響く。それが、世界との最後の繋がりを断ち切る音だった。
魔法の核が崩れた瞬間、アウラの意識は宙へと溶けていくようだった。
――死んだのか。
自分の身体を見下ろす。足元から静かに崩れ、粉雪のように消えていく。まるで夢が終わるかのように、ゆっくりと。
「アウラ」
呼ばれた気がした。
振り返る。
そこに――ユラがいた。
風に揺れる長い黒髪。どこまでも優しく微笑む、その姿は変わらない。
「ユラ!」
胸の奥が、熱くなった。もう、考えるよりも先に身体が動いていた。アウラはユラの差し出す手を無視し、その体に飛び込む。
――暖かい。
この感触を、知っている。確かに知っている。
ユラは、そんなアウラの頭を優しく撫でた。幼子をあやすような仕草で、まるで最初からこうなることを知っていたかのように。
「ほら、見て」
ユラの言葉に導かれるまま、丘を見上げる。
その瞬間、世界が色を取り戻していった。
今までアウラの魔力によって封じられていた魔法――それが解放された瞬間、エレイン王国の跡地一帯に 花が咲き乱れた。
花畑が、命を吹き返すように広がっていく。
アウラの崩れゆく身体を、優しく包み込むように。吹き抜ける風が、花弁を舞い上げ、色鮮やかな花吹雪を生み出した。
儚く、美しく、まるで祝福のように――。
そして、アウラの身体は、完全に消えた。
けれど、不思議と怖くなかった。心が満ちていた。ようやく、終わりにたどり着いた。
「いこっか」
ユラが微笑みながら手を差し出す。
アウラも、迷わずその手を握り返した。
「ああ」
二人は手を繋ぎ、満面の笑みで微笑んだ。
花吹雪の舞うその中を、並んで歩いていく。
――どこまでも、どこまでも、二人一緒に。




