第43話 決着
いつものように、アウラは踏み込めない。いつもなら、攻撃を避ける必要などなかった。しかし、今は違う。痛覚がある。血が流れる。体が悲鳴を上げる。その違和感が、アウラの判断を鈍らせた。
ヘルトは笑う。歓喜に満ちた声を上げながら、鋭い刃を何度も振るう。剣が空を裂き、アウラの肉を裂いた。無敵という甘美な感覚に身を任せていたのは、ヘルトも同じだった。だが、彼はかつて勇者だった。戦いの記憶は、体に刻まれている。それが、今のアウラとの決定的な差を生んでいた。アウラは圧倒されていた。剣を交えるたびに、力の差が露わになっていく。
ヘルトの刃が顔を掠める。体を斬る。骨まで届きそうな斬撃が、アウラを切り刻む。傷口から滴る血は、止まることを知らなかった。
回復魔法など発動する余裕もない。
ヘルトの斬撃が、アウラの左腕を深々とえぐる。鈍い痛みが体中を駆け巡り、アウラは動きを止めた。その隙を逃さず、ヘルトは楽しげに蹴り飛ばす。
アウラの体が無様に地を滑る。背中を引きずり、左腕から血が滴る。もう、動かない。それでも、右手だけで体を無理やり起こす。
——みっともなくてもいい。最後まで足掻け!
アウラはもう一度、飛び出した。声にならない叫びを上げ、ヘルトの剣に弾かれる。それでも立ち上がる。倒れては、剣を握り振るい、砕かれれば、また生み出す。それを何度繰り返したのか。
ヘルトの水平斬撃が、アウラの左腕を狙う。今度は、かわさない。アウラは、左腕を振り上げ、斬撃を受け止める。鋼の刃が、肉に食い込む。骨まで達しようとする剣が、止まる。
歯を食いしばり、痛みに耐えながら、アウラは動いた。
右手の剣を、ヘルトの腹へと突き出す。鈍い感触。剣が、確かに肉を貫いた。
ヘルトの表情が、一瞬だけ歪む。だが、すぐに愉悦の笑みへと戻る。
後ろへと飛び、距離を取ろうとするヘルト。アウラは、剣を手放し、空を切る右手を伸ばした。その手のひらから——炎が吹き荒れる。——しかし、それは届かない。
ヘルトの魔法障壁が、赤々と燃える炎を弾いた。ヘルトは笑っていた。アウラの全力を、ただ楽しむように。
アウラは、力強く飛び出す。まだ終わりじゃない。まだ、戦える——!
距離を離させまいと、アウラは飛行魔法で一気に間合いを詰める。その刹那、ヘルトが生み出した漆黒の剣が宙を裂き、槍のようにアウラへと突き刺さるように投げられた。
アウラはためらいなく左腕を掲げた。鋭い閃光――肉を裂く感触――次の瞬間、左手首が宙を舞い、紅い軌跡を描いて落ちる。痛みなどどうでもいい。すでに死んだような身体だ。斬撃の軌道をわずかに逸らすことができた。それだけで十分だった。
左腕の断面から噴き出す血。アウラはそれを利用し、視界を遮るようにヘルトの方へと血飛沫を飛ばす。
そして、落ちた左手を無造作に拾い上げた。指先に力を込める。血の滴る肉の塊に魔力を込める。
まるで狩りをする獣のようなアウラの動きに、ヘルトの眉がわずかに動いた。アウラは一瞬の隙を逃さず、握りつぶした自らの左手を投げ放った。
「何を狙っている?」
ヘルトは不敵な笑みを浮かべたが――その表情が一瞬にして凍りついた。悪い予感がしたのだろう。だが、気づくには遅すぎた。
「遅い。自爆魔法だ」
アウラの投げた肉の塊が黒い魔力を纏い、爆発した。轟音とともに魔法障壁を砕き、黒い炎が渦巻くように戦場を包み込む。崩壊の黒が、すべてを飲み込むように広がっていく。
アウラはその混沌の中心へと飛び込んだ。巻き込まれることは理解している。だが、それでも行く。
右手に剣を生成し、迷いなく黒い炎の中へと突進した。迎え撃つように、ヘルトの両手に握られた剣が煌めく。だが、その剣はすでに崩壊を始めていた。黒い炎が、ヘルトの魔力すら蝕んでいく。
いくら自身の魔法とはいえ、完全に無効化できるわけではない。ヘルトは真っ先に脱出を試みる――その一歩を阻むように、アウラが猛然と突っ込んだ。
この領域では、魔法障壁など使えない。個体でない魔法はすぐに飛散する。ならば、受け止めるしかない。剣で、己の肉体で。
ヘルトの両手の剣が、迫りくるアウラを迎え撃つ。その刹那、アウラの左腕が――血の中で魔力が脈打つ。崩壊の波が広がる左腕で、アウラはその刃を受け止めた。
衝撃。軋む骨。砕ける肉。肉が裂ける感触は生々しく、激痛が体を襲う。
続くヘルトの斬撃を、アウラは捻るように体をひねり、蹴りで弾いた。だが、その代償は大きかった。
左腕は完全に千切れ、右足が根元から斬り落とされる。しかし、それすらも犠牲にして、アウラは進む。
ヘルトの目の前――その距離まで、辿り着いた。
これが最後の一撃。右手に握られた剣が、まっすぐにヘルトへと突き出される。
だが――ヘルトの手にも、剣があった。崩れかけの剣。それでも、まだ砕けてはいない。
刹那、剣と剣が交差する。弾ける衝撃。砕け散る破片。
ヘルトの剣は粉々に砕け、アウラの剣は手からこぼれ落ちた。
あと一歩――届かない。
――いや、まだだ‼
アウラは吹き飛ばされた剣を、咄嗟に喰らいつくように咥えた。
刃が唇と舌を裂き、鉄の味が口内に広がる。喉の奥を焼くような生臭さに、反射的にむせそうになるが、そんな余裕はない。全身を貫く激痛すら意識の外へ追いやり、ヘルトにもたれながら最後の力を振り絞る。
剣が振り下ろされる瞬間、アウラの左腕が塵と化した。肌が崩れ、骨が霧散し、何もなかったかのように空へ溶ける。しかし、その犠牲と引き換えに、自爆魔法の気配が霧散し、戦いの終焉が刻まれた。
砕けた石畳に沈むのは、ボロボロのロザリアと無傷のオノクリア。まるで時間が止まったかのように、誰もが動きを止め、アウラとヘルトの決着を見つめる。
ヘルトの乗っていたアウラの身体は見るも無惨だった。
黒銀の髪は血に染まり、体中が裂け、片腕と片足を失っている。それでも、彼は倒れていない。
地面に横たわるヘルトの喉には、アウラの剣が深々と突き刺さっていた。
――勝ったのだ。
戦場に漂うのは、静寂と安堵。ロザリアの胸が強く上下する。勝ったのに、足元がふらつくのは、体力の消耗だけではない。あまりにも異常な戦いだった。
その時、オノクリアが膝を折った。
「え。なによ、急に」
ロザリアが警戒するように身構えると、オノクリアは伏し目がちに、静かに告げる。
「魔王ロザリア様。私、オノクリアはあなたに忠誠を誓います」
ヘルトを失ったオノクリアの瞳には、何の迷いもなかった。もしロザリアが「死ね」と命じれば、ためらいなく自害するだろう。しかし、そんな選択は取らなかった。
ロザリアは戦争の中で、多くの命が散っていくのを見てきた。もう、無駄な血は流したくなかった。
戦争は、終わった。
王都デネボラの空は、長い混沌を経てようやく静寂を取り戻していた。しかし、まだ全てが終わったわけではない。
ジョバンナはヘスティの亡骸を見つめ、その瞳がかすかに揺らいだ。何かに気づいたように、彼は急ぎ足で地下室へと駆け出す。
薄暗い地下。静寂を湛えた空間の奥に、無数の水槽が並んでいた。澄んだ水の中には、揺らめく魔力の粒が漂っている。ジョバンナは息を弾ませながら、それを指差した。
「ヘスティの魔力が……まだ、ここに残っている」
生き物が死ねば、魔力は霧散する。だが、この地下の水槽は長年の研究の末に生み出されたものだった。閉じ込められた魔力は、逃げることができない。
イシアルの精妙な魔法によって、水槽に残る魔力は一つに集約される。まるで、大地に還るはずだった命の断片が、再び一つに紡がれるように。
そして、ヘスティの亡骸をその水槽へと沈めた。アウラが手を伸ばし、無言で高度な治癒魔法を施す。水面が波紋を広げ、微細な光が揺らめいた。ヘスティの体が、穏やかに温もりを取り戻していく。
――そして、目を覚ました。
薄く開いた瞳は、まるで眠りから覚めたばかりのように曖昧だった。ゆっくりと水面から顔を上げる。
彼女の体から、魔族の力が抜け落ちていた。今まで纏っていた威圧的な魔力の気配は、跡形もなく消え去っている。もはや、彼女は魔族ではなかった。
ヘスティは静かに指を握る。軽い――それが、最初の感想だった。力が抜け落ちたのではない。余計なものが剥がれ落ちた のだ。
それは、まるで長い夢の終わりのような感覚だった。
そんな彼女に向けられるのは、温かな眼差しだった。ジョバンナも、イシアルも、アウラも、そして他の仲間たちも――。誰もが優しい笑みを浮かべて、彼女を迎えていた。
その瞬間、ふと胸の奥に、一つの思いがよぎる。
――皆に愛されている。
ミラルフがかつて見た未来の記憶。それは、この瞬間だったのかもしれない。
誰もが笑っている。ヘスティを囲むように、穏やかで、温かい光景が広がっていた。
そして、その光景の中に、ミラルフの嬉しそうな笑顔がよみがえる。まるで夢の続きのように、彼の柔らかな笑顔が、彼女の記憶の奥底から浮かび上がる。
……そんなことを考えた自分に、ヘスティは驚いた。
そう思った瞬間、心の奥から何かが込み上げてきた。生まれてから一度も感じたことのない、得体の知れない感情。
胸が震える。どうして?これは何?知らない感覚に戸惑い、思わず口元に手を添える。
その仕草に、皆が心配そうに見つめる。
ヘスティは、そっと唇を震わせた。
――こみ上げるものに逆らえず、ゆっくりと、微かに。
「ふふ……」
小さく、けれど確かに、ヘスティは笑った。
それは、彼女が生まれて初めて浮かべた笑みだった。




