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第41話 一生分の救いを得た少女

 そのまた昔。魔王が生まれるよりも、さらに遥か昔の話。とある村には古き仕来りがあった。神に無垢なる少女を捧げよ——それがこの村の掟。何世代にも渡って繰り返されてきた、疑うことすら許されない神託。

 もしそれを破れば、村は神の断罪を受け、天変地異に見舞われるという。だからこそ、誰も疑わなかった。疑うことは、許されなかった。

 そして、その年に選ばれたのは ユラ という名の少女だった。

 生まれた瞬間に定められた運命。彼女は生贄になるためだけにこの世に生を受けた。

 誰もユラに話しかけなかった。

 誰もユラに触れなかった。

 無垢でなければならない。穢れがあってはならない。

 だから、村人たちはユラを 丁寧に扱った。だが、その扱いは物以下だった。食事は与えられるが、それはただの義務だった。服は与えられるが、それはただの形式だった。

 清めの水で体を洗われ、部屋は毎日掃除されたが、それはただの"儀式"だった。それは愛ではなく、慈しみでもなかった。今まで何度も生贄として捧げられてきた少女たちは、やがて喋ることをやめ、感情を失っていった。

 ただの生贄として、ただの供物として、その役目を果たすために。

 しかし——ユラは違った。ユラは、笑った。誰も返事をしなくても、笑顔で話しかけた。どんなに無視されても、壁の向こうに向かって話しかけた。ユラは 人と繋がることを諦めなかった。

 そんなユラを、村人たちは恐れた。

 彼女は "話してしまう" のではないかと。彼女は "誰かと心を通わせてしまう" のではないかと。

 そしてもしそうなったら——ユラは "無垢"ではなくなってしまう。

 村人たちは焦り、恐れ、彼女を 壁に囲まれた家へと閉じ込めた。窓のない部屋。扉の外にはいつも誰かが立っていた。食事を運ぶおばさんが、何も言わずにユラの部屋を掃除する。ユラの体を洗う。清らかで、無垢であるために。そして、また無言で部屋を出て行く。

 ユラは、その背中に向かっていつも明るく話しかけた。


「おばさん、ありがとう!」


 だが、返事はなかった。

 それでもユラは、笑った。


「ねえ、おばさん!」

「今日は天気がいいよ!」

「今度、一緒に遊ぼうよ!」


 明るく声をかけ続けた、きっと誰かが答えてくれると信じて——そんな、ある日。

 庭で一人、何の意味もない遊びを繰り返していたとき。かすかな音が聞こえた。

 ——がり、がり

 何かが壁をこするような音。こんな場所で、初めて聞く音だった。ユラは目を輝かせながら、音のする方へと歩いた。音は、壁の向こうから聞こえていた。ユラは壁の隙間を覗く。

 ——がり、がり

 小さな手が、壁をよじ登っていた。そして、壁の上に"誰か"が顔を覗かせた。ユラと同じ綺麗な黒髪。涼しげな瞳。少年は、ユラを見つめて——。


「俺はアウラ。君の名前は?」


 ユラの体が、びくりと震えた。

 ——声が、届いた。

 生まれて初めて、誰かが自分に 話しかけてくれた。ユラは信じられずに、口元を抑えた。胸の奥が熱くなった。声が出ない。いや、出そうとしても、喉が震えてうまく言葉にならなかった。

 でも、伝えなきゃ——そう思った瞬間、涙がこぼれた。

 生まれて初めて、自分に向けられた声があった。

 生まれて初めて、自分に触れた言葉があった。

 ユラは、泣きながら、必死に笑った。


「私は、ユラ!」


 精一杯の笑顔で答えた。

 それは 生まれて初めての会話だった。

 それだけで——アウラを好きになるには十分だった。

 それからというもの、アウラとユラは毎日のようにこっそり遊んだ。

 ユラにとって、それは夢のような日々だった。

 壁の外にいる彼は、何もかもが自由だった。自分の名前を呼んでくれる。冗談を言って笑う。退屈だと悪態をつく。つまらない遊びだと文句を言いながら、それでも最後にはいつも付き合ってくれる。

 ユラの世界は、アウラと共に色を持った。しかし、その幸せは長くは続かなかった。村はすぐに二人の関係を嗅ぎつけ、大騒ぎとなった。生贄にされるはずの少女が、村の禁忌を破っていた。神に捧げられるはずの無垢が穢された。

 それ以上に問題だったのは、その相手がアウラだったことだ。

 もともとこの村では、アウラは忌み嫌われていた。

 彼は生まれつき奇妙だった。無鉄砲で、いたずら好きで、変に大人びていた。何かと問題を起こしては、大人たちに白い目で見られ、疎まれていた。

 だからこそ、村人たちは迷うことなくアウラの処刑を決めた。

 ——しかし、アウラは笑っていた。

 処刑が決まったというのに、何もかも面白がるように笑っていた。その理由は、すぐに分かった。

 何をされても、傷一つ負わなかったのだ。村人が石を投げても、棒で叩いても、火にくべても、刃を突き立てても。アウラは傷つかない。それどころか、余裕そうにあくびをしてみせた。

 異端の少年は、その瞬間、神の災いとなった。恐怖に震える村人たちは、アウラを閉じ込めることにした。

 代わりの無垢な少女を用意しようとしたが、見つからない。神の怒りを鎮めるには、十年に一度、供物を捧げなければならないという掟。しかし、次の生贄が育つまでには時間がかかる。

 アウラのせいで、村は神の罰を受けることになるのではないか。だが——待てど暮らせど、何も起こらなかった。数年経っても、天変地異は起きず、村は滅ばなかった。神の祟りは、どこにもなかった。

 その事実を、村人たちは見て見ぬふりをした。

 しかし、罪悪感は拭えなかった。村人はばつが悪そうにアウラの顔を避けるようになった。その間も、ユラはアウラと遊び続けた。

 次第に二人は同じ家で暮らすようになった。

 ユラは人懐っこかった。村人たちは、いつの間にかユラと親しく話すようになっていた。ユラの笑顔を見ていると、どんな罪も許されるような気がした。

 罪滅ぼしのように、村人は食べ物を届けるようになった。

 そして、いつしか二人は——村で結婚式を挙げた。ユラにとって、それは何よりも幸せなことだった。

 しかし、アウラの心は違った。アウラは村人を許せなかった。彼らの恐怖も、憎しみも、身勝手な赦しも、すべてが許せなかった。だから、アウラは家に引きこもるようになった。

 村人が世代交代し、過去の出来事が風化していくほどに、アウラの怒りは深くなった。忘れられることが、許せなかった。

 ユラだけが、彼のそばにいた。ユラは外で働きながら、家に帰ればアウラの隣で眠った。それだけでよかった。それだけで、ユラは幸せだった。

 ——だが、ある日。

 アウラが口を開いた。それは、長く壮絶な罪の物語だった。無数の命を奪い、何度も破壊を繰り返し、どこまでも堕ちていった過去。死ねない。どんな痛みを受けても、決して傷つくことができない。何も感じられなくなっていく恐怖。その嘆きと絶望を、ユラは静かに聞いていた。

 アウラは、救いようのない男だった。何もかもが壊れていた。

 それでも——ユラにとって、アウラはただのアウラだった。

 だから、彼を救いたかった。

 その翌日、ユラは旅に出た。アウラを救うために。

 どんな手段を使ってでも、彼を"救う方法"を探すために——。

 ユラは旅を続けていた。

 彼女の目的はただ一つ。アウラの苦しみを、どうにかして救うこと。どんな手段でもいい。どんな代償でも構わない。ただ、アウラのあの哀しげな目を見たくなかった。彼が、過去に囚われたまま、死を望みながら生きるのが、耐えられなかった。

 そうしてユラが辿り着いたのは、ある廃れた村の跡地だった。そこにいたのは、異形の魔族だった。肉が朽ちかけ、骨が露出し、命の灯が今にも消えかかっている。

 アンデッドの魔族——人の人生を喰らい、寿命を奪う存在。だが、目の前の魔族は、もはやその力を失っていた。他の魔族とは違う道を選び、進化を誤った者の末路だった。

 魔族の多くは進化を繰り返し、より強く生きる術を手に入れる。だが、この魔族は戦うための進化を拒み、生み出すことを選んだ。

 その結果、彼は己を守る力を持たず、生き残る術すら失っていた。

 淘汰されるだけの魔族。ただ、それだけの存在。

 それでも——ユラは手を差し伸べた。

 この魔族に、何ができるかも分からず、それでも助けようとした。その姿を見た魔族は、ひどく不思議そうな顔をした。


「何故、私なんかを助ける?」


 その問いに、ユラは優しく微笑んだ。


「アウラが私にしてくれたみたいに、困ってる人がいたら、助けたいの」


 あの時——ユラの前にアウラが現れたみたいに。

 魔族は少し黙った後、ユラのために一つの薬を作った。それは、ユラが望んだ記憶を消す薬。魔族の体の一部を混ぜ込んで作られたそれは、人の記憶を喰らうものだった。

 魔族には、人の心が分からない。だからこそ、その薬は、ユラに関する記憶を消すものだった。記憶を消すと、ユラの記憶を消す事の違いが、わからない。

 その真実を知らないユラは迷うことなく、それを飲み干した。

 ——ゆっくりと、だが確実に、彼女の記憶が失われていく。最初は些細なことだった。どこから来たのかを忘れ、道に迷い、帰る方法を思い出せなくなった。けれど——ユラはそれでも、足を止めなかった。

 朦朧とする意識の中、ボロボロの身体を引きずりながら、必死で歩き続けた。何があっても、最後にアウラに会わなければならないという確信だけが、ユラを動かしていた。

 そして、ようやく辿り着いた時——そこに、アウラがいた。

 ユラは、かすかな安堵の笑みを浮かべながら、小さな瓶を差し出した。


「……どうしても辛くて、しんどくて、忘れたくなったら、その薬を飲んで」


 アウラは、その言葉を聞くなり、ぎりっと歯を食いしばる。


「何で……何でそこまで……」


 俯いたままのアウラの声は、震えていた。ユラの姿を、まともに見ることができなかった。こんなにも傷だらけで、こんなにも痛々しいのに、それでも微笑んでいる。

 その姿が、ひどく、ひどく残酷に思えた。


「俺の過去を知って、このありさまを見て、それでも——」


 そんな俺を、どうして——。


「えへへ。いいの」


 ユラはただ、静かに笑った。


「好きだから」

「……っ」

「大好きだから」

「やめろ……」

「愛してるから」


 その言葉が、アウラの心臓を突き刺した。


「……なんで俺なんかを……」


 ユラのその優しさが、アウラには耐えがたかった。

 何よりも、それが本物だったから。

 アウラと同じ問いを、かつて薬をくれた魔族もユラに投げかけた。

 ——なぜ、そこまでして、アウラを愛せるのか。

 その時も、ユラは同じ答えを返した。

 それは、あまりにも単純で、あまりにも美しい理由だった。


「だって、あの時——。 供物として、ただ死を待つだけだった私に。 掟を破って、壁をよじ登ってきたアウラが。——初めて、私に声をかけてくれたから」


 その瞬間、ユラは泣きながら笑った。


「それだけで、十分だったんだよ」


 たったそれだけ。

 それでも——誰からも見向きもされなかった少女にとって、それは世界そのものだった。

 壁をよじ登ったアウラが、当たり前のように挨拶をしてくれた。

 遊ぼうと、誘ってくれた。


 そう——その瞬間。



 ユラは、一生分の救いを得たのだ。




 ユラの記憶は、ほとんど消えていた。

 まるで風に散る砂のように、ひとつ、またひとつと崩れ落ちていき、手のひらから零れ落ちる。

 すべてが霞の向こうに消え去ったように、もう何も思い出せない。

 ただ——アウラという名前だけが、どうしても消えなかった。

 それが誰なのかも、どんな存在だったのかも思い出せないのに、その名前を思い出すたびに胸の奥が熱くなった。

 ——そばにいてあげないといけない。そう、どうしても、どうしても、そう思わずにはいられなかった。迷いながら、ひとり森をさまよったユラ。

 どこへ向かうべきかも分からず、それでも足だけは止めなかった。

 そして、偶然なのか、それとも運命なのか——ユラはもう一度、あの魔族に出会った。

 それは、かつて彼女に記憶を消す薬を与えた魔族。しかし、今のユラにはその記憶すら残っていない。ただ、ぼんやりとした懐かしさだけが、彼女の心をかすめた。

 魔族は、ユラを見て驚いていた。記憶を失いながらも、なお、誰かのために何かをしようとしている。まるで生まれ変わっても、たとえ世界が変わっても、変わることのない意志を持っているかのようだった。

 その姿に、魔族はひとつの提案をした。


「魔族の子を産めば、魂をアウラの元へ送ってやる」


 それは魔族にとっての契約だった。

 ユラは迷わなかった。たとえ理由が分からなくても、どうしても、その名前を捨てることができなかったから。彼のそばにいたい。それが、ユラの最後の願いだった。

 契約の儀式が執り行われた。魔族の魂がユラの体内に入り、ゆっくりと形を成していく。

 それは浄化された胎児——新たな生命となった。

 ユラは、その子をサリューヌと名付けた。

 そうして月日が流れ、ユラの中でサリューヌは育っていった。だが——ユラはもう、アウラの名前すら思い出せなくなっていた。

 何のためにここにいるのか。誰を愛していたのか。どんなに考えても、霧の向こう側に閉ざされたままだった。

 ただひとつだけ、心に刻まれた想いがあった。——この子を、大切に育てなければならない。ユラはそれだけを頼りに、サリューヌを慈しんだ。しかし、それすらも、果たせることはなかった。

 ある夜、ユラは突然、鋭い痛みに襲われた。まるで内側から、何かが生まれようとしているような——いや、それは生まれるのではなかった。

 ユラの体を突き破り、サリューヌはこの世界に誕生した。

 彼女の命と引き換えに——鋭い裂傷が身体を引き裂き、温かい液体が床に広がっていく。ユラはそれでも苦しみの声をあげなかった。その瞬間、サリューヌはユラの魂を喰らった。

 新たな魔族として転生するための、血の契約。

 彼女が最後に見た光景は、真紅の瞳を持つサリューヌが、彼女の魂を取り込む瞬間だった。

 ——そして、世界は暗転した。

 次にユラが目覚めたとき——気がつけば、ユラはリコット村にいた。

 ユラの魂はサリューヌに食われ、魔族の血の契約により縛られた。その魔力は、彼女の魂を定着させるための鎖となり、運命の場所へと誘う。

 リコット村。そう——そこは、かつてユラが生まれ、アウラと初めて出会った場所。

 ユラの魂は村に縛られ、静かに漂い続けた。誰かの目に映ることもなく、声が届くこともなく、ただそこに存在し続けた。

 やがて、月日が流れた。

 そして——運命の夜、彼は再びこの村に訪れた。燃え落ちた家々。血の匂い。倒れ伏した村人たち。絶望に沈むアウラの瞳。

 しかし、ユラの視界に映ったのは、ただ一人の人間。

 アウラだった。

 何年も誰にも気づかれることなく、誰にも触れることなく、誰にも声が届かなかった幽霊の少女。そんな彼女の姿を、ただ一人——アウラだけが見てくれた。

 彼の声が届いた。彼の手が、確かに触れた。ユラの魂は歓喜し、震えながら、アウラの中へと溶け込んでいった。

 彼女はもうリコット村の地縛霊ではない。今度は——アウラの地縛霊として、この世に定着する。

 約束された魂は、もう二度と離れない。



 すべてを思い出したユラの胸に、ぽつりと小さな灯火のような記憶がよみがえった。

 魂の泉——死者が彷徨う、あの静寂の地。

 あの日、ユラはホメロンと共にそこにいた。別れを告げようとしたその瞬間、ホメロンが彼女を呼び止めた。

 冷たく、穏やかな泉の水が波紋を描く中、彼はゆっくりと口を開いた。


「ちょっと待つのだ、ユラ」


 優しくも力強い声に、ユラは足を止め、振り返る。


「ん?なーに?」


 彼女の問いに、ホメロンはしばし黙した。まるで言葉を慎重に選ぶように。静かな湖面に映る自らの姿を見つめながら、彼は静かに語り始めた。


「アウラに自然と惹かれると言っていたな」

「うん、そうだよ」


 それはユラにとって、疑いようのない感覚だった。何かに導かれるように、ただまっすぐにアウラのもとへ向かっていた。理由はわからなくとも、それが正しいと心が確信していた。

 ホメロンは静かに頷き、言葉を続ける。


「……我もイシアルに魂が自然と引き寄せられる。強い心残りが、我をこの世へととどめているのだ。おそらく、ユラも同じはずだ」


 ユラは、はっとした。

 ——心残り。

 そう、彼女はずっと、何かを求めていた。何かを、取り戻そうとしていた。


「ユラの言うアウラは、ユラが生前一緒に過ごした、大切な人のはずだ」


 心の奥深くに響く言葉。まるで長い年月を経て、ようやく答えを見つけたかのように。


「お互い思い出せなくとも、そのアウラがユラと呼んだのだから……きっと、それが真実なのだろう」


 泉の水面が揺れる。かすかに差し込む光が、波の上できらめく。

 ユラは、そっと胸に手を当てた。——確かに、そこにある。名前も、記憶も失っていた。それでも、たった一つだけ確かなものがある。

 アウラ。

 その名前を聞いた時、心が震えた。涙が出そうになった。何よりも、その名を口にするたびに、胸の奥が温かくなる。

 ホメロンは、ふっと笑った。


「孤独に思うことはないぞ」


 ユラは、驚いたように彼を見上げる。


「その離れられない制限は、誰にも否定できない確かなアウラとの繋がりだ」


 その言葉が、ユラの心を深く満たしていく。

 孤独じゃない。どんなに記憶を失っても、どれほど遠回りをしても——それでも、彼と繋がっていた。

 静かな泉の水が、再び波紋を広げた。

 今なら、わかる。自分が何を求め、どこへ向かうべきなのか。

 ——アウラのもとへ。

 それだけが、ユラにとって、たった一つの真実だった。



 ユラは、ふっと小さく笑った。


「孤独じゃなかったよ。最初の人生も、この二回目の人生も。とーっても幸せだった」


 その言葉は、まるでホメロンに、そして自分自身に伝えるような優しい響きを持っていた。

 けれど、その次の瞬間——。


「ユラ!」


 アウラの叫ぶ声が響く。ユラは驚いて自分の手を見下ろした。指先が淡い光を帯び、やがてそれが全身へと広がっていく。

 ——ああ、これは。この世界との定着が弱まっている。つまり——。


「わたし、成仏しようとしてるんだ」


 そう理解した瞬間、ユラの胸に穏やかな感情が満ちた。

 ——ずっとアウラのそばにいられた。どんな形であれ、彼の隣にいられた。それだけで、わたしは幸せだったんだ。


「アウラ! わたしは幸せだったよ!」


 叫ぶように伝える。しかし、ユラの言葉にアウラは息をのんだ。


「な、なんで。そんな……待ってくれ、俺はまだ……ユラ!」


 戸惑いに満ちた声。信じられないというように、ユラを引き止めようとする手が震えている。ユラは微笑んだ。


「大丈夫。アウラの願いもすぐに叶う。だから先で待ってるね」


 その言葉とともに、ユラの光がさらに強くなる。


「アウラ、後悔なんてしないでね」


 アウラは咄嗟に駆け出そうとするが、体が重い。おぼつかない足で、ユラを追いかけようとする。しかし——。


「……くそっ!」

 必死に伸ばした手は、虚空を掴むだけだった。

 そのまま、アウラの膝が崩れ落ちる。地面に突っ伏し、指先が震える。

 ——ユラがいない。

 唐突すぎる別れに、心が追いつかない。


「……なんで」


 呆然とした声が漏れる。

 ——ずっと、彼女はそこにいたのに。どんなときも、ユラは笑って隣にいたのに。今、アウラの周りには何もない。目を閉じれば、最後に見たユラの微笑みが脳裏に焼き付いて離れない。

 ——固有スキルを共有したまま、ユラが消えた。

 その瞬間、アウラの体から無敵のスキルが失われた。

 それだけではない。

 今まで感じることのなかった痛み、熱さ、冷たさ——全てが五感となって押し寄せてくる。けれど、そんなものはどうでもよかった。

 たった一つの現実。

 ——ユラがいない。

 それだけが、アウラの心を壊していた。


「オノクリア、ロザリアに手を出させるな。そして、アウラとのこの戦いに手を出すな」


 魔王ヘルトの冷徹な命が響く。オノクリアが静かに動き、ロザリアの前に立ちはだかる。


「どきなさい! あんた、何やってんのよ! アウラ……アウラがやられる!」


 必死にもがくロザリアだったが、その双剣でオノクリアを退けることはできない。


「アウラ! 立ちなさいよ! まだ終わってないでしょ! 立ちなさいってば!」


 必死の叫びが、虚空に響く。

 けれど——アウラはただ立ち尽くしていた。ユラとの別れで、既に彼の心は死んでいた。


「だいぶ仲良さそうにしていたな」


 ヘルトが愉悦に満ちた声を漏らしながら、剣を振り上げる。アウラの目は焦点を失い、ただぼんやりとヘルトを見ていた。

 ——痛い。

 頬に、赤い線が走る。ヘルトの剣がアウラを切り裂くと、じわりと血が滲み出る。


「なんで!」


 ロザリアが叫んだ。


「アウラが……血を流してる……!?」


 ——ああ、そうか。ユラがいなくなった瞬間、彼の不死は砕けてしまった。


「これだからこの世界は面白い!!!」


 ヘルトの歓声が、アウラの意識の奥へと響く。

 ぐさり。わき腹に、冷たい感触が突き刺さった。剣がゆっくりと肉を裂き、そこから熱い液体が流れ出る。

 ——これは、血か。ああ、久しぶりに感じるな。

 アウラは痛みに顔を歪ませた。だが、抵抗する気は起きない。もはや、この痛みすらどうでもよかった。

 ヘルトはそれを知っていたのか、一撃で殺すことはせず、じわじわと傷を刻んでいく。

 ロザリアの絶叫が、どこか遠くでこだまする。けれど、それすらも霞んでいた。

 ——もういい。もう、どうでもいいんだ。

 すべてが空虚だった。

 何も感じない。何もしたくない。ユラがいない世界に、未練など残っていなかった。目の前で剣を振るうヘルトも、涙を流しながら叫ぶロザリアも、アウラにはただの風景の一部にしか見えなかった。

 彼は、ただ立ち尽くしながら、静かに終わりを待っていた。


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