第40話 魔王ロザリア
ロザリアの体に、灼熱のような魔力が流れ込んでくるのを感じた。
——イシアルが、上手くやったんだ。
それが理解できた瞬間、ロザリアの血が熱を帯び、肌の内側から何かが暴れ出そうとしているのを感じる。体の内側から迸るような圧倒的な力。それは理性を焼き尽くすほどの魔力の奔流だった。
「……イシアル。お兄ちゃん。皆、今までありがとう」
小さく呟いた声は、誰に届くこともない。
ロザリアは、首にかかったネックレスにそっと手をかけた。
今まで彼女を人間でいさせてくれた象徴。——だが、それもここまでだ。
力を込めて引きちぎると、砕けた金属の破片が宙を舞い、ロザリアの手の中で粉々に潰れた。
次の瞬間、首から上が変容する。
血のように赤い魔紋が肌を覆い、両目には灼熱の魔眼が灯る。
——その瞬間、世界が凍りついた。
突如として、空が漆黒に染まる。光が消え、世界が"夜"に飲み込まれた。
どこか遠くで狼が遠吠えを上げる。空を飛んでいた魔物が動きを止め、荒野をさまよう魔族が立ち尽くす。鍛錬をする者も、戦いに興じる者も、寝ていた者も——その場で息を呑み、天を仰いだ。
魔族たちは空を見上げた。
そこには、巨大な月が浮かんでいた。
——いや、それは"月"ではない。
赤黒い魔眼の紋様を刻んだ、"魔王"の証。
それは世界に宣言する。
新たな魔王の誕生を。
ロザリアの唇が、ゆっくりと動いた。
「跪け」
その一言で——世界が沈んだ。
空を飛んでいた魔族が、地に叩きつけられる。荒野を駆けていた魔物が、身体を震わせながら地を舐めるように伏せる。戦っていた魔族が剣を取り落とし、膝を折る。
家にいた者も、洞窟に潜む者も、水の中にいた者も、死して動いていたアンデッドすらも——魔王の声に逆らうことはできない。
それは魔族の宿命であり、本能。
魔王の命令は、絶対である。
それは、"次元の使者"黎明のバランすらも例外ではない。
たとえこの場にいるのが分身体であろうと——ロザリアの前で、バランは跪いた。
沈黙が支配する。
ロザリアの口角が、わずかに上がった。
「引け」
ただそれだけの言葉が、世界に響き渡る。
魔族たちは一斉に動き出した。——いや、逃げ出した。開かれた無数のゲートに向かい、四肢を震わせながら、次々と消えていく。数秒前まで戦場であった場所は、一瞬にして無人の荒野へと変貌した。
圧倒的な、王の支配。
バランの顔には、すでに恐怖すらもない。ただ粛々と——忠誠を誓う者の目でロザリアを見つめていた。
「アウラのもとへ繋げなさい」
命令は冷たく、短く。バランは、従うしかなかった。空間がねじれ、闇の中から漆黒のゲートが開かれる。ロザリアは迷うことなく、その中へと歩みを進めた。
漆黒の闇が彼女を包み込む。
——その瞬間、世界中の魔族は悟った。
魔王ロザリアの誕生を。
そして、新たな時代の到来を。
魔王城の広間には、冷たく沈黙する空気が漂っていた。
天井に揺らめく燭台の灯が、石壁に長く歪んだ影を落とす。その中央に、魔王ヘルトは悠然と立ち、獲物を弄ぶようにユラの小さな体を掴んでいた。
その時――。
ユラの脳裏に、一瞬の閃光が走った。リントブルムでアウラを助けたあの瞬間。そして、ヘルトの手がユラの背中に触れた時――彼女は「忘れていた記憶」を垣間見た。
――石の祭壇。小さな体でただ祀られていた自分。
それだけだった。だが、それだけで十分だった。霧の中に隠されていた生前の記憶の一片が、今、確かにユラの意識に刻まれた。
もしかすると、ヘルトはその時からユラの「本当の正体」に気づいていたのかもしれない。
「……っ!」
ユラは眉をひそめ、苦しそうに喘ぎながらヘルトの腕から逃れようともがく。だが、その抵抗はあまりに頼りなかった。彼女の小さな拳がヘルトの腕を叩く。しかし、それはまるで幼子が石壁を叩くようなもので、一切のダメージすら与えられない。
「ユラ!!!!!!!!」
その悲痛な叫びとともに、アウラが衝動的に駆け出した。
しかし――。
「動くな、マタダム!」
鋭い声がその動きを制した。
アウラの前に立ちはだかったのはオノクリア。その瞳には冷たく確信めいた光が宿っていた。
「こいつが死ぬぞ」
ヘルトの言葉に、アウラの足がピタリと止まる。敵に屈したわけではない。ただ、ユラの命が懸かっている限り、無謀な行動は許されなかった。
「さぁ……お前が何者か、知ろうじゃないか」
ヘルトの手に勇者の紋様が輝き始める。その力がユラの記憶を覗く――アウラとの出会い。仲間たちと過ごした楽しい冒険の日々。孤独に漂っていたあの頃の記憶。
そして――場面が急激に飛んだ。映し出されたのは、生前のボロボロのユラ。かつて彼女が、ある魔族に「サリューヌ」という名を与えた、あの瞬間――世界が、黒に染まった。
ヘルトの表情がわずかに歪む。彼の力は、一旦その働きを止めた。
「……なんだこれは?」
戸惑うヘルトに、オノクリアが静かに答えた。
「新たな魔王の誕生です」
その瞬間、空間に亀裂が入るように、ゲートが開いた。そこから現れたのは――ロザリア。
だが、彼女はすでに「人間」ではなかった。彼女は「新たな魔王」となっていた。
ロザリアは状況を瞬時に理解した。ヘルトの手に捕らわれている何か。まるで人質を握るかのようなその手。アウラが動けないでいる理由。
「……まさか、ユラを?」
ロザリアの声が震えた。迷いはなかった。
「止まれ!」
オノクリアへの怒号とともに、ロザリアは一瞬でヘルトに向かって跳んだ。風を裂くような疾走。誰も追いつけない速さ。――誰も、のはずだった。
「……何で動けるのよ!?」
ロザリアの目が見開かれる。
そこに立ちはだかったのは、またしてもオノクリア。彼は魔王ロザリアの支配下に置かれていなかった。
「アウラ!」
ロザリアの声が響く。
アウラは迷いなく飛び出した。だが、その道を阻む者がいた。
オノクリア。魔王の側近にして、この世界において最強に最も近い存在。その力の源は、彼が持つ固有スキル《猛者》。——対峙する者よりも、常に強くなる。その絶対的な理が、オノクリアを"敗北しない存在"にしている。
ロザリアが双剣を閃かせ、オノクリアを迎え撃つ。しかし——圧倒的だった。
僅か一閃。ロザリアの体が吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。そして、オノクリアの影が、アウラへと迫る。
――しかし、間に合った。
アウラの手が、ユラの体に触れた瞬間――オノクリアの拳がアウラの横腹に突き刺さった。
アウラの体が空間を裂くように吹き飛び、王座の間を突き抜ける勢いで後方へ弾かれた。骨が砕けるような鈍い音。建物の壁がひしゃげる。だが、アウラは不死だった。傷を負うことはなく即座に立ち上がる。それでも、オノクリアの拳が"痛い"と思わせるほどの衝撃だった。
何が起こったのか分かっていないユラが、震える声で呟いた。
「……なに、これ」
しかし、ヘルトは違った。彼の唇には、理解した者の笑みが浮かんでいる。
「そういうことか」
ヘルトが興味深そうにアウラとユラを見つめる。
「これがアウラの"肩代わり"のスキル——いや、進化した"不死"の形か」
——それは、アウラが気づかぬうちに、変質していた。
かつて、アウラのスキルは"肩代わり"だった。自らが負うべきダメージを、ヘルトへと肩代わりさせることで、ヘルトは無敵の存在となった。だが、アウラがヘルトからそのスキルを解除したとき、それはすでに"別のもの"へと変貌していた。
ただダメージを肩代わりするものではない。——固有スキルの共有。触れた相手に、自分のスキルを分け与える。
今、ユラに触れたアウラのスキルが、ユラと"繋がった"。
だが、それが何を意味するのか——その全貌を理解している者は、まだ誰もいなかった。ユラにスキル通じ、死なせないようにすることができたのかも、アウラにはわからなかった。
ユラという特異な存在に、アウラは期待するしかない。
ヘルトの目が細まる。
「……だからどうした」
静かに、だが嘲笑を込めた声が響く。
「アウラ、あと一歩遅かったな? 私のスキルの方が先に発動していた」
その瞬間、ヘルトの腕に宿る光が、神聖な輝きを放った。
勇者の紋様が、王座の間を照らす。
黄金の光が、ユラを包み込む。
アウラが手を伸ばした。
だが、その指先は、霧のように溶ける光に飲まれた。
——ユラの過去が、今、あらわにされる。




