第39話 ミラルフ
小さな村の外れに、誰からも訪れられることのない家があった。そこに住んでいたのは、成長の止まった少女——ミラルフ。
村の人々は彼女を恐れた。彼女に触れた者は、自らの"死"を見るからだ。
固有スキル《予知》。稀に発動する、"未来を視る"固有スキル。しかし、見る未来はいつも死の瞬間だった。どんなに穏やかに生きている人でも、戦士であっても、子どもであっても——触れた瞬間に、"いつか来る死"を目の当たりにすることになる。
だから、村人たちは彼女を避けた。もしミラルフと触れ合えば、自分がどう死ぬのかを知ってしまう。それを受け入れられる者は、ほとんどいなかった。
「お前に触れられたら、不吉な未来を見せられる」「疫病神だ」「私の夫も、ミラルフに触れたあとに戦で死んだ……」
そんな言葉が日常だった。幼い頃からずっと、ミラルフはひとりだった。
——別に、それでもよかった。
ミラルフ自身もまた、自分が長く生きられないことを知っていた。体のあちこちが弱く、歩くだけでも疲れる。生きる意味なんて、考えたこともなかった。だから、このまま、静かに村の片隅で死んでいくのだろうと——彼女はそう思っていた。
その日、彼が現れるまでは。
「——ここから、一緒に出よう」
村の広場で、ミラルフの前に立つ男がいた。陽の光を背にした彼の顔は、眩しくて見えなかった。だが、その声だけは、妙に心に残った。その手は、迷いなく差し出されていた。
ミラルフは、自分のことを知っているはずのその男を、ぼんやりと見上げた。
「……私と?」
「そう。一緒に旅をしよう」
何を言っているのか、この男はわかっているのだろうか?私に触れれば、あなたの"死"を見せることになるのに。
だが、男の目は真っ直ぐで、何の迷いもなかった。彼の背には、村人たちが遠巻きに見つめる姿がある。"疫病神"と呼ばれた少女に、手を差し伸べる男。その姿は異様で、ありえない光景だった。
「……いいの?」
「いいさ。君が望むなら」
望む?私は何も望んだことなんてないのに——それでも、ふと、思った。この村でひとり、静かに死を待つだけなら——どうせ寿命が短いのなら——どこか遠くに行って、見たことのない景色を見てもいいかもしれない。
ミラルフは、小さく息を吐いた。そして、勇者レペンスの手を取った。その瞬間——世界が揺れた。
視界が反転し、時間が歪み、意識が遥か遠くへ飛ばされるような感覚が襲う。
そして——目の前に広がっていたのは、見たこともないほど美しく、華やかな光景だった。
まるで絵画のように鮮やかな城の大広間。高くそびえる天井には美しいシャンデリアが輝き、花々の香りが優しく風に乗る。音楽が流れ、人々が歓喜に満ちた笑顔で二人を見つめていた。
ミラルフは、ぼんやりと自分の姿を見た。——白いドレスを着ている。柔らかく揺れるレース。手元には、誰かの温もり。視線を上げると、そこには——。
「……レペンス?」
ミラルフの手を引き、彼と踊る自分がいた。まるで夢の中のような光景。レペンスは彼女の手を優しく握り、笑っていた。ミラルフの心臓が、妙に大きく跳ねた。
——これ、なに?
鼓動が速い。頬が熱い。胸の奥がくすぐったいような、妙にこそばゆい感覚に襲われる。
それは、今まで見たどの"未来"とも違っていた。
ミラルフの予知は、これまで"死"しか見せてこなかった。触れた相手がいつ、どこで、どうやって死ぬのか。それだけを見せ続けてきた。
でも——これは違う。
生きている——幸せな未来だった。——しかも、レペンスとの。
「……え?」
信じられない、けど間違いじゃない。確かにこれは、未来の自分たちだ。
——こんなの、見たことない。こんなの、信じられない。だが、否応なく理解してしまう。これは"絶対に訪れる未来"なのだと。
ミラルフの《予知》は、決して覆ることはない。彼女が見た未来は、必ず現実となる。
視界が急速に元に戻り、意識が現実へと引き戻される。ミラルフは、驚きのあまり言葉を失ったまま、目の前のレペンスを見上げた。彼もまた、ミラルフをじっと見つめていた。
「……君も見たか?」
静かな声。レペンスは、少し驚いたように微笑んだ。
——そうか、彼も。彼もまた、"絶対に訪れる未来"を見たのだ。
二人は、黙ったまま顔を見合わせた。
——その未来が、本当に来るのかどうかもわからないのに。……いや。"わからない"のではない。"来る"のだ。未来は、もう決まってしまった。
ミラルフは、レペンスの手を強く握った。
「……一緒に、行く」
気恥ずかしさを押し込めながら、彼女は小さく呟いた。
レペンスの笑みが、少しだけ深くなる。
「うん」
それは、揺るぎのない未来への約束だった。
それからの二人の旅は、想像以上に刺激的だった。世界のあちこちを巡り、たくさんの人を救い、たくさんの戦いを乗り越え、たくさんの笑顔に触れた。ミラルフは、初めて"生きる意味"を見つけた気がした。
そんな二人の前に、"彼"が現れた。
「……おい、そこのお前。何をしている?」
朽ちた神殿の前で、ミラルフとレペンスは、一人の男を見つけた。彼は生気のない目をしていた。黒いコートに身を包み、疲れたように空を見上げている。だが、二人が近づいても、彼は微動だにしなかった。
「なあ、お前、名前は?」
レペンスが問いかけると、男はゆっくりと視線を向けてきた。
「……マタダム」
低く、どこか乾いた声。彼の姿には、妙な違和感があった。人間のようで、人間ではない。レペンスは、彼の目を見つめたまま、静かに口を開く。
「お前——死にたいのか?」
その言葉に、マタダムは微かに目を細めた。
「……ああ」
まるで、それが当然であるかのように。
ミラルフは、その瞬間に気づいた。この男は"不死"なのだと。彼はどんなに傷ついても、どんなに苦しんでも、決して死ねない存在なのだと。
ミラルフは、自分の予知の力が、この男には通じないことを悟った。彼は、未来に"死"がない存在だから。
レペンスは微笑んだ。
「なら、お前も来い。俺たちと一緒に旅をしよう」
「……は?」
「どうせ死ねないなら、今くらい楽しく生きてみろよ」
マタダムは、しばらく二人を見つめた。そして、小さく——微かに笑った。
「……バカか、お前」
こうして、三人の旅が始まった。
勇者レペンスは、困っている者を見つけるたびに迷いなく救いの手を伸ばした。その姿はまるで太陽のようで、どんな絶望の中にいる人にも希望を灯した。
最初のうち、マタダムはそんな彼を呆れたように見ていた。無駄なことばかりしている、どこまでもお人好しな奴だと小言を並べていた。だが、いつの間にかその言葉は減っていった。
それどころか、気がつけばマタダム自身も手を貸していた。自分がどう思われるかなど気にせず、ただ目の前で困っている人のために。最初は"仕方なく"だった。だが、それを見てミラルフとレペンスが嬉しそうに微笑むのを見て、マタダムはふと気づいた。
——最近、自然と笑うことが増えた。
最初は気味が悪かった。慣れない感情が、胸の奥をくすぐるようだった。だが、それを見て喜ぶ二人の笑顔を見て、彼は黙ってそのまま受け入れた。
レペンスは剣を教えた。敵を倒すための剣ではなく、人を守るための剣。誰かを助けるための力と、誰かの手を引くための腕。戦うことの意味を、彼は言葉ではなく背中で示してくれた。
ミラルフは、魔法を教えた。光を灯す術、水を生み出す方法、風を通す仕草。生きるために必要な術、そしてそれ以上に——"自分を休ませること"の大切さを、優しい声で伝えてくれた。
「——自分を許してあげて」
ミラルフの言葉が、マタダムの心の奥深くへと静かに沁み渡った。
そして最後に、彼女は魔法書の書き方、日記のつけ方を教えた。
「どんなに長く生きても、どんなに強くなっても、言葉を残すことを忘れないで」
そう言って、ミラルフは古びたノートを差し出した。マタダムは、それを無言で受け取ると、不器用な字で最初の一行を綴った。
「……生きている」
それは、彼が初めて自分で認めた"今"だった。やがて、三人の旅は"最強"と呼ばれるようになった。
物理攻撃の勇者レペンスと、魔法攻撃のミラルフ。その二人を支えるように、マタダムは盾となり、賢者となった。彼は決して前に出なかった。剣を振るうこともなかった。ただ、ひたすらに二人の背を守り、傷を癒した。
"救えるのならば、魔族すら救う"
そんな信念のもと、三人は魔王デネボラのもとへと辿り着いた。
時が経ち、王都デネボラが築かれた頃——ミラルフの命は、すでに長くはなかった。
建国祭の夜、王城の大広間で響く優雅な旋律。
ミラルフはレペンスの手を取ると、ふっと微笑んだ。
「……最初に見た未来が、やっと訪れたね」
かつて、初めて出会ったあの日。手を重ねた瞬間に見た未来——それは、二人が城の中で祝福されながら踊る姿だった。"これが、約束された未来"レペンスの手はあの時と同じように温かかった。ミラルフは、ゆっくりと瞳を閉じる。
そして——勇者レペンスは旅に出た。人々を救うため、魔族と人族を繋ぐ架け橋を探すために。
マタダムは、レペンスに託されたその名のまま、英雄試練を作った。
そしてミラルフは、残された時間を魔王デネボラと過ごした。
王都デネボラが築かれたばかりの頃、まだ荒れた土のままの城の庭に、三人の影が並んでいた。
ミラルフと勇者レペンスが、デネボラの左右に寄り添うように膝をつき、小さな花の苗をそっと植えている。ミラルフは柔らかい手つきで土を押さえ、レペンスは少し不器用にそれを真似る。デネボラは、二人の手の動きをじっと見つめながら、ぎこちないながらも土を掘り、小さな花を埋めていく。まるで、本当の親子のようだった。
レペンスが微笑みながらデネボラの手を優しく直し、ミラルフが嬉しそうに頷く。「綺麗になるといいね」と言わんばかりに、ミラルフは静かに目を細める。
そんな光景を、少し離れた場所でマタダムは腕を組んで眺めていた。つまらなさそうに、退屈そうに、しかしその目はほんの少しだけ興味を持っているようにも見える。「こんなの、何が楽しいんだ」と言いたげな表情を浮かべながら、しばらくその場を離れずに立ち尽くしていた。
けれど——月日が流れ、あの日植えた小さな花々は、いつの間にか城の中心に大きな花畑となって広がっていた。
色とりどりの花が風に揺れ、陽の光を浴びてきらきらと輝く。まるで、この場所が長い年月をかけて祝福されてきたかのように。
ミラルフは、その真ん中に立ち、デネボラの銀色の髪にそっと花飾りを乗せた。レペンスにも、この景色を見せてあげたかった。あの日、一緒に膝をついて植えた花が、こんなにも大きく広がったのだと、彼にも伝えたかった。
そう思うと、少しだけ胸が締めつけられるような感覚がした。
けれど、今ここにいるのは、ミラルフとデネボラ、そして——腕を組み、つまらなさそうに眺めていたはずのマタダムだった。
ミラルフはその真ん中に立ち、デネボラの銀色の髪にそっと花飾りを乗せた。
「ほら、似合ってるわ」
デネボラは、ふわりと頭を傾ける。ミラルフが笑う。それを少し離れた場所から眺めていたマタダムは、なんとも言えない顔をしていた。
「くだらない……こんな子供の遊び、意味があるのか」
「あるわよ」
ミラルフは振り返ってにっこりと微笑んだ。
「大事なのは、何をするかじゃないの。一緒に過ごすことよ」
そう言って、マタダムの腕を引くと、花畑の中に無理やり座らせた。
「まったく……」
口では不満を漏らしながらも、マタダムは結局、二人と一緒に花の冠を編んだ。
デネボラは黙ってその様子を見つめていたが、やがて小さな指で一輪の花を摘み取ると、不器用ながらもマタダムの頭に乗せた。
「……お兄ちゃん」
ぽつりと呟くデネボラ。マタダムは驚いたように目を見開いたが、すぐに顔をそらして「まったく」と、また呆れたようにため息をついた。
それを見たミラルフは、幸せそうに目を細めた。
——そう、これは"家族"だった。
自分に家族ができるなんて、思ってもいなかった。
旅の中で、レペンスと築いた絆。そしてここで、マタダムとデネボラと共に過ごした時間。最初に見た"幸せな未来"が、とうとう叶ったのだ。
それから三人は、花を育て、料理を作り、絵を描いた。
「おい、ミラルフ、料理が焦げてるぞ」
「えっ!? そんなはず……! ……あっ」
「ダメだな。ほら、任せろ」
ぶつぶつ言いながらも、マタダムは手際よくミラルフの料理を手直しした。
「お兄ちゃん、さっきより上手になってる」
「……あんたよりはな」
「言ったわね? じゃあ、今度勝負しましょ?」
デネボラは、そのやり取りを静かに眺めながら、手に持ったクッキーを小さく齧る。
「……おいしい、お兄ちゃんのほうが」
「でしょう?……って、え!?」
ミラルフが笑い、マタダムが目を逸らす。
——こんな日々がずっと続けばいいのに。
そう思うほど、幸せな時間だった。けれど、その幸せな時間は、ゆっくりと終わりへと向かっていた。そして、ミラルフの最期の時が訪れた。
マタダムは、デネボラの手を引き、病床のミラルフの元へと向かった。
ミラルフは、弱々しくも優しい手つきでデネボラの髪を撫でた。
「将来、人になりたい。もっとわかるようになりたい。そう思った時は、私の体を使いなさい」
デネボラの目が瞬き、じっとミラルフを見つめる。
「形から入れば、わかることもあるかもしれないし……あなたなら、新たな選択肢、未来を生み出せるかもしれない」
「……」
デネボラは、何も言わない。ただ、そっとミラルフの手を握りしめた。
「私はあなたの思い出の中で生きていくわ」
ミラルフは、マタダムの方へと視線を向けた。
「マタダム、あなたも心配することはないわ。思い出は、心が、体が、ずっと覚えてるものだから」
「……バカか」
マタダムの声は、震えてい。ミラルフは、ゆっくりと手を伸ばし、マタダムの腕を引いた。
「ほら、こっちにいらっしゃい」
「……なんだよ」
「あなたも、私の大切な子供なのよ」
そう言って、ミラルフはデネボラを抱きしめる腕とは反対の手で、マタダムを強く抱きしめた。
「私は、この家族で幸せだった。一緒にいてくれてありがとう。付き合ってくれてありがとう……私を、母にしてくれて、ありがとう」
震える声でそう言うミラルフ。
その言葉に、マタダムはこらえきれずに涙をこぼした。
「……ありがとう」
ミラルフは、最後の力を振り絞り、微笑んだ。
その瞳には、今まで見たどんな未来よりも、何よりも——"幸せ"が映っていた。
王都デネボラ、王座の間。
ロメオの手が震えていた。
「ヘスティ……ヘスティ……っ!!」
何度も何度も、その名を呼ぶ。
腕の中にあるのは、あまりにも小さな体。あまりにも軽すぎる命。ロメオの胸元に抱きしめられたヘスティは、まるで眠っているようだった。
血に濡れた純白の髪が、夜の光に揺れる。けれど、その瞼はもう二度と開かない。勇者の聖剣が突き立てられたその胸は、魔族特攻の力を浴びて、容赦なく命を削られていた。
ロメオの指が、震えるほどの優しさで、彼女の頬に触れた。冷たい。
「……嘘だろ……?」
喉が詰まる。声が出ない。ロメオの目から涙が零れ落ちる。
——こんな、馬鹿な話があるか?
最愛の人が。ずっと傍にいた人が。
今、目の前で、腕の中で、静かに命を終えようとしている。
そんなこと、あっていいはずがない。
ロメオの震えた手が、ヘスティの肩を揺らした。
「……ヘスティ……起きてくれよ……頼むよ……お願いだ……!」
反応はない。ただ、血の匂いだけが、辺りに満ちていく。
——イシアルは、何も言えなかった。ただ、両手を見下ろしていた。その手にこびりついた鮮血が、彼女の罪を焼き付ける。
「……ごめん……」
絞り出した声は、ひどくかすれていた。
「ごめんなさい……」
震える唇から、謝罪の言葉が次々と零れる。けれど、それは誰に向けたものなのか。
ロメオか?
ヘスティか?
——それとも、自分自身か。
頭の中に、まだ焼き付いている。勇者の力が見せた、ミラルフとヘスティの記憶。ミラルフがデネボラの髪に花冠を乗せ、幸せそうに微笑んでいた記憶。人間になりたいと願った、無邪気で、純粋な願い。
その未来を、イシアルが殺した。
ミラルフが残した最後の言葉が、何度も何度も脳裏にこだまする。
ヘスティを生かしたかった。彼女に、生きる理由を与えたかった。
ミラルフはそう願って、あの時、確かに微笑んだのに。
その願いを——イシアルの手が、叩き壊した。
「……ごめんなさい……!!」
叫びが喉を裂いた。
世界がぐにゃりと歪む。
どれほど謝っても、何も変わらない。どれほど泣いても、ヘスティはもう戻らない。
ロメオの慟哭が、耳をつんざく。
「……神様、どうか……」
震えながら、ロメオが祈るように呟く。
「どうか……嘘だって言ってくれ……!!」
それは、無意味な祈りだった。
神などいない。
奇跡など起こらない。
ただ、血の匂いだけが、冷たい風に溶けていく。
ロメオの腕の中で、ヘスティの小さな体は、もう二度と動くことはなかった。




