第36話 イシアルの覚悟
王都デネボラに到着して、まだ間もない頃。
イシアルは広すぎる自室の天蓋付きのベッドに座り、静かな夜の帳を見つめていた。城の中の生活は、まだ馴染めない。煌びやかで整えられた空間は、どこか現実味がなく、むしろ居心地の悪さを感じさせた。
重厚なカーテンを揺らす夜風に誘われるように、イシアルは窓を開ける。冷えた風が頬を撫で、髪をやさしく揺らした。
その時だった。
遠く、城壁の上に立つひとつの影を見つける。黒い髪が月光に淡く照らされ、静かに風に流されていた。アウラだった。ただそこに立ち、遠くの夜空を見つめる姿は、まるで世界から切り離されたような孤独なシルエットに見えた。
イシアルは、ふと心が引かれる。躊躇いなく部屋を出ると、音もなく城の廊下を歩き、城壁へと向かった。
アウラは、誰かが近づく気配を察して振り返る。驚いたように、一瞬だけ目を見開いた。
「おお……どうした、寝れないのか」
その声音は、どこか柔らかかった。イシアルは微笑みながら頷く。
「ええ。ちょっと……部屋も広すぎて、私にはもう少し質素な方が落ち着くわ」
アウラは、その言葉に静かに目を細めた。
「そっか。似てるな」
そう言って、彼はふっと微かに笑った。その笑顔は、どこか懐かしさを孕んでいた。イシアルの胸が、じんわりと温かくなる。
——似てる。
アウラが、そう言った。
ユシカ島で、扉越しに聞いたアウラの過去。アウラは、自分の過去をイシアルだけに語ってくれた。そのことを思い出し、イシアルは静かに目を伏せる。
彼の過去を知ることは、イシアル自身にとっても救いだった。完璧でなくていい。悪者でも、悪人でも、汚くても、醜くてもいい。そんな風に、アウラの言葉は自分を肯定してくれるような気がした。
アウラの瞳の奥に映る孤独な影が、どこか自分と重なって見える。だからこそ——アウラが言った「似てる」という言葉が、心の奥にそっと染み込んでいった。ただの慰めではなく、ただの気休めでもない。共に歩んできたからこそ、彼は本気でそう思ってくれたのだと、イシアルには分かった。
だからこそ——。
イシアルは、静かに夜空を仰いだ。
吹き抜ける風が、彼女の決意を固めるように、そっと背中を押していた。
王都デネボラの夜は静かだった。広大な城下町は、温かな灯りがぽつぽつと浮かぶ星のように揺れている。夜風が吹き抜ける城壁の上、アウラとイシアルは並んで立っていた。
「そうね。貴方は何をしてるの」
イシアルの問いかけに、アウラはぼんやりと街の方を見つめた。
「そーだな……」
彼は少し間を置き、まるで自分に言い聞かせるようにぽつりと呟く。
「イシアルならいいか」
月光に照らされた横顔には、普段の冷静さとは異なる影が落ちていた。
「寝れなくなったんだよ」
意外な答えだった。
「そっか。ユラは?」
「ユラ? 俺が寝れなくなったことは知ってる。今は多分、変な寝相で寝てるよ」
アウラは微かに口角を上げる。
「俺が見た時は、絵画から顔を出して寝ていたな。お前が絵画になどーすんだって思ったよ」
イシアルは呆れたように肩をすくめるが、アウラの表情にはわずかに優しさが滲んでいた。城の中でのユラの自由気ままな姿を想像し、思わず小さく笑う。
だが、その笑みはすぐに消え、アウラは真剣な声で続けた。
「イシアル、一つお願いしてもいいか」
「聞いてから考える」
「それはそうだ」
夜風が吹き抜ける。アウラは城下を見下ろしながら、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「……ヘスティの《魔王》の力がロザリアに継承されている」
イシアルの胸が強く波打つ。思いもしなかった言葉に、一瞬息が詰まる。夜の静寂が、より深く重く感じられた。
「……わざわざそんなことを言うってことは、もう人間には戻れないってこと?」
「現状はな」
アウラは淡々と言う。その言葉の裏にある重みを、イシアルは理解していた。
「……あのネックレスが壊れなければ、完全に魔族にはならないと言っていたけど、ここ先……魔王軍との戦いで壊れる、もしくは壊さないといけないってこと」
「……ああ。可能性があるだけだけどな」
アウラの視線は、遠くの城門の先へ向けられていた。
「被害を最小限に抑えるなら、ロザリアを魔王にするしかない」
冷たい現実が、夜気よりも鋭くイシアルの胸を突き刺す。
「ロザリアを魔王にしない選択をした場合、人族の被害は飛んでもなく膨れ上がるだろう。けど、ロザリアを人に戻す可能性が潰えることはない」
イシアルは拳を握る。どの選択肢も、どこかに犠牲がある。
「……私が勇者として立ち上がり、強くなろうとしても、ロザリアが人間になる方法も、どんな選択肢も、被害を抑えようと思ったら時間が足りないわけね」
「ああ」
アウラは短く返す。彼の瞳には、どこか遠いものを見るような静けさがあった。
「俺は散々人を殺してきた。どちらが正解かなんてわかんない。そもそも死ぬために旅してるから」
「……それを私だけに伝えたってことは、一番被害の少ない選択……ロザリアを魔族の王にする選択を、私が選ぶと思っているんでしょ」
イシアルの声は静かだった。夜風が二人の間を吹き抜ける。アウラは、ただ頷いた。
「ああ」
それは、確信だった。
「俺は全員を救おうなんて思ってない。ただ、目の前に救えそうなやつがいたら救うだけ」
——アウラのその言葉は、彼が世界中の人々よりもロザリアやイシアルを優先するという意志をはっきりと伝えていた。同時に、もしイシアルが自分や仲間を犠牲にして世界を救う選択をしたとしても、アウラはそれを邪魔しない。それぞれの選択を尊重しながらも、アウラの中にある「救い」の基準は、ただ「目の前にいる者」だった。
イシアルは、そっと目を伏せる。——選ぶのは自分だ。それが、アウラの伝えたかったことなのだと、イシアルは理解した。
イシアルはゆっくりと息を吐いた。夜の風が揺らぎ、彼女の髪を静かになびかせる。城壁の上で二人だけの世界が続いていた。
アウラは月明かりに照らされながら、ただ黙ってイシアルの言葉を待っていた。その横顔には、いつもの無機質な静けさがあったが、どこか優しいものが滲んでいるようにも思えた。
「なら、《魔王》の力を教えて」
イシアルの声は低く、しかし揺るぎなかった。
「世界を支配するほどの力があるという固有スキルを——」
魔王。それは、全ての魔族を支配下に置く力。魔族の王として君臨するだけでなく、その生みの親である破壊神ダリアムすらも例外ではない。
アウラは、淡々と頷いた。
「《魔王》の力がある限り、どんな魔族もその支配を逃れられない」
風が吹いた。イシアルは目を細める。
「……なにそれ。前の魔王が敵対心のないヘスティでよかったわね」
思わず漏れた皮肉に、アウラはわずかに口元を緩める。
「ああ。まったくだ」
その呟きには、僅かな安堵と皮肉が滲んでいた。
——もしヘスティが、かつての魔王デネボラが、違う心を持っていたなら。この世界は、とうに滅んでいた。しかし今、目の前にはもうひとつの選択肢があった。
ロザリア。彼女にこの力を与えるという選択肢が——。
イシアルは月を仰ぐ。夜空は静かで、吸い込まれそうなほどに澄んでいた。しばらくの沈黙の後、彼女はアウラに向き直った。そして、今まで誰にも言えなかった本心を口にする。
「ねぇ、アウラ」
真っ直ぐにアウラの瞳を見つめる。
「私に、あの見た目を変える魔法を教えて」
アウラの目が、わずかに細まる。
「……なぜだ」
イシアルはゆっくりと息を吸った。吐き出すその言葉は、まるで長く閉じ込めていた感情を解き放つように。
「私はもう、ロザリアへの……この恋心を意識してしまったから」
胸が軋むように痛む。言葉にした瞬間、それが現実として彼女の中に深く刻み込まれた。
「私は、表立って皆を導くような勇者にはならない」
ロザリアのようにまっすぐに光の道を進むことはできない。イシアルは違う。自分にできることは——。
「日陰に回って、皆の苦しみを、汚名を背負う」
誰もが望まない道。泥を被り、罪を背負い、それでも誰かのために生きる道。それが、自分の選んだ勇者の在り方だった。
「……そんな勇者になる」
イシアルの瞳が揺れる。そして、最後にそっと言葉を紡ぐ。
「……うん、そんなロザリアの勇者でありたいの」
愛してしまった人を、魔族にしなければならない。ロザリアを、魔王にするという選択を——自分が選ぶ。その覚悟を、イシアルは静かに噛み締めた。
夜風がそっと吹き抜ける。それはまるで、何かの別れを告げるように冷たく、けれど優しく肌を撫でた。




